2023年7月30日日曜日

「悪をもって悪に報いず」

ペトロの手紙一 3:13-16

「正しくない者たち」のために
 今日はペトロの手紙を読みました。この手紙が書かれたのは、既に教会に対する迫害が激しくなり初めていた頃です。今日の朗読箇所の少し前にはこう書かれています。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)。このように書かれているのは、現実に悪意をもって苦しめられたり侮辱されたりすることがあったからです。

 そのような中で「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(15節)ということも語られているのです。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人」というのは、直接的には信仰を求めている人のことではありません。迫害の中での話です。そこで説明が要求される。それは個人的な悪意に満ちた問いかけかもしれませんし、公的な裁きの場に引き出されて訊問されるような場合かもしれません。

 いずれにせよ、そこでペトロは、「いつでも弁明できるように備えていなさい」と言い、そして、こう続けるのです。「それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(16節)。

 そのように悪意をもって向かって来る人に対しても「穏やかに、敬意をもって」弁明しなさいというのです。もちろん、そのように語られているのは、自然にはそうならないからです。相手の敵意はこちらの敵意を引き出しますし、相手の悪意はこちらの悪意を引き出します。常日頃不当な苦しみを強いられているならば、なおさらそのような負の感情が引き出されてしまうものです。だからこそペトロはあえて念を押すように付け加えるのです。「穏やかに、敬意をもって」と。

 しかし、それはとても難しいことなのでしょう。ペトロの勧めの言葉は正しくても実行は極めて困難です。今日の聖書箇所の直後で、ペトロはさらにこう言っています。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(17節)。それはそうです。もっともです。しかし、だからと言って「善を行って苦しむこと」を簡単に受け入れられるかと言えば、それはとても難しい。悪を行って苦しむ方が受け入れやすいのです。自分に原因があれば納得も行く。善を行って苦しむことは、明らかにそれは不当な苦しみなのであって、それが「不当である」というだけで苦しみは増すのです。それを受け入れることは難しい。ましてや、そのような中で穏やかに敬意をもって語ることはなんと難しいことか。それはペトロも分かっているはずです。

 だからこそ、今日の朗読箇所は、それだけでは完結しないのです。今日の御言葉を受け止めるためにも、その先に語られていることに耳を傾けなくてはなりません。18節にはこう書かれています。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」(18節)。このキリストに目を注ぐことなくして、本当の意味で不当な苦しみに打ち勝つことはできないのです。

 不当な苦しみと言うならば、キリストこそまさに不当な苦しみを受けられた方でした。何も悪いことをしてはいないのに、十字架にかけられたのですから。しかし、主はその不当な苦しみを受け入れられたのです。神の御心として受け入れたのです。そして、耐え忍ばれたのです。その意味でキリストは苦しみを負うことにおける模範です。

 しかし、聖書が言いたいのはそれだけではありません。「キリストは正しくない者たちのために苦しまれたのだ」と語られています。「正しくない者たち」とは誰のことでしょうか。迫害者たちでしょうか。敵意をもって向かってくる人々でしょうか。そうではないのです。キリストが苦しまれたのは「あなたがたを神のもとへ導くためです」と言うのです。すなわち、その「正しくない者たち」とはあなたたちだ、とペトロは言うのです。キリストの苦しみは、他ならぬそんなあなたがたを神のもとへ導くためだったではないか、と。

 自分を「正しい者たち」の側に置き、相手を「正しくない者たち」の側に置く時、もはや「穏やかに、敬意をもって」語ることは不可能になります。そして、「正しくない者たち」によって苦しみを負わされることは耐え難いものとなります。

 しかし、十字架の前に立つ時、そこにいるのはもはや「正しい者たち」と「正しくない者たち」という二者ではなくなります。そうではなくて、ただ一人の「正しい方」と残りの「正しくない者たち」になるのです。そこには正しいキリストと、そのキリストに罪を負っていただいた者たちがいるだけなのです。迫害する者も迫害される者も同じところにいることを知る時に、語り方もまた違ってくるのです。

陰府に降られたキリスト
 しかし、ペトロはただキリストが私たちのために苦しまれたことを語ることに留まりませんでした。ペトロの手紙は次のように続きます。「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(18-19節)。このように、ペトロはさらに続けて、「陰府に降ったキリスト」について語るのです。ここでは「捕われていた霊たちのところへ行って宣教された」と表現されています。

 私たちは、使徒信条においてキリストに関しての信仰を言い表す時、「十字架につけられ、死にて葬られ」という言葉の次には「陰府にくだり」と続くことを知っています。しかし、実はこの「陰府にくだり」という言葉はもともとの使徒信条にはなかったのです。これが加えられたのは紀元前4世紀の半ばであると言われています。その「陰府にくだり」が加えられた聖書的な典拠として知られているのが、今、お読みしたこの19節なのです。

 実際には、ここはかなり解釈の難しい箇所です。単純ではありません。しかし、この箇所が一つの問いを背景にしていることは考えられます。恐らく誰もが抱く問いです。「地上における生存中に福音を聞く機会を持たなかった人々はその後どうなるのか?」という問いです。先に引用した箇所はその問いに対する一つの答えでもあったと考えられるのです。実際、キリストが陰府にまで降って、キリストが来られる以前に死んだ人たち、あるいは福音を聞くことなく死んだ人たちに宣教したという理解は古くからあって、それは紀元2世紀まで遡ります。

 しかし、ペトロがキリストの苦難を語るだけでなく、さらに「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」と語っているのは、単に死んだ人への関心からではないだろうと思います。そこには、もっと大きな理由があることが垣間見られるのです。続く20節をご覧下さい。「捕らわれていた霊たち」について、わざわざ「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」と説明されているのです。

 ノアが箱舟を作っていた期間、それは神が人々に警告を与えていた期間でもあったと言えます。神はその期間、人々が悔い改め、立ち帰るのを待っておられた。しかし、彼らは最後まで悔い改めなかったのです。ここに言及されているのは、そのような人々の話です。そこで洪水が起こりました。これは明らかに神の裁きです。彼らは神の裁きによって死んだということになります。ならば彼らはそれで終わりであるはずです。しかし、そのような人々のところにまで行ってキリストは宣教されたのだ、と言っているのです。

 ならば、このことを語っているのは、単に死んだ人への関心からではありません。ペトロが語りたいのは、キリストがどのような御方なのか、ということなのです。最後まで悔い改めることなく洪水によって死んだ人たちでさえ、神の裁きによって滅びたと見える彼らでさえ、キリストの目には、まだ終わりとは映っていなかったのです。彼らのところにまでキリストは向かわれたのです。

 ならば、まだこの地上にある人はどうでしょう。キリストの目にはどう映っているのでしょう。どのような人であれ、もう終わりだと映っている人など、一人もいないのでしょう。それがたとえキリストをあからさまに侮辱し、あるいはこの世の権力をもって教会を迫害する人であっても、キリストにとっては終わりではないのです。キリストは彼らのところにも行こうとしておられるのでしょう。あの最後まで悔い改めなかった人たちのところにまで行かれたキリストですから。

 実際、私たちは少なくとも一人は、その実例を知っているのではありませんか。かつて教会の迫害者であったパウロ。キリストはパウロのところにまで行ってパウロに出会われた。語られた。宣教されたのです。

 そして、考えてみてください。キリストがそのような御方であるからこそ、私たちもまたここにいるのではありませんか。本来ならば神に裁かれて終わりであったはずの私たちが、今ここにいるのはなぜですか。陰府にまで降られたキリストが、私たちのところにまで来てくださったからではありませんか。

 そのことが見えてきますと、なぜペトロが「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(16節)と言っているのかがよくわかります。さらにさかのぼって、9節では「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)とも語られていました。それがなぜだか、よく分かります。キリストはわたしたちを神のもとに導くために苦難を耐え忍んでくださっただけではなく、私たちを追い求めてくださったキリストは、今もなおすべての人を追い求めておられるからです。それが、たとえ、私たちを苦しめている人であっても、それはキリストが愛しておられる人であり、出会おうとしておられる人であるに違いないのです。
(祈り)

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