2022年9月7日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 4:1~6

 ペトロの手紙一 4:1-6

 「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから」(1節)と書かれていました。キリストの受けた苦しみについては、これまでも繰り返し言及されてきました。近いところでは3章18節に「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」と書かれています。

 以前も申し上げましたように、そのようにキリストの御苦しみに繰り返し目を向けるのは、先週も触れましたように、この手紙の読者が迫害の中にあったからです。そして、不当な苦しみに対して悪を返すことなく、善を行って耐え忍ぶことは困難なことだからです。それはキリストに目を向けることなくしてなし得ないのです。

 しかし、今日の箇所ではそこに新しい要素が加わっています。「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と言うのです。「武装する」という言葉は当然のことながら戦いを前提とした言葉です。すなわち敵が存在することを前提とした言葉なのです。

 キリストは肉に苦しみをお受けになりました。苦しみを加えたのは具体的にはユダヤ人たちです。しかし、キリストにとってユダヤ人たちは「敵」ではありませんでした。キリストが苦しみを受けたのは、「あなたがたを神のもとへ導くため」だったというのです。ならば、キリストが本当の意味で戦っていたのは、人を神から引き離していた者、すなわち悪魔です。ならば、私たちもまた、苦しみに遭う時に、悪魔と戦うつもりで武装しなくてはなりません。「同じ心構えで武装しなさい」とはそういうことです。

 人間相手に戦うのならば、それなりの武装の仕方があります。実際、そのように人間は個人的な戦いにおいても、国家的な戦いにおいても武装してきたのでしょう。しかし、キリストと同じ心構えで人間相手ではなく悪魔と戦うのなら、武装の仕方は異なります。ペトロはどのように武装したらよいのか、具体的には語りません。それは語られずとも既に皆が了解していたことだからです。

 そもそもキリスト者となること自体が、兵士となることとして理解されていたのです。聖礼典を指す「サクラメント」という言葉があります。それはもともとラテン語でローマの軍隊への入隊式を意味する言葉だったのです。だからキリスト者が武装することは、いわば当たり前のことだったのです。兵士なのですから。

 教会が始めの頃から皆の共通理解としていた武装の仕方の一例は、エフェソ6:14以下に記されています。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(エフェソ6:14-17)。今日はその内容には触れませんが、改めてこの箇所をじっくり読んで、自分が何を身に着けなくてはならないか黙想する時間をとってください。

 いずれにせよ、武装するのはただ苦しみに耐えるためではなく、戦うためです。悪魔と戦うということは、いわば悪魔の最も嫌うことをするということです。キリストは、悪魔と戦って、私たちを神のもとへ導いてくださいました。私たちの戦いは、神へと導かれた私たちが罪から離れることです。そして、神の御心に従って生きることです。

 私たちが正しく武装しているならば、不当に与えられる苦しみさえも、神から私たちを引き離すことはありません。既に見て来たように、「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1:7)ということも起こるのです。

 今日の箇所では「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」(1-2節)と表現されています。確かに、苦しみは私たちを罪とのかかわりを断つ力として働きます。また、苦しみは正しく戦いの中にいることのしるしでもあるのです。罪と戦うことを止めて、神の御心に従って肉における残りの生涯を生きようとしないならば、迫害はもはや起こらないし苦難は回避できるのですから。

 ペトロは、実際、彼らがどのような罪の中にいたかを思い起こさせます。「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです」。そのように、彼らが苦しみを受けているとするならば、それは罪とのかかわりを断ち、正しく戦いの中いるからなのです。

 繰り返しますが、正しく戦いの中に身を置き、キリストと同じ心構えで武装しているということは、悪魔と戦うのであって、人間相手の戦いはしないということを意味します。では苦しみを与える人間についてはどのように見たらよいのでしょうか。例えば、もはや乱行に加わらなくなったことをそしる人々を、彼らはどのように見たらよいのでしょうか。

 ペトロは次のように語ります。「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません」(5節)。不当に苦しみを加える人々をどのように見るのか。今していることを、最終的な審判者の前で申し開きをしなくてはならない人たちとして見るべきだということです。

 それは何を意味しますか。「最後に苦しむのはお前たちだ。ざまあみろ!」ということではありません。ペトロはここでもう一度、3章19節以下で語られていた「キリストの陰府降り」に言及するのです。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」(6節)。

 3章と同じように、この節も決して単純ではなく解釈は分かれます。「死んだ者」を「霊的に死んだ者」と考える人がいます。あるいは「死んだキリスト者」を指すと考える人もいます。最もシンプルに読むならば、「死んだ人」一般を指すのでしょう。そのように解釈してきた人は少なくありません。

 そのように「死んだ人」が誰であれ、重要なのは、キリストによって福音を告げ知らされたのは「神との関係で、霊において生きるようになるため」ということです。それをキリストは切に望んでいるということでしょう。もちろん、「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません」と言われている「彼ら」もまた例外ではないということです。

 私たちが武装するのは、人間相手の戦いのためではありません。実際に不当な苦しみを与えてくる人々は、私たちが悪魔と戦って、神の御心に従って生き、神のもとに獲得しなくてはならない人々なのです。


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