2022年7月27日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 2:1~10

ペトロの手紙一 2:1‐10

 既に1章において述べたように、キリスト者であるということは、人生に何かアクセサリーのようなものが加えられることではなく、ちょっとばかり善い人間になったという次元のことではなく、「新たに生まれた」ということです。それは人間の努力によってではなく、神の憐れみよるのであり(1:3)、神の御言葉によるのです。それは「天に蓄えられている…財産を受け継ぐ者」(1:4)とされること、すなわち神の国を受け継ぐことを意味するのであり、「生き生きとした希望」(1:3)、すなわち死を突き抜けた永遠の希望を与えられることを意味するのです。

 そのように新たに生まれるということはまた、新しい関係の中に生まれるということでもあります。赤ん坊が生まれる時には必ず家族の中に生まれてくるように、私たちは神の家族の中に、新しく生まれるのです。その中で私たちが生い育っていくためには、どうしても必要なことが二つあります。ペトロが今日の箇所ではっきりと書いています。一つは「捨て去ること」です。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って…」と書かれていました。まずは否定的な側面からですが、大事なことは新しい家族としての関係に生きることを妨げるものを捨て去ることです。

 「捨て去る」と言うのですから、それは自分の意志をもってやらなくてはなりません。何かの理由で悪意を抱いてしまうことはあるでしょう。それはある意味で仕方のないことです。しかし、その悪意を後生大事に抱えているのか、それとも捨て去ろうとするのかは大きな違いです。悪口を言いたくなる。あるいはついつい言ってしまう。そういうことはあるかもしれません。しかし、いつまでも延々と悪口を言い続けるかどうか、それはまた別の話です。気づかせていただいたら、その都度、悔い改めて手放すことが大事です。

 そしてもう一つ。積極的には「霊の乳を慕い求める」ということです。成長するためには栄養を採らなくてはなりません。「霊の乳」は「御言葉の乳」とも訳せる言葉です。御言葉を慕い求めることです。このことなくして絶対に成長はあり得ません。

 主の御言葉を求めるためには、当然のことながら、主のもとに行かなくてはなりません。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい」(3‐4節)と書かれているとおりです。

 主のもとに行くとは、具体的にどういうことでしょう。実はこの勧めの言葉は詩編34編9節から来ています。その詩編の言葉は、古くから聖餐の式文に用いられてきたものです。つまり、ここでペトロはキリスト者が集まって御言葉を聞き、聖餐を行う礼拝を考えているのです。先に語られていたように、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を、悔い改めをもって捨て去り、そして霊の乳である御言葉を求めるのは、何よりも教会が聖餐卓のまわりに集められている時においてであり、特に主の日の礼拝においてなのです。

 そこでペトロはさらに、もう一つのイメージをもって語り始めます。それはエルサレムにあった「神殿」です。ペトロはこう語ります。「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(4‐5節)。

 後に祭司やいけにえについて語られているように、この「家」とは神殿のことです。もちろん、「《霊的》な家」ですから、建造物のことではありません。主の食卓の周りに集められている信仰者の群れを、神は「霊的な神殿」として見ておられるということです。

 その神殿を建てるための「かなめ石」はキリストです。キリストは人々から捨てられ十字架にかけられましたが、神はそのキリストを復活させ、新しい神殿を建てるための「かなめ石」となさったのだと語られているのです。この「かなめ石」に寄り頼む他の切石が一つ一つ組み合わされて神殿が造り上げられます。その切石こそ私たちなのです。「あなたがた自身も生きた石として用いられ」、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」とはそういうことです。

 その霊的な神殿においては、そこに仕える祭司もいなくてはなりません。それも私たち自身です。「そして聖なる祭司となって」と書かれているとおりです。また、祭司は「いけにえ」を献げるためにそこにいます。ここでは「神に喜ばれる霊的ないけにえ…を献げなさい」(5節)と語られています。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」とは何でしょう。それは私たち自身の体のことです。

 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)。要するに、ここで私たちは生きている「切石」として神殿を建て上げ、同時に聖なる祭司となって、私たち自身を神に喜ばれる霊的ないけにえとして献げるのです。

 これが教会において起こっていることです。私たちは主のもとに集まります。私たちは捨て去るべきものを手放し、御言葉の乳を慕い求めます。そのように、私たちが主のもとに集まる時に、霊的な神殿が目に見える形でここに姿を現します。私たちは自らを神に喜ばれるいけにえとして献げます。日曜日の集まりは讃美歌付き講演会ではありません。私たちは生けるキリストのもとに集まり、自らを献げて共に神を礼拝するために集まっているのです。そのように、週毎に捨て去るべきものを手放し、慕い求めるべきものを慕い求めていくならば、私たちは信仰者として成長し、教会はまことに神の神殿としての輝きを現していくに違いありません。

 そして、それはただ私たちだけのためではないのです。私たちはまだ福音を受け入れていない世界のただ中に置かれているのです。そこにおいて、ペトロは教会がどのような存在とされているかを語ります。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(9節)。これらは皆、旧約において神の民イスラエルを表現する言葉です。イスラエルが存在したのは、自分たちのためではなく、この世界のためでした。同じように、神の民として礼拝をささげる私たちについても、次のように語られています。「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(9節)。神は私たちをこの世に遣わされ、自分自身を献げた私たちをこの世のために用いられるのです。
(祈り)

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