2024年4月7日日曜日

「死によって奪われない希望」

ペトロの手紙一 1:3-9

 本日の第2朗読ではペトロの手紙が読まれました。小アジア地方の諸教会に宛てた手紙です。6節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とありますように、この手紙が宛てられている人々は、様々な苦しみを経験していた人たちです。具体的には迫害のもとにあって苦しんでいたということでしょう。彼らは人々からの軽蔑や嘲笑を耐えなくてはなりませんでした。悪人呼ばわりされ、不当な苦しみを強いられていました。そのような人々に宛てて、この手紙は書かれました。

生き生きとした希望
 迫害に限らず、苦しみというものは、往々にして「未来に期待して待ち望む心」を人から奪っていきます。希望を奪っていくのです。苦しみによって、希望がむしばまれていくと言い換えてもよいでしょう。実際、そうではありませんか。昨日は苦しかった。今日も相変わらず苦しかった。すると明日も苦しい一日であるに違いない。どうしても、そう思えてくるのでしょう。未来は過去から現在への延長にしか見えない。真っ暗闇のトンネルの中を歩いていて、百歩進んでもなお先に光が見えなければ、二百歩進んでも、千歩進んでも暗闇で、永遠に暗黒が続くと思えて来るのでしょう。そのようにして、人は未来に期待する心を失っていく。待ち望むことを止めてしまう。それは彼らに起こり得ることであったし、ここにいる私たちにも起こり得ることだと思います。

 しかし、だからこそペトロは彼らにこう書き送ったのです。3節からもう一度お読みします。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(3-4節)。

 彼は苦しみの中にある人々に、「生き生きとした希望」について語るのです。これは直訳すれば「生きている希望」という言葉です。大変味わい深い表現です。「生きている希望」というのは、「死んでしまわない希望」ということです。苦しみの中にあっても、苦しみによってむしばまれない、死んでしまわない、命に溢れた希望です。

 先ほど「苦しみによって希望がむしばまれる」と言いましたけれど、だからこそ、苦しみによってむしばまれない、失われない、「生きている希望」が必要なのです。どんな困難の中にあっても、真っ暗闇のトンネルが続く中であっても、「生きている希望」があるならば、人もまたそこで、本当の意味で生きることができるからです。未来に顔を向けて、今を生きることができるのです。

 そして、その「生き生きとした希望」、「生きている希望」は、既に私たちに与えられているのだ、とペトロは語るのです。それはどのようにして与えられたのでしょう。いったい何によって?ペトロは言います。「死者の中からのイエス・キリストの復活によって」と。

 ご存じのように、ペトロはイエス・キリストが捕らえられた時、三度もキリストを「知らない」と言った男です。キリストが十字架にかけられた時、主を見捨てて逃げてしまっていた、そういう男です。キリストが葬られた後も、自分が同じ目に遭わされるのではないかと、家の中に閉じこもり、戸を閉ざしてビクビクしていた、そのような男です。――取り返しのつかないことをしてしまったという罪責感。自分の弱さや醜さに対する深い絶望。もう全ては終わったのだ。そう思わずにはいられなかったに違いない。そうです。何もかも、終わってしまった。あの御方の死と共に、終わってしまった。それでもなお、彼が生きて行くとするならば、死人のように生きていくしかなかったのでしょう。未来に何も待ち望むものを持たないまま、何も希望を持たないまま、生きていくしかなかったのです。すべては終わったのですから。

 しかし、そのようなペトロが、再び立ち上がり、前を向いて希望をもって生きるようになった。それはなぜなのでしょう。未来に向かって顔を上げ、歩み始めることができた。それはなぜなのでしょう。――それは「死者の中からのイエス・キリストの復活によって」だ、と彼は言うのです。

 どこからどう見ても、全く救いのない十字架の死さえも、それで終わりではなかったのです。十字架の死の先にさえ、復活の命の世界が開かれていたのです。十字架においては、「死」というものが、それ以上ないほどに残酷な姿を呈していたことでしょう。しかし、ペトロは知ったのです。そのような残酷な死の先にさえも、待ち望むべき命の世界がある。その死の先にさえも待ち望むべき未来が開かれている。ペトロは確かにそのことを知り、それゆえに語っているのです。

 そのように、どんなことがあっても、何によっても奪われることのない未来、死によっても奪われることない未来、ここにいる私たちもまた期待して待ち望むことができる未来を、彼は次のように表現しました。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(4節)と。

 この「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」がいったい何かは分かりません。しかし、それが何であれ、財産を受け継ぐというのですから、喜ばしい未来が表現されていることには間違いはありません。そしてまた、「受け継ぐ」というのですから、明らかにそれは自分が蓄えたものではありません。自分の行ってきたことに対する報酬でもありません。蓄えにせよ報酬にせよ、自分が積み上げてきたものならば、そんなものはたかが知れているでしょう。しかし、そうではないのです。それは純粋に神が備えてくださっているものなのです。

 そのように、私たちは信仰によって、どんな時にも、最終的には人生の終わりにおいてもなお、神が備えてくださっている喜ばしい未来を待ち望むことができるということです。死の床においてさえ、期待をもって最後まで生きることができる。実際、わたしは既に召された人たちの中に、そのような方々を幾人も思い起こすことができます。人は信仰によって、人生最後の一秒に至るまで、最後の一呼吸に至るまで、神の備えてくだっている未来を待ち望みながら生きることができるのです。イエス・キリストの復活によって、神が「生き生きとした希望」を与えてくださったからです。

新たに生まれさせ
 そのように、苦しみによってむしばまれない、失われない希望、「生きている希望」は神から来るのです。他からは来ない。――だからこそ、その希望に生きるために決定的に重要なもう一つのことがあるのです。それは希望の源である神との関係です。

 それゆえにペトロは、ただ「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくださった」とだけ書くことはせず、その前に、こう書き記すのです。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」――それに続けて、「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくださった」と書いているのです。

 「新たに生まれさせ」と聖書に書かれていることは何を意味するのでしょう。――人は二度生まれることができるということです。一度目の誕生は、通常の意味における誕生です。「お誕生日おめでとう」を繰り返す、あの誕生のことです。しかし、聖書によるならば、人はもう一度誕生することができるのです。二度目の誕生。それは信仰による誕生です。一度目の誕生において、この世の親の子供として生まれたように、二度目の誕生においては、「神の子供としてのわたし」が生まれます。一度目の誕生において、この世の家族の中に生まれたように、二度目の誕生においては、「神の家族の中にいるわたし」が生まれるのです。

 イエス様は「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと教えられました。そのように、神の子供として、「天にまします我らの父よ」と祈りながら生き始める。そのようにして、私たちは二度目の誕生による新しい人生を神の家族の中で生きていく。それが信仰生活であり教会生活なのです。

 そして、ここに語られているように、二度目の誕生は「神の豊かな憐れみ」によるのです。先ほど「二度目の誕生においては、『神の子供としてのわたし』が生まれます」と申し上げましたが、話はそう単純ではありません。

 ペトロはこの直前において、あえて「わたしたちの父である神」ではなくて、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」と言っていますでしょう。その御方は第一には、イエス様が「父よ」と呼んでいた神様なのです。その神様を、私たちもイエス様と同じように「父よ」と呼べることは、決して自明のことでではありません。私たちはイエス様と違って、幾度となく神に背きながら生きてきた者だからです。イエス様と違って、私たちはどう考えても「神の子供」に相応しくない。そのような私たちが神の子供にしていただけるとするならば、それは一重に神の憐れみによるのです。私たちの罪を赦してくださる神の豊かな憐れみによるのです。

 そして、神の憐れみは具体的な形を取って現されたのです。神は独り子を世に遣わされました。罪なき御子を私たちの罪を贖う犠牲とされました。イエス様は、「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと言ってくださいましたが、それは神の憐れみを知っている方の言葉です。神の憐れみの現れとしてこの世に来られた方の言葉です。神の憐れみの現れとして、十字架にかかるためにこの世に来られた方の言葉なのです。

 その御方によって、どんな人であっても、新しく生まれた神の子として生き始めることができる。それはまさに福音です。良き知らせです。

 希望に生きるために決定的に重要なもう一つのことがある。それは希望の源である神との関係であると申しました。もうお分かりでしょう。大事なのは、福音を信じて、神の子供たちとして生きることです。形式的、名目的にキリスト者であることではなくて、具体的、実質的に神の子供たちとして神と共に生きることです。

 神との関係がそのような親子関係であるならば、もう安心です。たとえ今がどんなに暗くとも、大丈夫です。良き親なる神様が関わってくださるならば、いつでも未来に期待を抱き続けることができるからです。私たちは、そのようにして、人生最後の時に至るまで、良き未来を待ち望み、生き生きとした希望に生きることができるのです。

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