2022年8月31日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 3:8~22

 ペトロの手紙一 3:8‐22

 今日お読みしたところには、「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(8‐9節)と書かれていました。

 「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません」と書かれているところからも、この手紙を受け取った人々は、悪意を持つ人々によって苦しめられたり、侮辱されたりしている人たちだということが分かります。既にお話ししましたように、これが書かれましたのは既に教会に対する迫害が激しくなり始めていた時代なのです。そのような中に生きているキリスト者を励まし力づけるためにこの手紙は書かれたのです。

 さらにペトロは14節以下でこうも言っています。「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(14‐16節)。

 彼らは不当な苦しみを受けています。正しいことを行なって苦しんでいるのです。彼らはキリスト者や教会に対するいわれのない中傷を耳にします。いや、それだけでなく、キリスト御自身に対する悪意に満ちた言葉を耳にしているのです。そのような人々に対して語る時、穏やかに敬意をもって弁明するようにとペトロは勧めているのです。

 そして、そのような話の流れの中で、ペトロはキリストについて語り始めます。それが18節以下です。22節まで続きます。似たような話の流れは、既に2章18節以下の「召し使いたちへの勧め」で見てきました。ですからペトロがなぜキリストについて語り始めているのか、その理由は明らかでしょう。この勧めの言葉が正しいとしても、その実行は困難だからです。キリストに目を注ぐことなくして、不当な苦しみに打ち勝つことは出来ないからです。彼らが人々を恐れたり、心を乱したりしないためには、そのことが必要なのです。敵意を持つ人々に対しても、自己防衛的な弁明ではなくて、真に愛と謙遜をもって穏やかに敬意をもって信仰の希望を語り得るためには、キリストに目を向けることがどうしても必要だからです。

 彼らが聞かなくてはならなかったのは次のことです。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」(18節)。教会が不当な苦しみを受ける以前に、キリストこそ、まさに不当な苦しみを受けられた方なのだ、正しい方が苦しまれたのだ、とペトロは語ります。

 しかも、「キリストは正しくない者たちのために苦しまれたのだ」と言います。正しくない者たちとは誰のことでしょうか。不当に苦しめる人々でしょうか。迫害し、敵意をもって向かってくる人々でしょうか。そうではないのです。キリストの苦しみはあなたがたのためだったのだ、とペトロは言うのです。他ならぬあなたがたを神のもとへ導くためだったではないか、と言うのです。

 敵意を持つ人々を愛することは困難です。怒りと憎しみの感情が沸き上がってきます。悪を行なわれたら二倍にして報復したくなるのが私たちの自然な心情です。「悪いのは彼らではないか」と言いたくなる。しかし、そこで私たちはキリストを見なくてはならないのです。そこには、他ならぬ私たちの罪のために不当な苦しみを背負った御方がおられるのです。その御方を見つめる時に私たちの内にある思いが変えられていくのです。

 しかし、今日特に心に留めたいのは、その先のことです。ペトロは私たちの罪のために苦しまれたキリストを指し示して、直接21節の「復活」および22節の「昇天」に話を進めるのではなく、その間において語っていることがあるのです。彼はあえて「捕われていた霊たちのところへ行って」宣教されたキリストのことを語るのです。それはいったなぜなのかをよく考えたいと思うのです。

 私たちは、使徒信条においてキリストに関しての信仰を言い表す時、「十字架につけられ、死にて葬られ」という言葉の次には「陰府にくだり」と続くことを知っています。しかし、実はこの「陰府にくだり」という言葉はもともとの使徒信条にはなくて、これが加えられたのは紀元前4世紀の半ばであると言われているのです。その「陰府にくだり」が加えられた聖書的な典拠として知られているのが、今日お読みした箇所なのです。

 実際には、ここはかなり解釈の難しい箇所です。単純ではありません。しかし、確かにキリストが陰府にまで降って受肉以前に死んだ人たち、あるいは福音を聞くことなく死んだ人たちに宣教したという理解は古くからありまして、紀元2世紀まで遡ります。そして、この聖書箇所、また「キリストの陰府くだり」の信仰は、ある意味では古くからあった問い、すなわち、「地上における生存中に福音を聞く機会を持たなかった人々はその後どうなるのか?」という問いに対する、一つの答えでもあったと考えられるのです。

 しかし、ペトロがキリストの苦難を語るだけでなく、さらに「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」と語っているのは、単に死んだ人への関心からではありません。もっと大きな理由があったのです。もう一度20節をご覧下さい。「捕らわれていた霊たち」について、「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」と説明されているのです。

 神はノアの箱舟製造を通して警告を与え、彼らの悔い改めを待っておられた。しかし、彼らは最後まで悔い改めなかったのです。そこで洪水となった。これは明らかに神の裁きです。神の裁きによって滅ぼされた。ならば彼らはそれで終わりであるはずなのです。

 しかし、その人々をもキリストは心にかけ宣教されたのだ、とペトロは言っているのです。キリストの目おいては、彼らはまだ終わりではないのです。キリストは、あの時に最後まで悔い改めようとしなかった人々をも追い求めたのだと言うのです。ならば、ましてや今この地上に生きている人を、キリストが追い求めていないはずがない。キリストが宣教しようとしていないはずがない。そういうことでしょう。

 あのノアの洪水はバプテスマの予表であるとペトロは言います。ならばノアの箱舟に乗り込んで救われた8人はバプテスマを受けて救われる人を表していることになります。すると箱舟に乗らなかった人々に宣教するため陰府にまで降られたキリストは、今はどこに行って宣教しようとしておられるのですか。バプテスマを受けていない人々のところに行って宣教しようとしておられるということになるでしょう。

 実際、その人々がどんなにキリストやキリスト者を侮辱する人であっても、不当な苦しみを与える人であっても、キリストは彼らを追い求めておられるということなのです。あのノアの時に逆らい続けた人がキリストの目から見て終わりでないならば、ましてや今この地上にある人が、たとえどのような状態であっても、キリストの目から見て終わりであるはずがない。キリストがあきらめてしまっているはずがない。そういうことなのです。

 そのことが見えてきますと、なぜペトロが「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)と言われているのか、なぜ、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(16節)と言われているかが分かってきますでしょう。キリストはただ苦難を耐え忍んだ方として模範であるだけでなく、宣教においても模範である御方だからです。

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