2022年8月24日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 3:1~7

ペトロの手紙一 3:1‐7

 当時のペトロが目にしていたのは、今日よりもずっと男性優位の社会でした。家庭もまた男性中心の結婚観によって形成されていました。ほとんどの場合、妻は夫の所有物としか見なされませんでした。妻が夫に従うのは当然ことであり、他に選択肢などありませんでした。そのような社会の中に置かれていた教会は、当時の結婚観、夫婦観とどのように向き合っていたのでしょうか。


 一見、当時の結婚観を何の修正も加えずに受け入れていたように見えなくもありません。今日お読みしましたペトロの手紙には「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と書かれておりますし、他のパウロの手紙にも同様の勧めが記されています。しかし、そこに見落としてはならないことがあります。この世と同じように「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と語っていたにもかかわらず、教会の中には当時の社会の中には決して見られなかった全く新しい家庭の姿が存在していたのです。


 そのような新しい家庭の姿は7節に垣間見ることができます。「同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」(7節)。そこに描かれているのは夫と妻が「命の恵みを共に受け継ぐ者として」生活を共にしている家庭なのです。永遠の命を共に受け継ぐ者として、神の国を仰ぎ望みながら、共に祈りながら生活している夫婦の姿なのです。そのような夫婦関係は、既存の結婚観を拒否したり破壊したりすることによって得られたのではないのです。福音のもたらす命の力によって内側から形成されていったのです。


 しかし次のように言う人がいるかもしれません。「そのようなことが起こるとするならば、夫もまたキリスト者である場合に限られるのではありませんか。確かに夫が神を畏れる人であるならば、『妻たちよ、自分の夫に従いなさい』と語られても、妻が不当に貶められることはないでしょう。しかし、神を畏れぬ夫ならどうなるのでしょうか。その場合には不当な上下関係を改革するために戦うことの方が重要ではないでしょうか。」


 しかし、そのような御言葉を信じない夫に対してであっても、ペトロは「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と言うのです。なぜでしょうか。その理由はいたって単純です。「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」(1‐2節)。


 ここで「信仰に導かれる」と意訳されていますが、もとの言葉は「獲得する」という意味の言葉です。本当に獲得しなくてはならないのは、自分の権利ではないのです。対等な地位ではないのです。社会的な平等ですらないのです。本当に獲得しなくてはならないのは、人間なのです。この場合ならば「夫」です。人間を神のもとに獲得しなくてはならないのです。夫が御言葉を信じない人であるからこそ、神のもとに獲得しなくてはならないのです。


 平等の権利を獲得するための戦い方というのは、確かにあるでしょう。しかし、人間を得るための戦い方はそれとは異なります。神のもとに人を得るのはイエス・キリストの福音によるのです。しかし、当時の夫婦関係の中にあっては、妻は夫に言葉をもって福音を伝えることは許されていなかったのです。しかし、福音を「聞かせる」ことができないとしても、「見せる」ことは可能です。もちろん、夫が礼拝に共に参加するのでないかぎり、神を礼拝している姿を見せることはできません。しかし、普段の生活している姿は見せることができます。「神を畏れるあなたがたの純真な生活」、そのような「無言の行い」を見せることはできるのです。


 もちろん、ここに書かれていることは、必ずしも夫婦の間の事柄に留まらないでしょう。人が従属的な立場に置かれるという場面は、他にもいろいろと考えられます。職場において、教師と生徒の関係において、親子や兄弟の間において、地域社会において、しばしば人はそのような立場に置かれます。そのような立場にある時、しばしば私たちは言葉をもってキリストを伝えることに困難を覚えます。しかし、そのような秩序の枠の中においても、無言の行いは人を獲得する力を持つのです。


 もちろん逆のことも言えます。言葉をもって福音を伝える環境にある。事実そのように言葉をもって伝えている。しかし、その言葉をもって伝えていることが「無言の行い」によって否定されてしまう、ということも起こります。実際、ここに書かれている「神を畏れるあなたがたの純真な生活」という言葉は実に重い言葉です。「神を畏れる純真な生活」が問題となるとき、私たちは皆、付け焼き刃のようなものではどうにもならないことを良く知っています。それは内面から現れ出るものでなくてはならないのです。


 それゆえに、続く次の言葉は重要です。「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです」(3‐4節)。


 外面を装うことは、ある意味で容易なことです。お金さえかければ、いくらでも飾り立てることができます。一方、内面的な人柄を飾ることは容易ではありません。その装いには時間がかかります。内面的な人柄を装うためには、普段からそのことに心を向けていなくてはなりません。


 ここに書かれていることはお洒落に対する批判でも、「女はおしとやかであるべし」などという陳腐な教訓などでもないのです。そうではなくて、普段の生活において、私たちがどこに心を向けているかを問題にしているのです。ペトロは、「このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです」(4節)と言っています。大事なことは、何が神の御前で価値があることなのか、を考えられることなのです。


 さて、既に見ましたように、この箇所は特に、未信者である夫との生活について書かれているところです。この部分を、私たちが普段接している未信者の方々に置き換えて考えてもよいでしょう。その中には、信仰に全く関心のない方、あるいはさらにキリスト教に対して拒否反応を示される方々がいるかもしれません。そのような関わりの中で、時として、「神にとって重要なこと、本当に重要なことを、彼らは分かっていない」などと考えてしまうことがあるかもしれません。


 しかし、今日の聖書箇所は、ある意味で全く逆のことを語っているのです。すなわち、御言葉を信じない人である夫こそが、まさに外面的な飾りや派手な衣服などではなく、神の前で価値あるものに目を向けているのだ、と言うのです。彼らこそが、まさに朽ちないもので飾られた内面的な人柄に目を向けているのだ、神を畏れる純真な生活がそこにあるかどうかを見ているのだ、ということです。


 ですから、御言葉を信じない人との関わりにおいてこそ、神の御前に価値のある装いが真に重要になるのです。実際、そうではありませんか。私たちの周りの未信者の方々の方が、教会の人よりも良く見ていると思います。実に鋭く見ているものです。そのような関わりの中において、付け焼き刃は何の役にも立ちません。地味ではあるけれどしっかりと内実を持った信仰生活、神を礼拝し神を畏れる生活こそが、真に人間を神のもとに獲得し、現実を変革する力を持つのです。

(祈り)


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