ラベル レビ記 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル レビ記 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年11月27日水曜日

祈祷会用:レビ記 25:1~17

 レビ記 25:1‐17

 25章には安息の年とヨベルの年に関する規定が記されています。その前半部分を群読しました。今日、私たちは、これらを命じられた主の意図がどこにあり、それが私たちにとって何を意味するのかを、御一緒に考えたいと思います。

 「安息の年」という言葉は、私たちに耳慣れない言葉であるかもしれませんが、これが私たちの良く聞く「安息日」と関連があることは明らかです。そこでまず「安息日」についていかなることが語られていたかを思い起こしてみることにしましょう。「安息日」については、十戒の中に次のように定められていました。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出20:8‐10)。

 「安息日」という言葉は、「中止する」という言葉に由来します。考えてみれば、まことに不思議な命令です。「怠けずに働き続けろ」と命じるのではなくて、「働くことを中止せよ。休め。働いてはならない」と主は命じられるのです。聖書の神は、自ら休み、私たちに休むことを命じられる神なのです。

 神が休みを命じられるのは、ただ私たち自身の休息のためだけではありません。「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(同10節後半)と書かれています。これは何を意味するのでしょう。申命記のほうでは、その意図がより明確に記されています。「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(申命記5:14)。つまり、この命令は、周りの人々をも解放し、休ませるためでもあるのです。休まない人がいると、周りの人々は休めないのです。特に奴隷など、弱い立場の人は休めません。だから、神はあえて他者を解放して「休ませる」ためにもあなたが「休みなさい」と命じられるのです。

 このように見てきますと、本日の箇所に記されています「安息の年」に関する律法は、「安息日」の律法の意図を、さらに拡張したものであることが分かります。解放して休ませるべきであるのは、奴隷や家畜までに留まりません。土地もまた休ませなくてはならないと言うのです。「七年目には全き安息を土地に与えねばならない」(4節)と主は言われるのです。そのためには、七年に一度、人間が休まなければなりません。種を蒔くことを休み、耕すことを休み、ぶどう畑の手入れを休むのです。

 では、その間に自然に生えたものはどうするのか。「休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない」(5節)と書かれています。これは食べてはいけない、という意味ではありません。土地の持ち主が「この土地は私のものだから、そこに生じたものも私のものだ!」と主張して自分たちだけのためにそれらを集めてはならないということです。

 食べることはかまわないのです。ただし皆で仲良く分け合って食べなくてはならない。「安息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる。あなたをはじめ、あなたの男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている滞在者、更にはあなたの家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる」(6‐7節)とはそういうことです。このように、「これは私のものだ!」という人間の所有者意識から解放されてこそ、初めて土地は完全に安息できるのです。これが安息の年に関する律法です。

 そして、このことをさらに徹底したのが「ヨベルの年」に関する律法です。安息の年が七回繰り返され49年を経たその翌年、50年目には、さらに徹底した解放と安息の年である「ヨベルの年」がおとずれるのです。ヨベルとは雄羊の角のことです。「その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」(9‐10節)。

 このヨベルの年には、通常の安息の年のように、土地に安息が与えられるだけではありません。土地はすべてもとの所有者に戻されるのです。貧しさのゆえに先祖から受け継いだ土地を手放さざるを得なかった人は、その土地を離れなくてはなりません。土地を失った家族は生きるための糧を得なくてはなりませんから、必ずしも先祖伝来の土地で生活していたように、家族一緒に生活できるとは限りません。しかし、ヨベルの年には、その土地の返却を受け、離れて生活していた人も家族のもとに帰ることができるのです。

 これらのことに伴い、すべての負債が免除され、貧しさのゆえに身売りした人も解放されます。このようにして、土地だけでなく、人間もまた解放されるのです。それはただ債務を負っていた者だけが解放されるという意味ではありません。そこには債権者の解放もあります。そこには、あらゆる所有欲からの解放もまた起こるのです。

 このようにして、社会の中に生じた貧富の格差が五十年に一度是正されることになります。はたして、実際にこのようなことがイスラエルにおいて行われたのでしょうか。そのことに関する学者の見解は否定的です。しかし、少なくとも、神が求めておられることを理解することは重要です。神が求めておられるのは、土地が完全に原状に戻され、完全な安息を与えられることです。そして、その土地の上で、人間もまた解放され完全な安息を得ることです。そのようにして新たに皆が共に生きられるようになることなのです。それがヨベルの年に関する律法です。

 さて、私たちはここで、安息の年とヨベルの年に関する律法の根底にある信仰そのものに目を向けることにいたしましょう。安息の年やヨベルの年の律法について考えます時、当然のことながら次のような問いが生じてくるに違いありません。「七年目に種も蒔いてはならない、収穫もしてはならないとすれば、どうして食べていけるだろうか」(20節)。そうです、この世の声は言うのです。「神の言葉に従うなんてことを言っていて、現実生活が成り立つものか。そんなことを言って、食べていけるものか」と。

 しかし、神の言葉は私たちにこう語ります。「わたしがあなたがたを養い生かすのだ」と。次のように書かれております。「わたしは六年目にあなたたちのために祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。あなたたちは八年目になお古い収穫の中から種を蒔き、食べつなぎ、九年目に新しい収穫を得るまでそれに頼ることができる」(21‐22節)。七年目には種を蒔きません。八年目に種を蒔いたとしても、すぐに収穫できるわけではありません。しかし、それに先立つ六年目に、二年分余計に収穫を与えると主は言われるのです。人に命じる神は、備えてくださる神でもあるのです。信頼し従うことを求める神は、信頼する者を支えてくださる神でもあるのです。

 そして、さらに収穫を生じさせる土地そのものが主のものなのだ、と語られております。「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない」(23節)。レビ記の言葉が語られている場面は、まだ約束の地に入る前です。イスラエルの民は荒れ野にいるのです。ならば、与えられると約束されている土地が、本質的には彼ら自身に属してはいない、ということは良く分かるはずです。それは主のものなのであり、彼らはその土地の上に寄留させていただき、土地を利用させていただく者に過ぎないのです。

 大事なことは、実際に約束の地に入っても、そのことを忘れないということです。そのためにも、この安息の年とヨベルの年の律法は大きな意味を持っているのです。なぜなら、安息の年にしても、ヨベルの年にしても、そこで命じられていることは、何ら特別なことではなく、結局は《主のものを主のものとして生きる》ということに尽きるからです。

 さて、このように約束の地の上に寄留し滞在する者とされたイスラエルの民は、この世界の中に生かされている人類全体の縮図であると言えるでしょう。この世界は神の創造された世界です。神の創造ということを考えない人でありましても、少なくともこの世界が本質的に人間に属するものではないことは認めざるを得ないでしょう。これは人間が造った世界ではないからです。私たちは、そこに滞在することを許されている寄留者に過ぎません。神は恵み深く、私たちをこの世界に住まわせ、そして私たちを養い、生かしてくださっています。この世界を我がもののようにして生きているところに、私たち人間の罪があります。本当の解放と安息は、この世界を主のものとして生きるところにこそあるのです。

 といころでイエス様は、ナザレの会堂において預言者イザヤの書を朗読されました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。主の恵みの年とは「ヨベルの年」のことです。そして、イエス様はこの朗読の後に、こう宣言されたのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)。このように、まことにイエス様は、私たちを救い、本当の解放と安息を与えるためにおいでくださったのです。


2024年11月20日水曜日

祈祷会用:レビ記 19:1~18

 レビ記 19:1‐18

 前回は16章を読みました。そこには贖罪日(ヨーム・キップール)に関する規定が書かれていました。それに続く17章から26章のまとまりは「神聖法集」と呼ばれます。この部分については19章と25章を取り上げることにします。今日は19章です。

 今日は特にその前半部分をお読みしたわけですが、3節以下は二つに区分することができます。まず3節から8節までは、大まかに言いまして、十戒の前半部分に対応しています。申命記の言葉を借りるならば、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉でまとめることができるでしょう。

 ここで、興味深いのは、最初に「父と母を敬いなさい」という言葉が置かれていることです。主を愛し、主を畏れる生活が形作られることにおいて、親の存在は極めて大きな意味を持っているということであろうと思います。そして、さらに言いますならば、主を愛して生活するということは、単に心情的なことではなくて、具体的に神を礼拝して生きることを意味するのです。ですから、ここでも礼拝に関することが語られております。「わたしの安息日を守りなさい」、「偶像を仰いではならない」、「和解の献げ物を主にささげるときは、それが受け入れられるようにささげなさい」というようにです。

 この「和解の献げ物」については、より多くの言葉が費やされております。これがレビ記の特徴でもあります。既に見てきましたように、レビ記にはまず犠牲の献げ方が延々と述べられています。このような記述が後々にまで伝えられたことには大きな意味があります。このような犠牲の献げ方を書き記し、それを伝えた人々には明確な一つの意識があったことが明らかだからです。それは《犠牲をささげるときは、それが受け入れられるようにささげなくてはならない》という意識です。言い換えるならば、《犠牲にはふさわしい献げ方があるのであり、神を礼拝するには、ふさわしい礼拝の仕方があるのだ》ということです。

 神を愛し、神を礼拝しようとするならば、私たちがしたいように礼拝するのではなくて、神の望まれる礼拝をささげることが大事なのです。それは私たちがどのように神を礼拝するかということについて、神は決して無関心ではないからです。レビ記の記述は、そのことをはっきりと示しているのです。

 そして、9節から18節は主に十戒の後半部分に対応しています。この部分は、18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉でまとめることができます。ご存じのように、主イエスは先の申命記の言葉とこの言葉をもって律法の全体をまとめられました。

 レビ記には先に申しましたように、祭儀の規定が詳細に記されております。しかしもう一方で、ここに見ますように日常生活のあらゆる領域に渡る神の命令が記されているのです。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」(9‐10節)ということまで書かれております。

 このように、神はただ礼拝の場にいる私たちの姿にのみ関心を持っておられる御方ではありません。私たちの日々の生活を御覧になっておられるのです。特に、私たちが他者とどのように関わって生きているかということに大きな関心を抱いて御覧になっておられるのです。神にとって重要なのはただ日曜日の私たちの姿ではありません。月曜日から土曜日も同じように重要なのです。

 それはある意味で当然のことです。なぜなら、神の求めは、2節に記されているように、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(2節)ということだからです。

 「聖なる」という言葉は、本来、神にのみ用いることのできる言葉です。神のみが聖なる御方です。「聖なる」は本来、人間の特質を描写する言葉ではありません。どんなに清く正しい人であっても、そのことによって「聖なる者」になるわけではありません。物や人間が「聖なるもの」となるのは、《聖なる神のものとなることによって》なのです。祭儀のための聖具は、神のために聖別されて、神のものとなって、聖具となります。神のものでなければ、どんなに立派な器であっても、聖具とはなりません。人間も同じです。聖なる神のものとなって「聖なる者」となるのです。

 ですから、ここで語られている「あなたたちは聖なる者となりなさい」という言葉は、取りも直さず、「神の民として生きなさい。完全に神のものとして生きなさい」ということに他なりません。そして、神のものとして生きるということは、ただ神を礼拝するということだけでなく、生活のあらゆる領域に関わることなのです。そのことを、レビ記は示しているのです。

 そこで私たちは、「あなたたちは聖なる者となりなさい」という言葉の意味をより深く理解するため、さらに幾つかのことを考えたいと思います。

 第一に、私たちはこの言葉が神の恵みに基づくことについて考えねばなりません。「あなたたちは聖なる者となりなさい」。この言葉をイスラエルの民がモーセを通して聞いているのはシナイの荒れ野においてです。彼らはエジプトにおいてこれを聞いているわけではありません。神は彼らを奴隷状態から解放し、エジプトから導き出されたのです。エジプトにおける苦役からの解放は人々の願いでありました。神は彼らの叫び声を聞き、御力をもって彼らを救い出されたのです。

 しかし、苦しみからの解放は、彼らに備えられている大きな恵みの計画の、いわば出発点に過ぎません。出エジプト記19章を御覧ください。エジプトの国を出て三月目に、主はモーセにこう語られました。「ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」(出19:3‐6)。

 神はイスラエルを解放するだけでなく、彼らと契約を結ばれました。神が彼らと結ぼうとしておられた契約は、彼らを神の民とするための契約でありました。この契約によって、彼らは神の宝の民とされたのです。祭司の王国となり聖なる国民とされたのです。確かに神が苦難から解放してくださることは人間にとって喜ばしいことであるかもしれません。しかし、神が人を神の民としてくださること、神が人と共に生きようとしてくださること、そして人に対して大きな目的と計画を持っていてくださることは、もっと喜ばしいことであるに違いありません。そのように、「聖なる者となりなさい」という言葉は、神の側から一方的に示してくださった神の驚くべき恵みに基づく言葉なのです。

 第二に、私たちはこの言葉が、神の限りない忍耐と寛容を前提としていることについて考えねばなりません。「聖なる者となりなさい」というこの言葉は、天使たちに語られたのではなく、意のままに動かせる人形に対して語られたのでもなく、現実にこの地上に生きている罪深い人間に対して語られた言葉です。苦難から解放されても、喉元過ぎれば熱さを忘れ、「エジプトのほうが良かった。エジプトに帰ろう」などと言い出す、そのような人間に対して語られた言葉なのです。実際、レビ記に続く民数記においては、神が驚くべき忍耐をもって、まことに罪深い人間の現実に関わり続けられる姿を見ることになるのです。

 そして、第三に、「聖なる者となりなさい」というこの言葉には、神の忍耐と寛容だけでなく、目指すところを実現し給う神の熱情が秘められていることを知らねばなりません。私たちはイエス・キリストを通して、そのことを知らされているのです。

 神はイスラエルの民とシナイにおいて契約を結ばれました。しかし、イスラエルはその契約を破ったのです。後に預言者エレミヤが語っているとおりです(エレミヤ31:32)。しかし、人間がどんなに不真実であっても、そのことをもって神を挫折させることはできません。神はこの地上に聖なる民を持つことを諦めることはありませんでした。契約の目的そのものを放棄することはありませんでした。神は、古い契約が破られたゆえに、罪の赦しに基づいて「新しい契約を結ぶ」と言われたのです。そのために御自分の御子をさえ地上に送られ、罪の赦しを与えるために十字架にかけられたのです。

 この新しい契約のゆえに、私たちもまた神の民としてここに存在しています。この神の驚くべき熱情のゆえに、私たちは聖餐において、あの主イエスの御言葉――「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」――というあの御言葉を聞くことができるのです。私たちが聖餐にあずかることは、そのような新しい契約の杯にあずかることに他なりません。それゆえに、ペトロはかつてイスラエルに対して語られたあの主の言葉を、教会に対して再び語り直しているのです。「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです」(1ペトロ1:14‐16)。

 今日は特に「神聖法集」を読む上で大事であると思えることをお伝えしました。一つ一つ命じられていることについては、それぞれお読みください。そこから聞こえてくる神の思いに耳を傾けましょう。ここには、今日の私たちには直接当てはまらないと思えることや無縁に思えることも多く語られているかもしれません。しかし、私たちはそれらの記述を含めたこれらの書の全体から、神の民として生きるとはどういうことであるのか、神のものとして、聖なる者として生きるとはいかなることであるのかを、聞き取っていく必要があるのです。共に神の民としての生活が真に形作られることを祈り求めてまいりましょう。

2024年11月13日水曜日

祈祷会用:レビ記 16:1~34

レビ記16:1-34

 今日お読みした16章に記されているのは贖罪日に関する規定です。贖罪日(ヨーム・キップール)は第7の月の10日です。太陽暦ですとだいたい9月から10月のどこかになります。

 今日は群読しませんでしたが、29節以下にはこう書かれています。「以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第七の月の十日にはあなたたちは苦行をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者も、あなたたちのもとに寄留している者も同様である。なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳かな安息日である。あなたたちは苦行をする。これは不変の定めである」(29~31節)。

 「苦行をする」とは、具体的には断食することです。断食が定められているこの一日は、そこに書かれていますように、一年に一度、「すべての罪責が主の御前に清められる」特別な日です。31節にあるように、それはユダヤ人にとって「最も厳かな安息日」として守られてきました。これは直訳しますと「安息日の中の安息日」という言葉です。この特別な安息日は現代でもユダヤ人によって守られていまして、それこそ普段安息日を守らない人であっても、贖罪日にはシナゴーグに行く人が多いそうです。

 これまで見ましたように、この日に限らず、祭司によって罪の贖いの儀式は行われるのです。しかし、この日についてはあえて「あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである」と語られているのは、大祭司によって行われるその日の罪の贖いの儀式」があるからこそ、その他の日に祭司によって行われる罪の贖いの儀式は意味を持つということなのでしょう。だからこそ、この日には人間の罪、自分の罪にしっかりと目を向ける日でもあるのです。それは悲しみ嘆く日であって、喜び祝う日ではありません。だからその日には「苦行」すなわち断食が定められているのです。

 この日に行われることにおいて、最も大きな意味を持つのは、大祭司が垂れ幕の奥に入るということです。それは聖所と至聖所を分ける垂れ幕です。その垂れ幕が示しているのは、罪ある人間は神に近づくことはできないという厳粛な事実です。本来、人は神に近づくならば死ぬのです。だから「決められた時」すなわち、贖罪日以外には入ることはできないのです。「決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように」(2節)と書かれているとおりです。

 その主の言葉が語られる前提として、1節には次のように書かれています。「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった」(1節)。この事件については10章に書かれていました。「贖罪日」に関する規定が、この事件を前提として語られていることには大きな意味がありますので、その出来事を振り返っておきましょう。

 それはアロンによる献げ物の初執行当日の出来事でした。その日に、アロンの長男と次男は「規定に反した炭火」をささげたのです。すると主の御前から火が出て二人を焼き殺したのでした。

 彼らの献げた「規定に反した炭火」というのは、直訳すると「異なる火」という言葉です。火は、本来、神が天から与えた火が燃やし続けられているところから取らなくてはならないのです。しかし、彼らは別なところから、人間が点火した火から取ってきたのです。それが意味するのは、いわば人間から生じた礼拝です。「人間がこうしたい」ということが優先される礼拝と言ってよいかもしれません。しかし、そのように人間がしたいように神に近づくならば、神は御自身が聖なることを示されるのです。つまり神が本当に神であることを示される。それは人間にとって裁きとなるのです。

 しかし、16章においては、彼らの死について「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件」と語られており、アロンに対して「決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように」と告げられているのです。それはすなわち、彼らが安易に至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づこうとしたことを示していると考えられるのです。そのようにして彼らは自らに死を招いたのです。

 繰り返しますが、16章はこの事件を前提として語られているのです。何を意味するのでしょう。神に近づくのには、人間がではなく、神が定めた近づき方があるということです。そして、神はその仕方を定めてくださったのです。アロンの二人の息子が死んで、それで終わりではないのです。主はモーセに「あなたの兄アロンに告げなさい」と言って、神が定めた近づき方を教えてくださったのです。それはとてつもなく大きな恵みなのです。

 「まず、贖罪の献げ物として若い雄牛一頭、焼き尽くす献げ物として雄羊一匹を用意する」(3節)というところから始まります。しかし、雄牛と雄羊をどうするかが語られる前に、まず大祭司の衣装について語られているのです。

 大祭司には本来大祭司が着ることになっている衣装があることは既に8章に見たとおりです。「そしてアロンに長い服を着せ、飾り帯を付け、上着を着せ、更にその上にエフォドを掛け、その付け帯で締めた。次に胸当てを付けさせ、それにウリムとトンミムを入れた。 また頭にターバンを巻き、その正面に聖別の印の黄金の花を付けた」(8:7~9)。

 大祭司が着るのは、かなり仰々しい衣装です。しかし、アロンはその衣装を一旦全部脱がなくてはならないのです。そして、亜麻布の白い衣に着替えます。それはどうしてか。着替えた後に、「アロンは、自分の贖罪の献げ物のために雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行う」(6節)と語られているからです。これをまずしなくてはならないのです。彼は、大祭司である前に、一人の罪ある人間として神の前に立たねばならないのです。

 実際に何をするかは、11節以下に次のように書かれています。「アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。次に、主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。次いで、雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく」(11~14節)。

 彼は定められた仕方で、垂れ幕の奥に入ります。その時、定められた炭火を取って香炉に満たし、香を携えていきます。しかし、それ以上に重要なのは、その後に書かれているように「贖いの座」の東の面と前方に振りまくための「血」を携えているということです。それは「自分の贖罪の献げ物」の血に他なりません。そのように、まず自分のために贖いがなされる必要がある。これが神の定められた近づき方なのです。

 その上で民のために罪の贖いが行われます。具体的に何がなされるかは15節以下に書かれています。民の贖罪のためには二匹の雄山羊が用意されます。7節以下に説明がなされていますが、一匹は犠牲として屠るための雄山羊です。そして、もう一匹は荒れ野に放たれるための雄山羊です。これは前もってくじ引きで決めておきます。伝承によれば、「主のため」「アザゼルのため」と書かれた木札が用いられたと言われます。

 民の罪の贖いのために垂れ幕の奥に入る場合もまた、アロンは贖罪の献げ物の血を携えていきます。血を携えることなくして、神に近づくことはできません。しかし、民の罪の贖いにおいてやはり目を引くのは、「アザゼルのため」の雄山羊でしょう。この「アザゼル」が何を意味するのかは、よく分からないのですが、重要なのはその雄山羊がどのように用いられるかです。一匹は殺されて献げられるのですが、もう一匹については、21節以下に次のように書かれているのです。「アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる」(21-22節)。

 「荒れ野に追いやられる」という言葉が意味しているのは、この山羊はもう二度と戻ってこないということです。それは実に象徴的なことであり、またこれは罪の贖いがなされるイスラエルの民に実際的に必要な儀式だったとも言えます。

 例えば、詩編103編に次のように書かれています。「天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(詩編103:11-13)。

 あるいはミカ書7章には、次のように語られています。「あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」(ミカ7:18-19)

 このような聖書の言葉を読むと、どうしてアザゼルのための山羊が必要であったかが分かります。神の赦しにおいては「わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」のであり、「海の深みに投げ込まれる」のですが、それを信じることが難しい時もあるのでしょう。しかし、贖罪日において、彼らは、自分たちの罪が遠く離れて行って見えなくなるのを山羊の姿として実際に目にするのです。あの山羊はもう戻ってこないのです。罪の赦しとはそういうものだ、ということを彼らは目で見ることができたのです。

 さて、ここで私たちは以前祈祷会でヘブライ人への手紙を読んだ時に、その手紙の9章に次のように書かれていたことを思い起こす必要があります。「しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(9:7)。これは今日お読みしたレビ記16章を背景として語られているのです。

 そして、さらに次のように書かれていました。「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(9:11-12)。

 今日お読みした旧約の規定は、いわばキリストにおいて実現することを指し示す予型なのです。それは毎年繰り返されなくてはなりませんでした。今もユダヤ人がしているようにです。しかし、キリストはただ一度、決定的なことを私たちのために行ってくださったのです。次のように書かれています。「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(9:25-26)。


2024年11月6日水曜日

祈祷会用:レビ記 12:1~8

レビ記12:1‐8

 前回は食物規定が記されている11章を読みました。食べるという行為は、どこまでも人間の主体的な行為です。「わたしが食べる」のです。しかし、その食物について、神が命令を与えます。神は「これを食べて良い」と言い「これは汚れたものである」と言われる。それは人間が区別するのではありません。神が区別するのです。その区別を受け入れるということは、すなわち神の主権を受け入れるということです。イスラエルの民は、まず食べ物において、神の主権に服するということを学んだのです。

 それは11:45とも関係しています。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と書かれていました。「聖なる」とはもともと「区別する」という言葉から来ています。区別された者として生きること、それが「聖なる者となる」ということです。つまり、他の民から区別された「神の民」として生きること、神のものとして生きること、そのアイデンティティをしっかり持つことです。

 そこで「食物規定」は大きな意味を持つのです。食べる度に、料理をする度に、自分たちは神の民なのだということを意識せざるを得ないからです。まさに、「食べ物を区別する神が、わたしを他の民から区別して神の民としていてくださるのだ」という恵みを強烈に意識させるのが、この食物規定だったのです。

 そして、今日お読みした12章から15章にかけて、「出産」「重い皮膚病」「一般的な漏出」に関する規定が続きます。これらは人の内から生じる汚れに関する規定です。この部分については、一つ一つ細かく見て行くことはいたしません。この中で「出産」に関する規定だけを取り上げます。大事な事柄は共通していますので、重い皮膚病や一般的な漏出に関してはそれぞれ読んでいただくことにします。

 まず「出産」に関する規定の内容を概観しておくと、最初に書かれているのは男児を出産した場合(2~4節)です。その時には当然出血するわけです。また、悪露(おろ)が続きます。このような血液や体液の流出は、一般的に「汚れ」と見なされます。それは15章に書かれている一般的な漏出にも共通しています。

 この汚れには二段階あります。最初の段階は、男児を生んだ場合は七日間です。この間は何かに触れた場合、触れるものが全て汚れるので、当然、食事の準備等はできません。家事全般ができなくなります。これが2節に書かれている七日間です。これが終わると、触れることによっては汚れを移さない期間に入ります。男児の場合、8日目に割礼を施すことになりますが、母親は安心して息子の割礼にも立ち会うことができます。

 しかし、一般的に何かに触れても汚れを移さなくはなるのですが、続く33日間は家に留まることが命じられています。また、「聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない」と命じられています。言い換えるならば宗教的な行事には「汚れた者」として参加することはできないのです。

 続いて簡単に書かれているのは、女児を出産した場合(5節)です。この場合は、最初の段階が14日間続きます。女児の場合は割礼がないので、ある意味では支障ありません。続く段階も66日間で男児の場合の倍になります。なぜ倍になるのかは分かりません。神様がそうお決めになったらそうなるのです。ただ一般的には、古代社会においては、女児を産んだ場合の方が出血期間が長く、肥立ちも悪いと考えられていたようではあります。

 続いて書かれているのは、清めの期間が完了した時の祭儀です。ここでは焼き尽くす献げ物と贖罪の献げ物を献げることが規定されています。そこで、とても印象的なのは8節の規定です。産婦が貧しい場合の規定です。その場合は鳩でもよいのです。これは一般的な犠牲奉献の話にも出てきました神様の配慮です。この実際を、私たちはイエス様の誕生に関連して見ることができます。ルカ2:22の「清めの期間」とは、男児の場合の33日間のことです。その時に、マリアとヨセフは羊を買うことができなかったので、鳩を献げているわけです。

 さて、12章から15章までを通じて、このような規定についても大事なことは、11章の食物規定と同様に、第一には神の主権を認めることです。神がお決めになったから、そのように行うのです。しかし、そこにはまた神の善意に満ちた温かい配慮を見ることができます。一つは衛生的な観点においてです。水がふんだんに使えない社会において、疫病が蔓延する速度は比較になりません。そこで血液や体液の「漏出」については、特に気をつけなくてはならなかったのです。血液にせよ膿にせよ、そこにはウイルスによる伝染の危険が常に存在するからです。それゆえに、漏出全般を「汚れ」として規定して、とにかく触れないように、距離を置かせるようにしたことは、まさに神の特別な配慮だったと言えるのです。

 また、特に出産に関して言うならば、汚れたとされた産後の女性は、7日間あるいは14日間、とにかく汚れを移さないように、何かに触れないように気をつけることでしょう。しかし、これは裏を返せば、何かが産婦に触れないように気をつけさせることにもなるのです。体力的にも弱っている女性に、人であれ物であれ、何かが触れることは極力避けられることになる。それは衛生環境が整っていない社会においては、産後の女性にとって実に望ましいことなのでしょう。

 そしてまた、この規定は産後の女性に十分な休息を与えることにもなるのでしょう。汚れているならば触れることはできません。なので気兼ねなく家事から離れることができるのです。神は、誰も産婦に家事を強制できない状況を造り出したのです。そして、それは宗教的な様々な義務からも解放するものでした。40日間、あるいは80日間は、とにかく家が関わる行事に携わらなくてよいのです。

 実際に女性の立場が弱かった古代社会においては、こうでもしなければ女性を守ることはできなかったとも言えます。一般的に言いまして、特別な配慮は時として受ける側に負い目を負わせることになります。しかし、「あなたは汚れているのだから」ということならば女性は心理的にも負い目を負うことはありません。神はその意味で、本人が負い目を感じることなく配慮を受けることができるよう、特別な配慮をなさったと言えるのです。

 そして、これらの規定に関してもう一つ重要なことは、これらの規定が霊的な事柄を象徴的に表現しているということです。この場合の霊的な事柄とは「人間の罪」ということです。神の御前における罪、人間の罪とはどのようなものであるか、ということを象徴的に表しているのです。

 もちろん、このように言う時には注意が必要です。ここで語られている「汚れ」と人間の「罪」とは全く別次元の話です。それらを混同することは避けなくてはなりません。出産した時、女性は「汚れている」とされますが、それはその時、出産した女性がいかなる意味においても特に罪深いという意味ではありません。

 しかし、繰り返しますが、この「汚れ」というものは、「罪の現実」を象徴的に表していると言えるのです。子どもは「汚れ」の中において生まれてきます。つまり出血を始めた時点で既に汚れているのだから、血の汚れの中に赤ん坊は生まれてくるのです。何を象徴しているか明らかでしょう。子どもは人間の罪の中に罪人として産まれてくるということです。

 人間の自然な感性からすると、赤ん坊は「天使」に近く見えるのであって、罪がない、清い、真っ白な存在と見えるのです。しかし、聖書はそう言いません。人間は生まれながらの罪人であると言うのです。アダムとエバが、神の禁じられた木の実を食べた時、神がエバに言われたのは、「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む」(創世記3:16)と語られています。つまり人間の罪と出産とが、最初の物語で既に結びつけられているのです。出産の苦しみは、人間の根源的な罪を指し示すものとして機能することになります。そして、この「汚れ」に関する規定も、その延長上にあるのです。人間の根源的な罪について、生まれながらの罪について考えるようにと、この規定は象徴的な意味を持つものとして機能するのです。

 ですから、聖書は他のところでもやはり同じことを語っているのです。「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」(詩編51:7)これは聖書が語る、とても深い罪認識です。これをまずしっかりと心に留めるとき、もう一つのことがはっきりと見えてきます。イエス様もまた、この出産の「汚れ」の中に生まれてきたのだ、ということです。それはまさに人間の罪の世界の中に、私たちの一人として生まれてきてくださった、ということなのです。

 最後に、清めの期間が終わった時に、焼き尽くす献げ物と贖罪の献げ物が献げられることについても、短く触れておくことにします。

 焼き尽くす献げ物は、奉納者の献身を表すことについては既に見てきたとおりです。親となって汚れの期間が終わった時に、まず為すべきことは献身なのです。親となるとはそういうことだからです。それは献身的な親になるということではなくて、神に自分を献げるということです。

 子どもは親に「与えられた」のではありません。親が作ったのではないし、親のものになったのでもありません。与えられたのは養育の責任です。言い換えるならば、その務めのために、親が自分を神に献げるのです。それが人の親になるということなのです。

 それゆえにまた、贖罪の献げ物を捧げてスタートすることになります。それは罪の赦しを求めての献げ物です。赦しなくして親にはなれないのです。親は自分が罪のないものであるかのように、子どもに向かうことは許されません。子どもに指し示すのは神の正しさであって、自分の正しさではありません。親が求めるべきことは、子どもが神を畏れることであって、親を恐れることではないのです。親は神の正しさの前で自分もまた一人の罪人に過ぎないのだという認識をもって子どもに関わらなくてはなりません。親の公式の務めは焼き尽くす献げ物と贖罪の献げ物をもって始まるのだという原則は、実際に動物犠牲を献げることはない今日においても変わらないことを忘れてはなりません。


2024年10月30日水曜日

祈祷会用:レビ記 11:1~46

レビ記11:1‐46

 10章までは、犠牲の献げ方、また祭司の任職など、礼拝に関わることが記されていました。11章からは、さらに、そのように礼拝する者に生活の仕方が示されています。礼拝は礼拝、生活は生活というように、分けてしまわないことが重要です。全生活が神のものとなることについて、レビ記は語っているのです。11章45節に「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と書かれているのは、そういうことです。

 その生活の仕方に関する記述の最初に置かれているのが11章に見る「食物規定」なのです。なぜまず食べ物の話なのか。――食べるということは、生活における最も中心的な行為だからです。万人に共通する生活の要素だからです。まさに、毎日のこと、日常のことの代表だからです。

 食べてよいものは主として三種類です。陸上動物、魚、鳥、昆虫です。これは創世記の天地創造物語の分類とほぼ同じです。あの天地創造物語も祭司たちが伝えてきたので、共通な部分があるのはある意味で自然なことです。

 陸上動物については、条件が二つあります。ひづめが別れていることと反芻することです。魚については、ひれとうろこがあるものです。ちなみに「汚れたもの(ターメー)」と「汚らわしいもの(シェケツ)」という表現の違いは、触れて汚れるか汚れないかの違いです。《汚れたもの》は触れると汚れるものです。《汚らわしいもの》は食べると汚れるけれど、触れただけでは汚れません。そして、鳥については、食べてはいけないのは鷲とかみみずくのたぐい、すなわち猛禽類です。他の肉や死体を食べる鳥はアウトだということです。ちなみに、昆虫は、原則としてはすべて汚らわしいものです。ただ、いなごなどは食べてよいことになっています。洗礼者ヨハネはいなごと野蜜を食べていました。

 ところで、ここに書かれていることは、今日の生物学的な見地からすればかなり大雑把です。野ウサギは反芻しません。もぐもぐやっているだけです。こうもりは鳥類ではありません。しかし、実際にそのようなことが重要なのではないのです。重要なのは、区別があるということです。食べてよいもの、悪いもの――、その区別を神が決めているということが重要なのです。これについては後で触れます。

 今日みんなで読んだのは23節まででしたが、24節以下にも簡単に触れておきましょう。この部分は、その前と重複する記述が多いのですが、主に死骸の扱いについて書いています。簡単に言えば、死骸に触れるなということです。

 死骸の触れる場合というのは、例えば、持ち運ぶ場合です。持ち運ぶならば、夕方まで汚れます(28節)。その他、不可抗力の場合もあります。例えばは爬虫類などが死んで何かの上に落ちる場合です。するとそのモノが汚れます。器や道具の類は水に浸しておく必要がありますが、土器の場合は染みこんでしまうので、その土器は壊す必要があります。かまどや焜炉に落ちたら、それも壊す必要があります。その他、泉や溜池に死骸が落ちた場合などについては、その水は清いので飲むことができます。泉を埋めたり、溜池を埋め立てたりする必要はないのです。また、種もみに死骸が落ちた場合は、種もみは清いということになっています。しかし、水に浸されていて、そこに死骸が落ちた場合は、種もみは汚れます。こうしてざっと見てみると、かなり実際的な衛生的な側面が見えてくるように思います。

 さて、以上見てきたような食物規定が意味することは何でしょうか。それを理解する上で重要なのは冒頭で触れた45節です。「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」。

 出エジプトは、単に奴隷の民を苦しみから解放するための出来事ではないのです。主は「あなたたちの神になるために」エジプトから導き上ったのだといわれるのです。言い換えるならば、彼らを神の民とするために、聖なる者、すなわち「神のもの」とするために、そうしたのだということです。「神のものである」ということは、第一には、神の主権を認めるということです。わたしが主であるのではなく、神が主人であるということです。

 何かを食べるという行為は生活の根幹です。そして、それは人間の主体的な行為なのです。「わたしが食べる」のです。しかし、その「食べる」という行為について、神が命令を与えるのです。神は「これを食べて良い」と言い「これは食べてはいけない」と言われるのです。それは人間が区別するのではないのです。神が区別するのです。

 その区別の理由は何か、根拠は何か。ここには何も書かれていません。神は説明なさらない。そうです。神には説明の義務がないのです。神がイエスと言ったらイエスなのであり、神がノーと言ったらノーなのです。それを人間が受け入れる。それが神の主権を認めるということです。それが一番よく現れているのが、この食物規定なのです。


 私たちは、勘違いしているようなところがありまして、往々にして神は全てのことについて私たちに説明する責任があるかのように考えているのです。だから、神のなさることについて「分からない」、とか「おかしい」とか、「理にかなわない」とか「不公平だ」とかかぐだぐだ言うのです。しかし、本当はわからなくても良いのです。神は説明する義務などないのです。これを食べるなと言ったら食べてはいけないのです。往々にして私たちは神に向かってぐだぐだ言いすぎるのです。

 イスラエルの民は、まず食べ物において、神の主権に服するということを学んだのです。もし食べてはならないものしかなかったら、食べないで死ぬわけです。極端なことを言えば、それを良しとするということ、それが神の主権を認めるということなのです。

 そのように、食物規定についての根拠は、基本的には書かれていないので分からないと思ってよいと思います。しかし、それでもなお見えてくるものもあります。それが昔からラビによってなされてきた「解釈」です。

 ユダヤ人のラビたちは、この食物規定については、節制を学ばせる上で有効である、と解釈してきました。そこには神の教育的な配慮があると見てきたのです。つまり、そこには食べてはならないものを食べないという訓練として、これを理解してきたのです。これは必ずしも文字通りの食べ物だけではありません。自らに制限を加えなくてはならない場面は人生においてたくさんあるのです。区別して退けなくてはならないものはあるのです。例えば、この世には多くの楽しみ方があります。しかし、ある楽しみは良しとしても、他のものは退けなくてはならないのです。あるいは、例えば、男と女がひかれあって恋愛をする。結婚をする。それはOKなのです。しかし、他人の妻を欲してはいけないのです。食べてはいけないものを食べるということは、つまり節制できないということは、自分を地獄にたたき込むことにもなるのです。そうならないために、節制をする練習をさせる神の配慮が、この食物規定にはるとラビたちは解釈してきたのです。

 あるいは、先に少し触れましたように、これは衛生的な観点からも解釈されてきました。そこには民の健康を守るための神の配慮があると見てきたのです。実際に荒れ野の旅にしても、その後の定住後にしても、水がふんだんにあるわけではありません。そのような中で何を食べるか、衛生をどう保つかは死活問題だったのです。そのような配慮がここに見られるというのは、死骸に関する記述からも分かりますし、猛禽類を食べるなということからも分かります。「いのしし」すなわち豚肉を食べるなというのも同じです。それはあぶないのです。

 つまり一方において、私たちは無条件に神の主権を重んじることが求められているわけですけれど、その背後に神の善意があることを信じて良いということです。神は説明なさらないこともあります。ですから、私たちには分からないこともあるのです。しかし、そこで大事なことは、黙して神の善意を信じるということなのでしょう。

 そして、もう一つ大事なことを45節に見ることができます。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と主は言われるのです。「聖なる者となる」とはどういうことか。「聖なる」とはもともと「区別する」という言葉から来ているのです。区別された者として生きること、それが「自分自身を聖別する」ということであり「聖なる者となる」ということなのです。つまり、他の民から区別された「神の民」として生きることです。神のものとして生きることです。

 そのためには、常に自分たちが「神の民なのだ」ということを意識している必要があるのです。そこで「食物規定」はとても役に立つのです。なぜなら食べ物は毎日のことだからです。食べる度に、料理をする度に、自分たちは神の民なのだということを意識せざるを得ないわけでしょう。まさに、「食べ物を区別する神が、わたしを他の民から区別して神の民としていてくださるのだ」という恵みを、強烈に意識させるのが、この食物規定だったのです。

 さて、この食物規定との関連で非常に重要な出来事が、新約聖書に書かれています。使徒言行録10:9-20です。これは異邦人伝道にとって決定的に重要な出来事となりました。そこで重要な言葉は「神が清めた物を清くないなどと、あなたは言ってはならない」という言葉です。つまり、異邦人を神が清めたならば、もう清くないと言ってはならないのです。これがあるから、異邦人である私たちも教会に加えられているのです。

 しかし、だからこそなおさらに、私たちがそのような区別された民に加えられたことを意識していなくてはならないのです。クリスチャンであってもなくても同じです。洗礼を受けていても受けていなくても同じです、などとゆめゆめ言ってはなりません。食物規定は私たちには適用されません。私たちは異邦人ですから。しかし、食物規定を与えられた神の思いそのもは、しっかり私たち異邦人も受け止めなくてはなりません。すなわち、私たちは神の民なのだという意識はしっかりと保っていなくてはならないのです。



2024年10月23日水曜日

祈祷会用:レビ記 10:1~20

レビ記10:1‐20

 前の章は、アロンが手を上げて民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れ、主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くしたところで終わっていました。主の御前から火が出るということは、本来、恐るべきことであるはずです。それは主の裁きをも意味するからです。しかし、民の反応は次のように書かれていました。「これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した」(9:24)。

 主の臨在の火が喜びとなるのは、それが主の裁きではないことを民は既に知らされていたからです。すなわち、そこで行われているのは罪の贖いであることが知らされていたからです。焼き尽くされたのは民ではなく、献げられた犠牲でした。民はそこで、大祭司が存在すること、祭儀が存在することの意味を、改めて思わざるを得なかったに違いありません。天からのものによって、礼拝は成り立つのです。天からの火はまさにそのことを示すものでした。その火を「祭壇から絶やしてはならない」(6:2)と命じられていたのです。礼拝は人間の灯した火からはじまるのではないのです。

 しかし、そこで一つの事件が起こります。それが今日お読みしたところに書かれていたことです。話としては9章から続いていますから、アロンによる献げ物の初執行の当日の出来事です。その日、アロンの長男ナダブと次男アビフが「規定に反した炭火」をささげました。すると主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んでしまいました。この直前において、人々の喜びとなった臨在の火が、ここでは一変して裁きの火となったのです。それはなぜであるかを考えねばなりません。

 「規定に反した炭火」と訳されている言葉は、直訳すると「異なる火」です。彼らは礼拝において「異なる火」をどこからか持ってきたということです。本来は天から与えられた火が燃やし続けられ、そこから取らなくてはならない火を、彼らは別なところから、人間が点じた火をもってきたということです。

 人間から生じたものをもって、自己流に自分のしたいように神に近づくならば、神は御自分が聖なることを示されます。すなわち神が人間とは区別された、本来人間が近づくことのできないまことの神であることを示されるということです。「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ」(3節)とモーセが言っているのはそういうことです。

 さらに言うならば、ナダブとアビフは幕屋の垂れ幕の奥にまで近づいたということも考えられます。後に16章において次のように書かれているからです。「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった。主はモーセに言われた。あなたの兄アロンに告げなさい。決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように。わたしは贖いの座の上に、雲のうちに現れるからである」(16:1‐2)。

 規定に反する火を持ってきた彼らが、垂れ幕の奥にまで行って、安易に神に近づけると思ったことは考えられます。なぜ安易に近づいたのか。罪の贖いの犠牲がささげられたから、というのは考えられる一つの理由です。罪の赦しが神への畏れを失わせるなら、それは災いをもたらすのです。

 あるいは、自分たちは特別であると彼らは考えたのかもしれません。しかし、むしろ神に近づける立場に置かれたからこそ、神を畏れなくてはならなかったのです。これはキリスト者においても同じです。神に近づくことが赦された祭司とされています。しかし、だからこそ私たちはそのことを、畏れをもって受け止めねばならないのです。

 「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ」。そうモーセは言いました。それは息子二人を失った直後のアロンに対する言葉としては、無慈悲な言葉に聞こえるかもしれません。しかし、そこで「アロンは黙した」と書かれているのです。この箇所を読んで、モーセの言葉に対しても、神に対しても、「ひどいではないか」と思う人はいるかもしれません。しかし、アロンはわかっていたのです。災いが起こった今は、神に不平を言う時ではない。御前に畏れ、黙するべき時だ、と。

 さて、通常ならば死んだ子どもを葬るのは家族がすることです。しかし、モーセはアロンにも残された二人の息子にも、遺体をさわらせませんでした。「モーセはアロンのおじウジエルの子、ミシャエルとエルツァファンを呼び寄せて、『進み出てきて、あなたのいとこたちを聖所から宿営の外に運び出せ』と命じた。彼らは進み出て、モーセの命令に従い、祭服を着たままの二人を宿営の外に運び出した」(4-5節)。

 それはなぜでしょうか。遺体に触れたら祭儀的には汚れたことになるからです。祭儀的にけがれたら、祭儀を続行することができなくなるのです。後で見ることになりますが、アロンには、まだやるべきことが残されているのです。それは、献げられたものを「食べること」です。贖罪の犠牲は、血を聖所の中にもっていって場合、すなわち大祭司と民全体の罪のためにささげる贖罪の献げ物の場合はその一部を焼き捨てることになります。しかし、聖所の中にもっていかない場合は聖域で食べることになっているのです。

 だから、彼らはナダブとアビフが死んだとしても、祭司の務めはつづけなくてはならないのです。だから祭司は遺体に触れてはならないのです。しかも、ここでモーセはアロンと残された二人の子(祭司)であるエルアザルとイタマルに言うのです。「髪をほどいたり、衣服を裂いたりするな。さもないと、あなたたちまでが死を招き、更に共同体全体に神の怒りが及ぶであろう」(6節)。

 つまり通常の葬儀においては行われることを、あなたはしてはならないというのです。あなたは悲しんではならない。むしろ、畏れをもって祭司の務めを継続することこそ、あなたがたのなすべきことである、とモーセは言っているのです。今本当にやらなくてはならないことは、ナダブとアビフの死によって示されたことをしっかりと受け止めることではないか、ということです。それは何か。祭司の務めの重さです。他の者たちは悲しんでよいし、悲しむべきです。しかし、彼らはだめなのです。なぜなら、「あなたたちは主の聖別の油を注がれた身だからである」(7節)と言うのです。
 
 確かに、血縁関係というものは重いものです。祭司は家族が任職されますから、祭司としてのアイデンティティと家族としてのアイデンティティは混同されやすかったかもしれません。しかし、アロンは、それらははっきりと区別されなくてはならないことを知らされたのでした。そして、重んじられるべきであるのは、祭司として任職されたという事実の方なのです。さて、これはキリスト者という祭司として神に近づけられていることのアイデンティティは、私たちにとって、どれほどの重さを持っているのでしょうか。

 続いて、主はアロンに仰せになりました。「あなたであれ、あなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲むな。死を招かないためである。これは代々守るべき不変の定めである」(9節)。これは極めて印象的な言葉です。というのも、古代オリエントの周辺世界においても、宗教的な儀式はあり、祭儀を司る者たちはいるわけですが、通常は恍惚状態になって祭儀を行うのです。そのために酒や薬が用いられたのです。しかし、イスラエルの祭司はしらふでいることを求められたのです。

 宗教的であるということは恍惚状態や熱狂状態になることではなくて、醒めていることだということです。それはなぜなのか。次のように書かれています。「あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えることである(10-11節)。彼らは区別しなくてはならないのです。すなわち判断しなくてはならないのです。

 清いものと汚れたものを区別する、とは神の喜ばれるものと忌み嫌われるものを判断するということです。御心にかなったものと、主は憎まれるものを判断することです。そして、それを教えることが彼らの務めなのです。だから醒めていること、判断できることが重要なのです。もちろん、それはキリスト者という祭司にも求められていることであって、新約聖書においては「身を慎んでいましょう」(1テサロニケ5:6)と勧められているのです。「身を慎む」と訳されているのは「しらふでいる」ことを意味する言葉です。

 さて、モーセは9章で献げられたものを「食べること」をアロンと生き残ったエルアザルとイタマルに求めました。食べることもまた主が定めた祭儀の中のことだからです。それゆえに、それが正しく執行されたか否かをモーセは気にしました。しかし、聖域で食べられるべき贖罪の献げ物が食べられないで焼き尽くされてしまっていたのです。

 モーセは怒って彼らに言いました。「なぜ贖罪の献げ物を聖域で食べなかったのか。あれは神聖なものであり、共同体の罪を取り除き、主の御前で彼らの罪を贖う儀式を行うためにあなたたちに与えられたものである」(17節)。

 先にも言いましたように、贖罪の献げ物には、血を聖所に持って行くものと行かないものがあるのです。そして、血を聖所に持っていかないものは祭司が食べるのです(6:18)。しかし、アロンは言いました。「確かにあの者たちは今日、贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物を主の御前にささげました。しかし、わたしにこのようなことが起きてしまいました。わたしが今日、贖罪の献げ物を食べたとしたら、果たして主に喜ばれたでしょうか」(19節)。

 アロンは二人が神に裁かれて死んだことを小さなこととは見ませんでした。これは大祭司の罪でもあり、民全体に及ぶ罪の贖いが必要だと考えたのです。すなわち、献げられた贖罪の献げ物については、これを「大祭司の罪のため、イスラエル共同体全体に及ぶ罪のための贖罪の献げ物」と見なしたのです。もし、そうであるならば食べてはならないのです。目の前で悲しむべきことが起こったのです。しかし、それをアロンは神の前で自分の罪として認めたのでした。そして、エルアザルもイタマルも、また問いただしていたモーセもまた、そのことを理解したのでした。


2024年10月16日水曜日

祈祷会用:レビ記 9:1~24

レビ記  9:1‐24
 
 9章に入りまして、ここにはアロンが祭司として初めて献げ物をささげた次第が記されています。その初めに、次のように書かれていました。「八日目に、モーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び集め、アロンに言った。無傷の若い雄牛を贖罪の献げ物として、また同じく無傷の雄羊を焼き尽くす献げ物として、主の御前に引いて来なさい。またイスラエルの人々にこう告げなさい。雄山羊を贖罪の献げ物として、無傷で一歳の雄の子牛と小羊を焼き尽くす献げ物として、また雄牛と雄羊を和解の献げ物として主の御前にささげ、更にオリーブ油を混ぜた穀物の献げ物をささげなさい。今日、主はあなたたちに顕現される」。

 主が神の民に顕現されるのです。神が彼らの前で栄光を現されるのです。それは言い換えるならば、彼らは確かに神の前にいるのだということをはっきりと示されるということです。神の御前にあってこそ、礼拝は成り立つのです。そこで、役割を持つのが祭司です。

 罪ある民が、そのまま神の前に立つということは、本来は死を意味するのです。彼らが死なないでなお神の御前に立つことができるのは、一つには神の定めた祭儀があるからです。犠牲の献げ方については、既に述べてきたとおりです。そして、もう一つ重要なのは、祭司という存在なのです。祭司が神と民との間に立ってとりなすのです。そして、この章においては、アロンが初めてその務めを行うことになるのです。

 さて、先週申し上げたとおり、律法によって定められた祭司制度は、いわば予告編であり、本編を指し示すものに過ぎません。本編が到来して、キリストが十字架の上で血を流され、よみがえられてからは、キリストを信じる者すべてが祭司となったのです。その祭司たちは、イエスという大祭司のもとにあり、その大祭司がまず私たちのために執り成してくださっているのです(ヘブライ8:1)。それゆえに、このアロンによる犠牲の初執行もまた、私たちの姿を指し示しているものとして、祭司の務めを任されている私たち自身の働きとして、読む必要があるのです。

 そこで、まず心に留めたいのは冒頭の「八日目に」という言葉です。それはすなわち、その前に七日間があるということです。その七日間については、先週見てきました。任職の儀式の七日間です。そこで重要なのは、「あなたたちは七日にわたる任職の期間が完了するまでは、臨在の幕屋の入り口を離れてはならない」と書かれていることです。そして、こう命じられているのです。「あなたたちは臨在の幕屋の入り口にとどまり、七日の間、昼夜を徹して、主の託せられたことを守り、死ぬことのないようにしなさい」(8:35)。それは徹底的に畏れをもって神の御前に身を置く七日間です。まず、彼らが神の御前に留まらなくてはならないのです。人の前に出る前に、神の御前に居続ける日々が必要なのです。そのことを、彼らは徹底的に知る必要があったのです。

 なぜなら、これから彼らは祭儀の執行にかかわることになるのですが、祭儀において重要なのは人間が人間に関する務めを果たすことではないからなのです。そこで神がなされることがあって、初めて祭儀、すなわち礼拝は成り立つのです。それが先に見たように、「今日、主はあなたたちに顕現される」(4節)と表現されているのです。人は祭儀すなわち礼拝を、実に容易に「人間の業」にしてしまうものです。そこで人間のことしか考えないようになる。祭司たちが過ごしたのは、そうならないための七日間だったのです。アロンが人々の前で祭儀を行ったのはあくまでも「八日目に」なのです。

 ゆえにこれが、「人の業」ではないことが共同体全体にも宣言されることになります。「彼らがモーセに命じられたとおりの献げ物を臨在の幕屋の前に持って来ると、共同体全体は進み出て、主の御前に立った。モーセは言った。これは主があなたたちに命じられたことであり、主の栄光があなたたちに現れるためなのである」(5-6節)。

 そして、モーセはアロンに言います。「祭壇に進み出て、あなたの贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物とをささげて、あなたと民の罪を贖う儀式を行い、また民の献げ物をささげて、彼らの罪を贖う儀式を行いなさい。これは主が命じられたことである」(7節)

 主の命じられたことに従って、アロンはまず、自分のために贖罪の献げ物をささげます。任職の時だけでなく、民のために仕える度に、彼は自分のために贖罪の献げ物をささげることになるのです。

 まずアロンは「自分の贖罪の献げ物」「自分の焼き尽くす献げ物」を屠ります。ちなみに8節の「若い雄牛」は「子牛(エーネル)」という言葉です。これは出エジプト記32章にも用いられていました。民が求め、アロンが作った、あの金の子牛の像について用いられていたのと同じ言葉です。かのエーネルは罪をもたらし、今献げるエーネルは罪を贖います。思い見れば、本来ならばアロンはこの贖罪の犠牲を献げることなく、既に滅ぼされていても不思議ではありません。しかし、アロンは滅ぼされることなく、かつて金の子牛を造ったアロンが、まさに自分の贖罪の献げ物をささげなくてはならないアロンが、今、祭司として立っている姿を聖書は描き出しているのです。

 そして、これは大きくは、レビ記そのものの存在と深く関係しているとも言えます。レビ記がまとめられたのは、捕囚後の時代であると言われます。一度、バビロニアによって神殿が破壊された後、バビロンからの帰還民によって再び神殿が建てられた時代です。

 かつて子牛の像がベテルとダンに置かれていました。分裂後、北王国イスラエルの初代の王ヤロブアムが造って置いたのです。その後の王たちについては、「イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返した」という言葉が繰り返されています。ヤロブアムの罪を離れなかった北王国はやがて滅びます。南ユダは北王国の罪とその滅びを見ていたはずなのに、悔い改めることなく、やがて南王国も滅びます。エルサレムは破壊され、神殿は焼き払われてしまいました。本来ならば、それで神の民の歴史は終わりであったはずでした。

 しかし、やがて神の恵みによって、再び神殿が建て直され、祭儀が行われることになります。レビ記がまとめられたのはその頃です。レビ記をまとめた人たちは、このアロンの祭儀の初執行をどんな思いで書き記したのでしょうか。少なくとも彼らは、祭儀を行えること、礼拝を行うことができることが、ただ神の恵みによることを思わずにはいられなかったに違いありません。

 アロンが「自分の贖罪の献げ物」「自分の焼き尽くす献げ物」を献げた後、さらに命じられたとおり、彼は「民の献げ物」をささげました。血が祭壇に注ぎかけられました。そして、22節において「手を挙げて民を祝福した」と続きます。

 実際には、その後に書かれているように、「彼が贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげ終えて、壇を下りると、モーセとアロンは臨在の幕屋に入った」というのが先です。その後に、「彼らが出て来て民を祝福すると」と続くのです。祝福の前に、彼らが臨在の幕屋に入ったのは、定められていたように罪の贖いの血を振りまき、香を焚く祭壇の四隅の角に塗るためです(4:6、7他)。

 臨在の幕屋に入ることは、神に近づくわけですから、それは本来ならば死を意味します。犠牲が受け入れられなければ、すなわち携えていった罪の贖いの血が受け入れられなければ、彼らは幕屋から再び出てくることはありません。彼らが臨在の幕屋に入り、再び彼らの前に現れたということは、すなわち屠られた犠牲が神に受け入れられたことを意味するのです。そのような彼らが民の前に再び現れて、民を祝福した。それが22節の「アロンは手を上げて民を祝福した」という言葉の意味することなのです。

 その祝福の言葉はここには記されていませんが、主がアロンとその子らに与えられた祝福の言葉は民数記6:24~26に記されています。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
 主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。
 主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。」

 そのような祝福に民があずかることができるのは、民の行いによるのではなく、ただ献げられた贖罪の犠牲が受け入れられたからであり、流された血が受け入れられたからなのです。そして、このこともまた、キリストの出来事を指し示す予型でもあるのです。主は自らを罪の犠牲として捧げられ、三日の後、キリストは復活されました。いわば主は臨在の幕屋が指し示すまことの幕屋から出て来て、その贖罪が完全であることを明らかにされたのです。そして、キリストは弟子たちを祝福して天に昇られたのです。

 このアロンによる犠牲の初執行においては、モーセとアロンが出て来て祝福した後、「主の栄光が民全体に現れた」と書かれています。さて、それはどのような形で現れたのでしょう。次のように書かれています。「そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした」(24節)。それは本来、恐るべき光景であったはずです。主の御前から炎が出ることは、主の裁きをも意味し得るからです。実際10章では同じ火が裁きとして現れたことを見ることになるのです。しかし、印象的なのは、この恐るべき出来事を見た人々の描写です。「これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した」と書かれているのです。

 主の御前から出た火が「喜び」となったのは、最終的にアロンの祝福に至る、祭儀を見てきたからでしょう。すなわち、罪の赦しをもたらす神の恵みによって定められた祭儀が行われてきたのを見ているからです。言い換えるならば、主が命じられた祭儀の意味を悟ったということでしょう。大祭司が存在すること、祭儀が存在することの意味、礼拝が成り立つことの意味を悟ったのです。その時、主の臨在は恐れをもたらすのではなく、大きな喜びをもたらすものとなるのです。しかし、それはまた厳粛なことでもある。もし赦しに基づいた火さえも人間が侮るならば、そこにはもはや赦しは残されていない。それが続く10章で現されることになるのです。

2024年10月9日水曜日

祈祷会用:レビ記 8:1~36

レビ記 8:1‐36

 今日お読みしたところには、祭司の任職について書かれています。祭司は、人々に代わって、人々を代表して神に近づきます。もう一方で、祭司は人々に律法を教えます。律法があるからこそ、罪もまた明らかになります。そこで祭司は教えるだけでなく、人々の弱さをたずさえて、神の御前に出て、神に語るのです。聖所の中に入ることができるのは彼らだけであり、人々は間接的にのみ神に近づくことができたのです。

 しかし、それはいわば予告編なのであって、本編を指し示すものに過ぎません。本編が到来して、キリストが十字架の上で血を流され、よみがえられてからは、キリストを信じる者すべてが祭司となりました(1ペトロ2:9)。また、イエス様ご自身が私たちの大祭司となり、神の右の座におられて、私たちのために執り成してくださっているのです(ヘブライ8:1)。それゆえ、8章から10章にかけては、祭司について書かれているのですが、そこにおい私たちは、大祭司であるキリストについて学ぶことができますし、また、祭司の務めを任されている私たち自身の働きについて学ぶことができるのです。そこで、今日は特に8章に書かれている任職式の様子から学びたいと思います。

 主は既に、シナイ山の上でモーセに、アロンとその子らの任職式に関して指示を与えています(出エジプト記29章)。ここに書かれていることは、まさに出エジプト記において主が命じられたことが実行されている次第が伝えられているのです。「これは主が命じられたことである」(5節)とモーセが語っているとおりです。
 ここでアロンと4人の息子が祭司となるための儀式が行われています。彼らが神のものとなり、神から託された働きを行うことができるように聖別されるのです。彼らは、そのままで主に用いられることはできません。アロンがモーセの兄という理由で用いられることはありません。また、息子たちがアロンとの血縁関係があるという理由で用いられることはありません。まず、主が望まれる仕方で、主の御言葉に従って聖別されなくてはならないのです。

 何のためにこんな儀式が必要なのかと問うことは無益です。主が定められたからという答えしかないからです。また主は、イスラエルの全会衆が祭司の任職式に集うように命じておられます。もちろん、現実的には全員が集まることはできないでしょうから、おそらく代表のイスラエルの長老たちが臨在の幕屋の入り口に近づいているものと思われます。しかし、いずれにせよ、祭司が任命されることは、主の御言葉に従って、公になされねばならなかったのです。

 今日、祭司としてのキリスト者が地上に存在することについても、主が定められたことがあります。キリストとの関係において「私的に」キリスト者になることはできません。なぜ十字架を通しての罪の赦しなのか。主が定められたからです。なぜ十字架を信じてバプテスマを受けることが必要なのか。主が命じておられるからです。なぜ聖餐を行うのか。主が命じておられるからです。それは個人的なことではなくすべて共同体的なことです。病床洗礼においてさえそうなのです。また、教会のすべての働きは共同体的なことであり、公のことなのです。教会とは関係なく、神の民と関係なく、個人的にキリスト者であり祭司であることはあり得ないのです。

 祭司の任職において、彼らはまず水で清められる必要がありました。祭司は神と人との間に立つのですから、その務めは汚れを帯びていてはなりません。しかし、その清さは自分自身で獲得するのではありません。人間から生じる清さが人を働きにふさわしくするのではないのです。それはまず「洗われる」ことによって得られるのです。つまり、この水による洗いは、《神によって》清められることを象徴しているのです。

 そして、彼らは新しい装束を得ることになります。彼らは長い服を着せられ、飾り帯を締め、頭にターバンを巻きます。その一つ一つの意味が何であれ、大事なことは、「着せられる」ということです。外から、神から着せられるのであって、その人の中から出て来るものではないのです。その人が祭司にふさわしいから祭司になるのではないのです。その務めは「着せられる」のです。逆に言えば、それが純粋に外から来るゆえに、その恵みに応答する責任、忠実さが求められることになるのです。

 キリスト者という祭司になるのもまた同じです。外から洗われて務めに就くのです。それが洗礼です。清めるのは神であって、清くなったから洗礼を受けるのではありません。また、その務めに就かせられるのは、着せられることに他なりません。「キリストを着る」(ローマ13:14,ガラテヤ3:27)という表現が新約聖書に出てくるのは、そういうわけです。

 続いて油が注がれます。まず幕屋と外庭にあるあらゆる用具に油を注ぎます。これらを聖別するためです。聖別とは、他のものと区別して、ただ神のものとして用いることを意味します。これらの用具、例えば、12個のパンを置く机は、他の机と区別されて、主を礼拝するためだけに用いられることになります。そのために油が注がれるのです。

 興味深いのは、続いてアロン自身にも油が注がれたということです。頭から聖別の油の一部が注がれるのです。祭具を聖別した後なら意味もはっきりします。基本的には聖別された机と一緒です。他の用途に用いてはならないということです。完全に神のものとして、神への奉仕だけに用いられる器として聖別されるということです。

 さらに、贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物が献げられます。私たちがこれまで見てきたように、決められた手順でいけにえがほふられます。まず、雄牛の上に手を置く。これはこの動物が、確かに自分自身であり、自分の身代わりになったことを示します。そして、この動物をほふられ、血が流されます。それを取って、祭壇をきよめるのです。ここでは水で清めるのではなく、血で清めることになります。ここにおいては、明らかに罪の赦しが問題となっているからです。そして、雄牛を解体して、脂肪と内臓の部分は祭壇の上で焼きます。肉や皮や汚物など、その他の部分は宿営の外に持っていき、そこで焼き捨てます。これは、私たちの主が、エルサレムの町の外で、神に遺棄されたものとして、十字架につけられ、死なれたことを指し示すものです。

 贖罪の献げ物は、罪を自覚することなくして献げることはできないことについては、既に申しました。祭司の務めを果たすとき最初に向き合わなくてはならなかったのは、自分が罪ある人間であるという事実でした。まず、自分の罪が贖われなくてはならないという事実を、自分自身がまず目の前で死んでいく動物の姿を通して見なくてはならなかったのです。そのことを知ってこそ、はじめて神にお仕えし、神に用いられるようになるからです。それは確かに、キリスト者が祭司としてのキリスト者として生きる上で、まず知らなくてはならないことなのでしょう。

 そして、祭司は罪を赦された自分自身を献げるのです。それを象徴しているのが焼き尽くす献げ物です。自分が罪深い人間であると知った上で、その自分の身を主におささげするのです。

 続いて、任職の献げ物が献げられます。任職の献げ物とされる雄羊については、その流された血を、祭司になる人の耳たぶと手足の親指に塗ったことが記されています。任職の献げ物においては、このことが特徴的であると言えるでしょう。すべて右側に付けられていますが、聖書では右は権威や活動の象徴です。それはすべて神の権威に服することを示しています。耳たぶに血が塗られるのは、私たちが聞くことにおいて服従することを意味します。右手の親指に血が塗られるのは、祭司の働きが神の権威に服するものとであることを示しています。手を動かすことによって、私たちは働きます。この手は、主が喜ばれることのみに用いるのです。そして、右足の親指に血が塗られるのは、私たちの歩みが聖別されるためです。私たちの足がどこに向かうかということもまた、神に服するものでなくてはならない。耳と手と足、要するに生活のすべてが聖別され、神に服するものとなるということを、この聖別の献げ物は示しているのです。

 そして、30節に示されているように、祭服には聖別の油がそそがれます。さらには祭壇の血が取られ、振りまかれて、祭服には血の染みがつけられます。それは既に述べてきたように罪の赦しと神による聖別によって務めに立っていることが、誰からの目にも明らかになるように、いつでも公にされるようにということです。それはキリスト者であることについても言えるでしょう。罪が赦された者であり、神のものとして生きていること。それが誰の目にも見えるようになっていることは、本当はとても大事なことなのでしょう。

 さて、そのような任職式は7日間続きます。33節以下においては、アロンとその子らに対して、その間、臨在の幕屋の入り口から離れてはならないという指示が出されています。それは何のためか。「死ぬことのないように」と書かれているのです。アロンとその子らは畏れをもって、その指示を聞かなくてはならなかったことでしょう。

 それは自分が何のために召されたかを徹底的に知る七日間に他ならなかったはずです。確かに、自分が資格を獲得したのではないのです。まったく恵みによって選ばれたのです。その務めも自分の内から出たものではなく着せられたものです。しかし、だからこそ畏れをもって応答し、仕えていくことが求められているのです。それこそがキリスト者の本来のあり方なのです。自分が何者であるか。何者とされているのか。私たちもまた、徹底的にそのことを見つめる期間が必要なのではないかと思います。

2024年10月2日水曜日

祈祷会用:レビ記 7:1~21

レビ記 7:1-21
 

 今週も引き続き、各種の献げ物に関する施行細則の部分をお読みします。既に読んできましたそれぞれの献げ物の意味を振り返りながら、この施行細則において強調されている特別なメッセージに耳を傾けたいと思います。

 7章に入りますと、まず「賠償の献げ物」に関する細則が記されています。賠償の献げ物については、既に5章14節以下において見てきました。まず簡単に振り返っておきましょう。

 人間には償い得るものと償い得ないものがあります。償い得ないものに関して、それを一生背負って苦しみ続けることは、主が望むところではありません。しかし、償い得るものもあるのです。それについては償ったらよいし、償うべきなのです。その償いに伴うのがこの「賠償の献げ物」です。

 償いについては二通りあります。まずは主に対する償いです。5章に書かれていたのは、主に献げるべき奉納物を過って献げなかった場合です。その背景には聖書の独特の考え方があります。「主に献げるべき奉納物」と訳されているのは「主の聖なるもの」という言葉です。すなわち「主のもの」ということです。献げものというのは、私たちのものを主に「あげる」のではありません。もともと「主のもの」であるものを主のものとするのです。ですから「主に献げるべき奉納物」を献げないということは、要するに主のものを自分のものにしてしまっているということです。それは償い得ることなので償う。そこで献げるのが「賠償の献げ物」です。
 さらに、書かれているのは、禁じられている主の戒めを破った場合です。それはいわば主に損害を与えるということとして書かれているのです。これが聖書の見方です。私たちの罪は、それが何であれ、主に対して損害を与えることなのだということです。ならば、償い得るものは償わなくてはならない。そこで賠償の献げ物を献げます。

 その次には人間に対することが書かれているのですが、人間に対して罪を犯した場合も、それは単に人と人との間のことではありません。人が気づかなくても、裁判で有罪にならなくても、それが罪ならば責めを負います。責めは神に対して負うのです。それゆえに、返すべきものは返し、その上で賠償の献げ物を献げるのです。

 さて、今日お読みした箇所には、さらに賠償の献げ物を捧げる際の細かい規定が書かれています。大きく分けるならば、「血」と「脂肪」と「肉」について書かれているのです。

 賠償の献げ物は、焼き尽くす献げ物を屠る場所で屠ります。すると血が流れます。血は祭壇に注ぎかけます。これは焼き尽くす献げ物の時と同じように、罪を贖うために流される血です。17章11節に「血はその中の命によって贖いをするのである」と書かれているとおりです。血が注がれるということは、命が注がれるということです。命が注がれるとき、もとの犠牲は命が出てしまうわけですから死ぬことになります。それは贖いのための死です。注がれる血は、その死が贖いのための死であることを示しているのです。

 そして、その血は祭壇の四つの側面に注がれるのです。それは焼き尽くす献げ物のときと同じです。それは要するに、すべての人から見えるように注がれるということです。それを献げた人だけが見るのではなく、罪が赦されるために命が注がれたことが公に示されるということです。

 続いて「脂肪」については「祭司はこれを祭壇で燃やして主にささげ、煙にする」(5節)と書かれています。特に祭司に対する指示としてこう書かれていることには、意味があります。犠牲は6節に書かれているように、祭司の食糧にもなるからです。その犠牲において、脂肪の部分は食物としては最上の部位とされていたのです。それを惜しみなく煙にすることが、特に祭司への指示として書かれているのです。祭司はそれが煙になることを惜しんではならないのです。

 後にサムエル記などに見るように、祭司職というものは堕落への誘惑が常に隣り合わせにあります。それは神に関わることを自分の利益のために用いようとしてしまうところから起こります。そのような人間の弱さがあるゆえに、特に祭司の食料となる犠牲については、祭司に対してこのことがはっきりと書かれているのです。

 そして、最後の「肉」については、明記されてはいませんが、「祭司の家系につながる男子は皆、これを食べることができる」(6節)に書かれている「これ」とは、「血」や「脂肪」以外の食べられる部分を指していることは明らかです。

 この犠牲については1,6節に「神聖なものである」という表現が繰り返されています。これは英語にするならば、"Holy of Holies"という言葉になり、最も聖なるものであり、完全に神のものであることが示されているのです。そう言われているにもかかわらず、もう一方で献げ物については、「祭司のものである」という言葉が繰り返されているのです(7、8、9節)。

 神のものが祭司のものとなっている。そこに起こっているのは、一つには6:10に書かれていたことと同じで、神が御自分のものを祭司に取り分けて与えたということです。しかし、献げる側から見るならば、そこにはもう一つの意味があると言えます。そこでは祭司が食べているのですが、彼は神に代わって食べているのです。それは神が償いを受け入れてくださったことを目に見える形で示すデモンストレーションでもあるのです。

 続いて、「和解の献げ物」について、かなり詳細な施行細則が書かれています。今日はその前半部分だけをお読みしました。「和解の献げ物」と訳されているのは「ゼバハ・シェラーミーム」という二つの単語です。ゼバハとは通常の動物犠牲をあらわす言葉です。そして、シェラーミームという単語は、「シャーローム(平和)」という言葉に由来します。ですから「平和の献げ物(peace-offering)」とも訳されます。

 その「平和」とは神との平和であり、また人との平和でもあります。なので、以前にも話しましたとおり、この献げ物の最大の特徴は、献げた人と招待された客が一緒に「食べる」ということにあります。祭司が受ける分については、胸の肉と右後ろ肢というように明確に定められています。「なぜなら奉納物の胸の肉と献納物の右後ろ肢は、イスラエルの民がささげる和解の献げ物のうちから、わたしが取り分けて、祭司アロンとその子らに与えたものだからである。これはイスラエルの人々が守るべき不変の定めである」(34節)と書かれているとおりです。煙にするのは脂肪の部分ですから、他の部分は残ります。それらを皆で食べるのです。

 しかし、残った部分も献げ物の一部ですから、それは本来神のものです。ならば、祭司以外が食べる部分についても、原則は祭司の場合と同じです。神が取り分けて与えてくださったのです。つまり、ここで皆が一緒に食べるとき、それはあたかも神の食卓に招かれているというイメージになるのです。それは神の招きによるのです。食事に招いてくださったことによって表現されているのは神との平和です。そして、当然共に招かれた人と人との間にも平和がもたらされます。それは神によって与えられた平和なのです。

 そして、今日の箇所には、「和解の献げ物」を献げる場面は、必ずしも一通りでないことが示されていました。人は「感謝の献げ物」として和解の献げ物をささげることもあるし、あるいは「満願の献げ物」として和解の献げ物をささげることもあるのです。あるいは「随意の献げ物」としてささげることもあります。

 感謝の献げ物としてささげる場合と、満願の献げ物としてささげる場合には、例えば翌日も食べることができるか否かに違いがあります。どうして感謝の献げ物の場合は二日目に食べることができないで、満願の献げ物の場合には食べることができるのか。よく分かりません。しかし、大事なことは、感謝の場合にせよ、満願の場合にせよ、神の指示に従って会食が行われたということなのです。つまり、感謝にせよ、満願にせよ、これを自分と神との間のことにしなかったということです。そこで人と喜びを共にするのです。随意の献げ物ですらそうなのです。それを自分と神との間のことにしないのです。

 しかし、会食ということが入って来ると、もう一方では単に人と人との間のことになってしまうという危険もあります。「感謝の献げ物」をするのは、何か感謝すべきことが具体的にある場合が多いのでしょう。しかし、その喜ばしいことについて、単にみんなが集まってお祝いするだけのことにしてしまわないためにも、「和解の献げ物」を「感謝の献げ物」としてささげるということが重要なのでしょう。

 それは神への献げ物ですから、神の定めに従って食べなくてはならないのです。神が二日目には食べるなと言われるなら、二日目には食べないのです。その他、諸々の規定に従って食べるのです。とかく人が集まって食べる時、そこには実際には人間しか見えないから、ともすると単なる食事になりかねません。この箇所を読みますと、古代の教会において聖餐式がそのようなものとなってしまったことを思い起こします。(1コリント11:17以下)。

 人間にはそのような弱さが確かにあります。だからこそ、これを神が招いてくださった食事とわきまえて食べないならば、「自分が属する民から断たれる」とまで書かれているのです。「自分が属する民から断たれる」は必ずしも死刑を意味しないと学者は言います。しかし、神の民から断たれることは、本当は命を絶たれることよりも大きなことではないのではないでしょうか。

2024年9月25日水曜日

祈祷会用:レビ記 6:1~23

レビ記 6:1-23

 6章と7章にはこれまで述べられてきた各種の献げ物に関する施行細則が書かれています。「アロンとその子らに命じて言いなさい」とあるように、これは祭司が実際に祭儀を行うための指示です。しかし、これを読んでいる私たちにとっては、これまで見てきた献げ物の献げ方が私たちにとって何を意味するのかを振り返り、改めて考えるよい機会でもあるのでしょう。私たちはこれまでの流れを思い起こし、その上で施行細則において強調されている特別なメッセージを受け取りたいと思います。

 最初に書かれているのは、「焼き尽くす献げ物」に関する指示です。「焼き尽くす献げ物」は、原文では「オーラー」と言い、これは「昇る(アーラー)」という言葉に由来することは既に説明したとおりです。もちろん「焼き尽くす献げ物」と言いましても、この細則に書かれているように「燃え滓」すなわち灰は残ります。しかし、その意図としては、全てを焼いて煙にしてしまうという意味で、「オーラー」という名前が付けられているわけです。

 その献げ物が何を意味していたかを思い起こしてください。その第一は、「罪の贖いの儀式」ということでした。あなたはその手を牛の頭の上に置きます。そして牛の喉を切り裂いて屠ります。大量の血が流れ、牛は悲鳴を上げながら、苦しみながら死んでいくことになります。こうしてあなたの罪は赦されます。牛の命とひきかえに。

 レビ記の最初の1ページを読んだだけで、イスラエルの祭儀の凄惨な様相というものが分かります。イスラエルの礼拝は血みどろなのです。幕屋のあるところには、苦しみの悲鳴が響き渡っているのです。これをしっかりと想像しながらレビ記は読まなくてはならないし、それこそが新約聖書において「罪の贖い」が語られている背景なのだということを忘れてはならないのです。

 そして、もう一つの意味は「献身のしるし」でした。この牛は手を置いた牛です。その牛を完全に神に献げ尽くすことは、礼拝者が自分自身を完全に神に献げ尽くすことをも象徴的に表しているのです。

 そのことを思い起こした上で、この施行細則に目を向けますと、すぐに分かりますのは、「祭壇の火を燃やし続ける」ということが強調されているということです。3回繰り返されています。ラビの伝統的な解釈において、ここで燃やし続けるべき火は、9章24節において主が点火した火であると理解されてきました。「そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した」(9:24)。もちろん、この火が後に旅をする中で受け継がれ続けて絶やされなかったということは考えにくいことでしょう。しかし、祭壇の火は、ただ人間が点火した火なのではなく、神からの火として見られること、そしてその火が燃やされ続けることは重要だったのだと思います。なぜなら、その火をもって犠牲を献げることができること自体、神の恵みによって成り立っていることを意味するからです。

 人間が人間の仕方で動物を煙にしたからと言って、それが単純に神への献げ物になるわけではないのです。どんなに高価な牛を献げても、どんなに人間の真実と真心をもって献げても、それで神への献げ物になるわけではないのです。神への献げ物は、神が受け入れてくださるから神への献げ物になるのです。そして、献げ物が受け入れられるのは、神の恵みなのであり、それ自体が神の恵みの行為なのである。罪の赦しも私たちの献身が受け入れられるのも、神の恵みなのである。すべては神から来る。それを神からの火としての祭壇の火は表しているのです。

 ならばその火は燃やしつづけられなくてはなりません。神の恵みの継続の中にあってこそ、神の民は存在し得るからです。イスラエルは絶えざる神の恵みの中にあって生かされている。そのことを彼らは忘れてはならなかったし、私たちも忘れてはならないのです。

 続く7節以下には、穀物の献げ物に関する指示が比較的長く書かれています。というのも、この細則には、祭司自身が穀物の献げ物を献げる場合が加えられているからです。

 穀物の献げ物も基本的には献身を意味しますので、焼いて煙にします。しかし、祭司が献げる場合ではなく、一般的に穀物の献げ物が献げられる場合には、これは祭司たちの食物にもなるので、全部は煙にしないことは既に2章に見てきたとおりです。そこには大きく二つの意味があったことを思い起こしてください。

 第一は、「貧しくても献げられる献げ物」という意味です。貧しいから神に献げ物はできないか。そんなことはない。牛や羊が献げられなくても、鳩ならば献げられるかもしれない。いや、鳩が献げられなくても、穀物の献げ物ならば献げられます。一日断食すれば、献げることはできるからです。

 もう一つは、「日常を献げる献げ物」という意味でした。イスラエルの民は、常に牛や羊を屠って肉を食べているわけではありません。いや、むしろめったに肉は食べないのです。普段は、それこそ、ここに出て来るような小麦でできている「輪形のパン」や「薄焼きパン」あるいは大麦を食べているのです。つまりあの牛を献げるということは、ある意味では特別なこと、非日常的なことなのですが、この穀物の献げ物は、まさに日常を献げることを目に見える形で現しているのです。

 そこでこの施行細則において注目すべきことは、祭司の食べ物となる「残りの分」について詳しく書かれていることです。「残りの分はアロンとその子らが食べる。それを酵母を入れないパンにし、しかも聖域、つまり臨在の幕屋の庭で食べねばならない」(9節)。特にここで指示されているのは、調理されないで粉のまま献げられた場合です。

 粉はそれ自体を見るならば、彼らが日常において調理して食べている「粉」なのです。献げられた後も、いわば何の変哲もない「粉」であることに変わりはありません。なので、見様によっては、祭司が生活できるように人々が食料を持ってきた、というように見えるのです。

 しかし、外見は同じでも、その「粉」は他の「粉」と同じように扱ってはならないのです。調理の方法やどこで食べるかまで神が指示するのです。それは何を意味しているのか。その「粉」は神のものだ、ということです。「これは燃やしてささげた残りであって、わたしが彼らの分け前として与えたものであり、贖罪および賠償の献げ物と同じく、神聖なものである」(10節)。そのように、祭司に与えたのは、人々ではないのです。神が彼らの分け前として与えたのです。祭司たちは神によって養われているのです。

 そのことをさらにはっきりと表しているのは、穀物の献げ物を祭司が捧げる場合の指示です。わざわざ一般的な献げ物とは区別されて書かれているのです。大祭司と大祭司の後継者が捧げる穀物の献げ物、また祭司たちの献げる穀物の献げ物については、次のように書かれているのです。「油注がれたアロン系の祭司がこれをささげる。これは不変の定めであり、それを主のために完全に燃やし尽くして煙にする。祭司自身の穀物の献げ物はすべて完全に燃やし尽くすべきであり、それを食べることは許されない」(15-16節)。

 「穀物の献げ物の一部は祭司の食べ物になるのだ」という単純な理解しか持っていなければ、祭司自身が献げた物についても、一部を自分の食べ物に回したくなるものでしょう。しかし、それを神はお許しにならないのです。なぜなら、これは神のものを「神が与える」ということだからです。

 神は祭司の献げ物からは祭司に与えないのです。その理由は書いていません。そして、それは重要なことではないのです。神のものを神が誰に与えるかは、神が決めることであって、人間が決めることではないし、それを人間に説明する義務は神にはない。それはある意味で当然のことだからです。そのように、「穀物の献げ物」にせよ、他の献げ方にせよ、部分的に祭司の食物になったり、あるいは「和解の献げ物」のように会食に用いられたりする場合は特に、それが神のものであることを皆がしっかりと認識しておかなくてはならない。この施行細則はそのことを明瞭に示していると言うことができます。

 そして、続く18節以下には贖罪の献げ物に関する指示が書かれています。
 贖罪の献げ物は、任意の献げ物ではなく、罪を犯したときに献げるよう義務付けられた献げ物でした。つまりこの献げ物は、罪を犯したことを目に見える形で公にする献げ物であったわけです。

 そこには四つのケースがありました。最初の二つは民全体にかかわることでした。大祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合。また、イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合。これらは、今日の箇所では、「臨在の幕屋で行う、罪を贖う儀式」と呼ばれています。血が臨在の幕屋の中に携え入れられるからです。

 この場合重要なことは、犠牲には捨てられる部分があるということでした。宿営の外の焼却場に運び出して焼き捨てるべきことが書かれているのです。焼き捨てるというのはゴミと一緒にされるということです。人間が献げたものがゴミと一緒に捨てられる。それは神に忌み嫌われているものとして捨てられるのだということです。それは罪人を赦される神が、罪そのものを忌み嫌われていることを示すものでした。

 さて、この施行細則に主に書かれているのは、後の二つのケースの場合です。すなわち、共同体の代表者が罪を犯した場合、あるいは、「一般の人のだれか」が罪を犯した場合です。その場合は、一部が祭司の食べ物になります。鍋で煮るのです。しかし、それはあくまでも「神聖なもの」であると言われています。ですから、穀物の献げ物の場合と同様、食べ方が指定されます。

 しかし、それは「聖なるもの」で、「この献げ物の肉に触れる者はすべて聖なるものとなる」とさえ書かれているのですが、血がかかったときは「洗い清めねばならない」と書かれているのです。すなわち汚れたものとして扱われるのです。また、さらに印象的なのは、「献げ物を煮るために用いた土鍋は打ち砕く」と書かれていることです。青銅の鍋の場合は打ち砕くことができません。しかし、その場合でも「鍋を磨き、水でゆすぐ」のです。そこまで汚れたものとして扱われるのです。これもまた、贖罪の献げ物は神に受け入れられる聖なるものであると同時に、忌み嫌われる汚れとして見られることを示しているのです。

 前にも申しましたが、この献げ物は具体的な罪を認識して献げるのです。罪を神が忌み嫌っていることを人は知る必要があります。罪の赦しは罪の許可ではないのです。神は罪を徹底的に憎まれるけれど、それでもなお赦してくださるのです。打ち砕かれる土鍋、汚れたもののように磨かれる鍋、そこに罪が処理されるとはどういうことかを見なくてはなりません。



2024年9月18日水曜日

祈祷会用:レビ記 5:1~26

レビ記 5:1-26

 4章では「贖罪の献げ物」を献げる場合の、4つのケースについて書かれていました。まずは「油注がれた祭司」すなわち大祭司が律法を犯した場合。続いて「イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合」。この二つが前半の二つでした。これは民全体に関わる場合です。後半の二つは個人の場合です。まずは共同体の代表者が罪を犯した場合。そして、一般の人が罪を犯した場合です。そして、個人であろうが共同体全体であろうが、重要なのは罪を認識していることでした。罪を認めないまま贖罪の犠牲は献げることはできません。言い換えるならば、この献げ物を献げるということは、自らの罪を公にすることであり、その罪を自らも認識していることを公にすることでもあったのです。

 さて、5章前半はその続きです。ここには、ある意味で実に聖書ならではのことが書かれていると言えます。聖書は人間を本当に良く知っているからです。

 4章で述べられたものに加え、さらにここでは4つのケースについて書かれています。
第一は5章1節です。少々分かりにくいのですが、要するにこういう状況です。誰かが罪を犯しているのを、たまたまあなたはそれを見てしまった。例えば、誰かが盗みを働いているのを見てしまった。当然、そこには被害を受けた人がいるわけです。被害者は被害を受けたことを嘆き、加害者を呪います。それをあなたは聞いています。当然なすべきことは、見たことを証言することです。しかし、何らかの理由で、例えば報復が怖かったりして、証言しなかった。そのような場合です。その時には「罰を負います」と言われています。つまり、それは神によって裁かれるべき罪であるということです。

  第二は5章2節に書かれていることですが、これも若干の説明が必要です。汚れたものに触れてしまった。すると、これは後に11章24節、25節などに出てくるのですが、例えば動物の死骸など触れるなら夕方まで汚れることになります。衣服は水で洗わなくてはなりません。その他にも、汚れを負うケースは様々にあります。ところが、その時に気づかないで、後で気づくこともあるわけです。そのような場合、そのように気づかなかったために規定を破ってしまっていた場合でも、それは罪になります、ということです。

 第三は、人体から生じる汚れの場合です。出血が止まらない病気や漏出などの話です。これも触れたら夕方まで汚れます。衣服などは水洗いしなくてはなりません。いろいろやることがあるのです。しかし、その時には気づかないで、後で気づくということもあるのでしょう。ここに書かれているのは、そのような場合です。

 四つ目は、軽はずみな誓いをした場合です。誓いの言葉はいつも真面目に重く受け止められるわけではありません。本人ももともと実行するつもりはないし、聞いている人々も、簡単に忘れてしまうようなこともあるわけです。そして、実際、誰も覚えていない。しかし、本人がふと「そういえばあんなこと誓ったっけ」と思い起こす。そのような場合です。

 さて、この四つのケースの共通点というのは何でしょうか。それは「知らんぷり」できるということです。見たことを黙っていたって、恐らくはだれも気づかない。「私は見なかったのだ」と自分に言い聞かせることもできます。汚れたものに触れたと気づいたとしても、それを知っているのは恐らくは自分だけなのです。しかも、もう夕方も過ぎてしまい、今さら持ち出すのも面倒です。なかったことにしようと思えばできるのです。他の二つも同じです。軽はずみな誓いをして、自分が守っていないことを知っているのは、恐らく自分だけなのです。だから自分が気にしなければ、どうせだれも覚えてはいないのだから、なかったことにできるのです。

 しかし、「知らんぷり」したとしても、責めを負うという「事実」はあるのだ、とこの規定は言っているのです。責めを負うのだから、赦してもらわなくてはならないのです。つまり人が知っているかどうか、人から咎められるかどうか、ばれる可能性があるかどうか、人がもう忘れているか否か、――そんなことは関係ないのだ、ということなのです。罪は赦してもらわなくてはならないのです。そこで大事なことは罪を罪として認めるということなのです。

 わざわざ3節でも4節でも「知るようになったとき」と書いてあります。知ることができた、つまり罪に気づかせていただいたのですから、それを認めることが大事なのです。贖罪の献げ物を献げるということは、まさに神の御前に罪を認めるということなのです。それがどれほど大事なことかをこの犠牲の規定は示しているのです。

 その後に貧しい人のケースが書かれています。鳩でもいい。鳩に手が届かなかったら小麦粉でもいい。小麦粉10分の一エファは一オメルです。1オメルというのは、実はマナが降ったところに出てきました(出エジプト記16:36)。要するに一日分です。だから本当に貧しくて献げられないならば、一日断食したら献げられる、という話です。

 ある意味では、ここには神が何としてでも赦したいという思いが込められているとも言えます。牛がだめなら鳩でもいい。鳩がだめなら小麦でもいい。とにかく知らんぷりして責めを負ったままでいてほしくない。そのような神の心の現れがここに見えてくるのです。大事なことは、罪を認めることなのです。気づかせていただいたのだから、そのことを神の御前できちんと認めることなのです。

 5章の後半には、短く「賠償の献げ物」について書かれています。簡単に言えば、償い得るものは償いましょうという話です。人間には償い得るものと償い得ないものがある。償い得ないものに関して、それを一生背負って苦しみ続けることは、主が望むところではないのでしょう。しかし、償い得るものもあるのです。それについては償ったらよいし、償うべきなのです。

 まずは主に対する事があります。ここに書かれているのは、主に献げるべき奉納物を過って献げなかった場合です。「主に献げるべき奉納物」と訳されていますが、直訳は「主の聖なるもの」という言葉です。要するに「主のもの」ということです。献げ物というのは、もともと本来「主のもの」なのです。私たちのものを主に差し上げて、主のものにするのではありません。もともと主のものであったものを、主にいわばお返しするのです。私たちの「献金」もそうですが、献げ物とは本来そういうものなのです。

 だから献げるべきものを献げないということは、いわば主のものを自分のものにしてしまっているということになるのです。これについては償いができるわけだから償いましょう、というのがこの賠償の献げ物の規定です。5分の一を加えて献げるのです。

 さらに印象深いのはその次です。禁じられている主の戒めを破った場合です。それはいわば主に損害を与えるということとして書かれているのです。これが聖書の見方です。私たちの罪は、それが何であれ、主に対して損害を与えることなのだということです。

 ところが、私たちの罪についても、知らないでやってしまっていることの方が圧倒的に多いのです。それは律法を意識して生活しているイスラエルの民でも同じことだったのです。知らずに罪を犯している。知らずに主の心を痛め、あるいは主に損害を与えている。それは「知らなかったこと」なんだから仕方ないではないか、とは言えないのです。人間の間だって、知らないで損害を与えたら、「知らなかったこと」だから仕方ない、そんなの知らないよ、とは言えないでしょう。ということで、「それを知らなくても、責めを負い、罰を負う」(17節)と語られているのです。

 その次は、人間に対する事柄なのですが、それは単に人間に対することではなく、そこには「主を欺き」とも書かれています。17節は、ある意味では「知らなかった」律法違犯についてなのですが、21節以下は意図的な欺きの場合です。つまり、意図して行って、着服などがうまくいった場合です。

 友人はまだ気づいていません。しかし、それはばれたら、あるいは裁判で負けたら責めを負うということにはならないのです。ばれなくても、被害者が気づかなくても、責めを負うのだとこの規定は言っているのです。だから返しなさいと主は言われるのです。賠償の意味を込めて、五分の一を加えて返しなさい、と。

 もちろん、他の人に返すから罪が赦されるのではないし、人間の行いが罪の赦しをもたらすのではないのです。赦すのは神なのです。人が「責めを負う」とき、それは単に人からの責めを負っているのではないからです。だから賠償の献げ物を献げるのです。それが赦しは神から来るのであり、それはまた神の恵みなのだという事実を示しているのです。神は赦そうとしておられる。それと同時に、人間と人間の間の関係も真実なものとなることを望んでおられるのです。

2024年9月11日水曜日

祈祷会用:レビ記 4:1~34

レビ記 4:1-34

 「主はモーセに仰せになった」(1節)と書かれていました。1章1節に書かれていたのと同じ言葉です。ここから新しい区分に入るということです。レビ記には犠牲の献げ方が単純に羅列されているように見えますが、実はそうではありません。3章までは任意の献げ物の話です。4章からは献げることが義務づけられている献げ物の話に移ります。罪を犯した時に、これを任意で献げるのではありません。献げなくてはならないのです。

 今日お読みした箇所に書かれていたのは、「贖罪の献げ物」です。全焼の献げ物もまた「罪を贖う儀式」(1:4)という意味を持っていました。同じ言葉が、4章でも20節などに出てきます。しかし、「贖罪の献げ物」の場合は、例えば3節に「油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合には、自分の犯した罪のために」とあるように、具体的な罪が念頭に置かれていることがわかります。「人間には罪があるから献げます」というのと「具体的な罪を犯しましたから献げます」というのでは意味合いが違いますでしょう。

 そのように、具体的に禁じられていることを行ってしまった場合、それは任意ではなくて「献げなくてはならない」のです。これはどういうことを意味するかというと、要するに、誰かが「贖罪の献げ物」を献げていたとすると、それを見た人は、「あの人は律法を犯したのだな。それを本人もまた認識しているのだな」と理解することになる、ということです。言い換えるならば、罪を犯したという事実が公になることを意味するのです。

 この章には四つの場合が書かれています。まずは「油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合」です。ここでいう「油注がれた祭司」とは、特に大祭司を指していると考えられます。この大祭司が律法を犯した時、それは公にされることになります。大祭司であっても明らかにされるのです。

続いて「イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合」(13節)について語られています。この二つが前半部分です。これらはどちらも民全体に関わることです。大祭司が罪を犯すと民全体が責めを負う、つまり神から咎められることになるからです。このように民全体の場合は、「若い雄牛」を献げることが定められています。「若い雄牛」というのは最も高価な大きい牛(「パル」と呼ばれます)のことです。そして、もう一つ、聖所の中に血が注がれることが定められています。聖所の垂れ幕の前、祭壇の角、そして入り口の祭壇の基に注がれるのです。そのように徹底的に罪の贖いがなされるのです。

 後半の二つは個人の場合です。その第一は共同体の代表者であり、上に立つ者が罪を犯した場合です。そして、次に書かれているのは「一般のだれか」の話です。この場合は山羊でもよい。罪を贖う儀式にしても、聖所の中にまで血を注ぐことはありません。

 そのように献げ方は異なりますが、個人であろうが共同体全体であろうが、罪を認識していることが重要なのです。罪を認めないまま贖罪の犠牲は献げることができません。そして、先に申しましたように、認識していることを公にすることが求められているのです。具体的に人々の前で告白したか否かは定かではありませんが、とにかく罪を犯したことは明らかになるのです。

 ところで、この犠牲は、新約聖書の記述との関連で大きな意味を持っています。パウロが、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(2コリント5:21)と書いているからです。

 今日の箇所では、「贖罪の献げ物」という訳になっているが、実はこれは「ハッタース」という一語であり、それは「罪」とも訳せるし、同じ言葉が「贖罪の献げ物」をも意味するのです。パウロが言っている「わたしたちのために罪となさいました」というのは、「わたしたちのために贖罪の献げ物となさいました」という意味でもあり、パウロが念頭に置いているのはこの贖罪の献げ物のことであると考えられるのです。

 特に重要なのは前の二つ、民全体のために献げられる贖罪の献げ物です。それがキリストと重なることになるのです。

 ここで注目したいのは、犠牲が2区分に分かれるということです。一方に「血」と「脂肪」があります。こちらが一つの区分で、もう一つは「皮とか肉」など、「体」のその他の部分です。贖罪の犠牲においては、全部が献げ物です。煙にする部分だけではありません。その中で、血と脂肪は煙にします。血は聖所において御前に注がれるのです。これは焼き尽くす献げ物の時と同じように、罪を贖うために流される血です。17章11節に「血はその中の命によって贖いをするのである」と書かれているように、「命」をもって罪は贖われるということを意味しています。

 また「脂肪」つまり最も良い部分は目に見える形で神のものとされます。祭壇で煙にされるのです。それは全焼の犠牲の場合と同じように、神が受け入れてくださることを意味します。贖罪の犠牲は命である血をもって罪を贖うのですが、神が受け入れてくださらなかったら意味がないのです。そこで、この犠牲は確かに神が受け入れてくださる犠牲であることを現しているのは脂肪が焼かれて生じる煙なのです。それは天に昇っていくのです。

 ところが、この犠牲において特徴的なのは、捨てられる部分もまたあるということなのです。わざわざ宿営の外の焼却場に運び出して焼き捨てるべきことが書かれているのです。「清い場所」というのは修辞的な表現で、実際にはゴミ焼き場のことです。そのようなゴミを処理する場所は、宿営には必要なので、必ず設けられます。贖罪の献げ物の一部は、そこで焼き捨てるのです。それはすなわち、ゴミと一緒にされるということです。

 人間が神に献げたものがゴミと一緒に捨てられるのです。神様がそうしろと言われたのです。それは何を意味しますか。人間が神に献げたものの一部は、神に忌み嫌われて、拒否されて捨てられるということです。

 私たちは、どうも人間が神に献げるものは受け入れられるのが当然だと考えているところがあります。私たちが例えば「献金」を献げるときには、それが拒否されるとは思っていないのです。ですから、献げ物が受け入れられなかったカインは激怒したのです。もし皆さんが献げた物を、私が翌日のゴミと一緒に出してしまったら、それは極めて不快なことでしょう。しかし、実際にそういうことが行われていたのです。それが「贖罪の献げ物」の献げ方だったのです。神はどうしてそのように定められたのでしょうか。これは「罪を代わりに負った動物」だからです。先ほども言いましたように、これは「罪」という名前の献げ物なのです。つまりその一部がゴミと一緒に捨てられることは、罪を神がどれほど忌み嫌っておられるかを象徴しているのです。

 具体的な罪を認識して献げるならば、その罪を神が忌み嫌っていることを知る必要があるのです。罪の赦しとは、神が「いいよ、いいよ、わたしは気にしてないよ」と言ってくださるという意味ではないのです。神は罪を徹底的に憎まれるけれど、それでもなお、私たちを赦してくださるということなのです。

 そのように「受容」と「忌棄」が一つになっているのが「贖罪の献げ物」なのです。そして、それこそまさに十字架において起こったことなのです。キリストが私たちの罪のための犠牲となりました。この犠牲が受け入れられなければ、私たちは救われません。そして、あの犠牲は確かに受け入れられたのです。しかし、同時に神は罪を憎んでキリストを棄てられたのです。「なぜわたしをお見捨てになられたのですか」という叫びはまさにそのことを示しているのです。キリストは神殿のあるエルサレムの都の中で十字架にかけられたのではありません。都の外のゴルゴタの丘、死刑場において十字架にかけられたのです。まさにゴミと一緒にされたのです。私たちはそこに私たちの具体的な罪を見なくてはならないのです。

 そして、ここで繰り返されているのは「祭司がこうして罪を贖う儀式を行うと、彼らの罪は赦される」という言葉です。

 「赦される」は受け身で書かれていますが、これは「神が赦してくださる」という意味です。儀式が自動的に赦しをもたらすのではありません。これは神の主体的な行為です。神が赦そうと決められたから赦しがもたらされるのです。神の仕方で、神の意志によって赦しがもたらされるのです。だからそれを神の恵みと呼ぶのです。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。だから、パウロはさらにこう続けるのです。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(2コリント6:1)。


2024年9月4日水曜日

祈祷会用:レビ記 3:1~17

レビ記 3:1‐17

 前回は穀物の献げ物(ミンハー)の話でした。この「穀物の献げ物」が焼き尽くす献げ物の後にわざわざ分け入るように書かれているのには、二つの意味があることを見てきました。一つは「貧しくても献げられる献げ物」という意味でした。もう一つは、「日常を献げる献げ物」という意味でした。

 そして、このミンハーの献げ方は、今日の箇所との関連で、大事なことを示していたので少し振り返っておきます。それは「献げたら神のもの」という献げ物の原則です。粉のまま献げる場合でも、調理して献げる場合でもこう言われているのです。「穀物の献げ物の残りはアロンとその子らのものである。これは、燃やして主にささげられたものの一部であるから、神聖なものである」(2:3、10)。

 「神聖なもの」というのは、「聖なるもののうちで最も聖なるもの」という意味です。「聖なるもの」とは「神のもの」ということです。全部を煙にするわけではありません。一部は祭司の食べ物となるのです。穀物の献げ物で煙にせずに残った部分は「アロンとその子らのものである」と書かれています。この書き方に注意してください。「穀物の献げ物の残りは」。つまり、残りも「献げ物」の一部なのです。「一部は神に献げないで祭司の食べ物として残しておく」ということではないのです。ミンハーは全部が神聖なものであり、祭司が食べる部分もまた、神のものなのです。

 ミンハーだけではありません。後に見ていくように、献げ物は、さまざまな用途に用いられます。今日の「和解の献げ物」では、一部がミンハーと同じように祭司の食べ物になります。さらには、一部を会食のために用いるのです。みんなで食べるのです。しかし、それは人間が食べるために献げないで残しておいたものではないのです。献げて人の手を離れた瞬間に、それは聖なるものなのであって、全部神のものとなるのです。

 さて、今日の箇所において「和解の献げ物」と訳されているのは「ゼバハ・シェラーミーム」という二つの単語です。ゼバハとは通常の動物犠牲をあらわす言葉です。そして、シェラーミームという単語は、「シャーローム(平和)」という言葉に由来します。ですから「平和の献げ物(peace-offering)」とも訳されます。

 そして、この「和解の献げ物」という献げ方の最大の特徴は、今申し上げたように、献げた人と招待された客が一緒に「食べる」ということなのです。今日読んだところには出てきませんが、後に7章の施行細則の中に出てきます。また、申命記27章7節には「和解の献げ物を屠ってそれにあずかり(つまり「それを食べ」ということ)、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい」という形で出てきます。

 ここには牛の場合、羊の場合、山羊の場合が書かれています。内容はほとんど同じです。この献げ物においては、脂肪の部分を煙にします。脂肪の部位が異なるので、それぞれ分けて書かれているわけです。油尾は羊にはあるが山羊にはない、などということがあるからです。

 このように焼いて煙にするのは一部部分なのですが、そもそも献げ物というのは全体が献げ物なのです。だから「無傷のものを献げる」というようなことが書かれているのです。もし献げるのが脂肪の部分だけであるならば、極端なことを言えば、傷のある牛であっても脂肪の部分が無傷ならよいことになるのでしょう。しかし、そうではないのです。ミンハーの時のように明確に「しるし」とは書かれていませんが、原則はミンハーと同じなのです。煙にする一部は「しるし」として全体が神のものであることを表現しているのです。

 ならば、その「しるし」は最上のものでなくてはなりません。残り物や不要な部分であってはならないのです。だから「脂肪」や「肝臓の尾状葉」や「油尾」なのです。それらは食物としては最上の部位とされていたのです。それを惜しみなく煙にするのです。その最上の部分は人間が食べないで献げるのです。そう考えますと、いわゆる私たちがしばしば「献品」と呼ぶものについても、献身のしるしとしての「献金」にしても、改めて考え直す必要があるかもしれません。

 そのように、煙にするのは最上の部分なのですが、残りはどうするのでしょうか。施行細則にあるように、ミンハーと同じように一部は祭司のものとなります。祭司の食物となるのです。7章29節にあるように、胸の肉と脂肪を祭司に引き渡すわけですが、煙にするのは脂肪だけで、胸の肉は祭司のものとなるのです。また、右後ろ足も祭司のものとなります。そこで次のように語られていることは重要です。「なぜなら奉納物の胸の肉と献納物の右後ろ肢は、イスラエルの民がささげる和解の献げ物のうちから、わたしが取り分けて、祭司アロンとその子らに与えたものだからである。これはイスラエルの人々が守るべき不変の定めである」。先にも触れたように、一部を神に献げ、一部を祭司に与えているのではないのです。神のものを《神が》祭司に与えるのです。

 しかし、その他の部分が残ります。それは先に触れたように、献げた人と招かれた客が一緒に食べるのです。繰り返しますが、全体が献げ物なのです。みんなで食べる部分は献げないで残しておくのではないのです。ならば、奉納者と客との会食についてはどういうことが言えますか。奉納者が客に肉を振る舞うのではないのです。神のものを《神が》皆に振る舞って下さるのです。すなわち、和解の献げ物の会食は、神御自身が、神の食卓に招いてくださっているという意味になるのです。それゆえに、その会食そのものが大きな意味を持つことになるのです。その意味を表しているのが「和解」あるいは「平和」という言葉なのです。

 その会食は、第一に「神との平和」を表現していると言うことができます。

 一般的に言って、イスラエルの伝統においては、食事はきわめて重要な人間同士の交わりを意味するものでした。人が人と共に食事をするということは、まさに人と人との間が平和であることを意味したのです。だから当然、絶対に食事を共にしない人たちもいたのです。イエス様の時代に、ファリサイ派の人たちが徴税人や罪人とは絶対に食事を共にしなかったことを思い起こしてください。

 そのような食事を「神の食卓においておこなう」のが、和解の献げ物の食事なのです。神が食卓に招いてくださり、神が肉を振る舞ってくださる。ならば、それ自体が神との平和を表現していることになるのです。

 ならば、神の食卓に招かれているのはどうしてなのか、どうして神との間が平和なのか、という「理由」が重要になってまいります。そこで5節に「アロンの子らはこれを、祭壇の燃えている薪の上の焼き尽くす献げ物と共に煙にする。これが燃やして主にささげる宥めの香りである」と書かれていることが大きな意味を持ってくるのです。それは「焼き尽くす献げ物と共に」とも訳せるし「焼き尽くす献げ物の上で」とも訳せる言葉です。恐らくは「焼き尽くす献げ物の上で」というのが本来の意味合いであろうと思います。

 「焼き尽くす献げ物」とは何であったかを思い起こしてください。それは「罪の贖い」であり「献身のしるし」でありました。その上にあって、和解の献げ物の食事もあるのです。罪の贖いなくして、神との間に平和はないのです。人間は根源的に神に敵対しているからです。「神の顔を避けて」いる存在、それが人間です。その人間が罪の赦しをいただいて、神との和解させていただくことができるとしたら、それは罪の贖いによってなのです。

 そのようにして実現する、神と人との和解、そして神と人との平和。それを象徴的に表しているがこの「和解の献げ物」「平和の献げ物」なのです。だからこそ、そこでは「神の食卓に招かれて着く」という象徴的な食事が行われるのです。

 このような和解の献げ物の食事を背景として、イエス様は神の憐れみと赦しを、一つのたとえ話において生き生きと描き出してみせてくれました。そのたとえ話とは、有名な「放蕩息子のたとえ」です。父のもとに息子が帰ってきました。そこでは神を象徴的に表している「父親」が、自ら肥えた子牛を屠らせるのです。そして、父が帰ってきた息子のために祝宴を主催し、「食べて祝おう」と言うのです。まさに、レビ記が語っている「和解の献げ物」の会食とは、そのような会食なのです。

 そして、そのような神の食卓での会食、神の祝宴に招かれたのなら、招かれたお互いの関係もまた、特別なものとなるのでしょう。今度はそこに、人と人との間に平和(シャーローム)が生み出されることになるのです。その意味において、その会食は第二に、神によって生み出された「人と人との平和」を表現していると言うことができるのです。そして、その平和は、イスラエルの民という共同体形成において、本質的な意味を持つことになるのです。

 さて、ここまで「和解の献げ物」について見てきましたが、ここで私たちが行っている「聖餐」を思い起こした人も少なくないでしょう。私たちが聖餐を行うこと、そして、毎週、聖餐卓の周りに集まって礼拝を捧げていること。その意味を考える上で、この「和解の献げ物」の献げ方は、確かに大きな意味を持っていると言えるでしょう。

2024年8月28日水曜日

祈祷会用:レビ記 2:1~16

 レビ記 2:1-16

 2章に入りました。今回は穀物の献げ物の話です。「穀物の献げ物」と訳されているのは「ミンハー」というヘブライ語です。レビ記においては明らかに「ミンハー」を「穀物の献げ物」という意味で使っているので、その翻訳で間違いではないのですが、実はこの言葉は祭儀のための特別な用語ではないのです。これは世俗の世界においても使われる言葉なのです。それは一般的な「貢ぎ物」という意味の言葉なのです。例えば、士師記の記述において、「イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのために一人の救助者を立てられた。これがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドである。イスラエルの人々は貢ぎ物を彼の手に託して、モアブの王エグロンのもとに送った」(士師記3:15)とありますが、この「貢ぎ物」と訳されているものが「ミンハー」なのです。

 「貢ぎ物」という言葉には、上下関係がはっきりと言い表されています。今日の箇所も、例えば「穀物の献げ物」の部分を「貢ぎ物」と読み替えてみ読んだら、上下関係がはっきりします。神様に献げるのだから、上下関係があるのは当然なのですけれど、それをもともとはっきり現しているのが「ミンハー」なのです。ですから、ユダヤ教のラビは、これを献げること自体に、神の支配のもとにあること、神が主であることを認めることを意味したのだ、と説明しているのです。

 ところで、このミンハーも、基本的には献身を意味する献げ物です。これは煙にするのです。しかし、これは祭司たちの食物にもなるので、全部を煙にすることはしません。しかし、ここではあえて「しるしとして」(2節)と書かれているのです。それは一部しか煙にしないけれど、それはしるしなのだ、つまり全部献げるというしるしなのだ、ということです。これについては、あとでまた触れることにします。

 さて、この「穀物の献げ物」が焼き尽くす献げ物の後にわざわざ分け入るように書かれているのには、二つの意味があります。

 一つは「貧しくても献げられる献げ物」という意味です。焼き尽くす献げ物を献げることができない人たちがいるのです。だからそれに代わるものという意味で、この献げ方が記されているのです。

 焼き尽くす献げ物にも、既に貧しい人への配慮があったことを思い起こしてください。牛を献げることができない人については、鳩でもいいことになっているのです。しかし、鳩も無理という人たちが現にいるのです。その人たちでも、献げ物が献げられるように、というのが穀物の献げ物の主旨です。

 その献げ方には二通りありました。一つは「粉」のまま献げる献げ方です。これが1節から3節にかけて記されています。もう一つは調理して献げる仕方です。これが4節から10節までに記されています。そこに書かれているように、料理の仕方もいろいろあります。かまどで輪型のパンか薄焼きパンにして献げることもできます。あるいは、鉄板焼きにして献げることもできます。平鍋で蒸し焼きにする(これはオリーブ油で揚げ物にするのだという説もある)こともできます。

 いずれにせよ、酵母を入れない。蜂蜜も入れないというのが共通した条件です。しかし、ここでは共通することよりも違いが重要になります。

 粉で献げる場合は、オリーブ油と乳香を加えるように指示されています。大量に加えるようにとは書かれていません。恐らくは微々たるものです。しかし、それでも乳香にはお金がかかります。

 これに対して、調理する場合はどうでしょう。乳香は必要ありません。つまり、貧しい人たちが献げるという場合においても、そこには配慮があるということです。貧しい中でもまだ乳香を入れられる人は、そのまま献げたらよいのです。しかし、乳香を買えない人もいるわけです。その人たちは調理することで、代わりにできるのです。手間をかけることで代わりにできるということです。それならばできないことはありません。

 そのように、献げ物の規定は、どんなに貧しくても献げられるようにできているのです。小麦粉はたしかに上等なもので、ふすまの入っていないものを献げます。しかし、それでもそれは日常の食物の範囲です。もし買えないというのなら、一回断食したら献げられるのです。

 考えてみれば、これは驚くべきことだとも言えます。この冒頭の書き方は、日本語では分かりにくいのですが、これが任意の献げ物であることを示しているのです。それは何を意味しているのでしょうか。そのように貧しくても、鳩さえ献げることができない人でも、あえて自発的に献げようとする人たちがいたということです。貧しいから献げられないということはないことを、ミンハーは示しているのです。

 それは新約において「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)と勧められていたことを思い起こす時、私たちにも大きく関わってまいります。貧しさは経済的なことばかりではない。自分に能力がない、自分には健康がない。自分には若さがない。人生の残り時間があまりない。だから神に自分を献げられない。いいえ、そんなことはない、ということです。どんなに貧しくとも、自分を献げることはできる。自発的にミンハーを献げた人々の心があるならば献げることができるのです。

 実はこれも日本語になりにくいのですけれど、原文の頭は、「人が穀物の献げ物を主にささげるときは」となっているのです。そして、「人」と訳しましたが、これは「ネフェシュ」という言葉で、「魂」とか「命」と訳されることの方が多いのです。なので、あえて訳すならば、「一つの命がミンハーを献げるならば・・・」とも訳せるのです。どんなに貧しくても、ミンハーを献げられる。それは自分の命、自分の魂が献げることであり、その意味でまさに自分自身が自分自身を献げるしるしなのです。

 先ほど貧しくても献げられると言った。実際、私たちどんなに貧しくても自分の命という意味で自分を献げることはできる。年老いても献げることができる。病床にあっても、自分を献げることができる。最終的には、文字通り自分の命を神様にお献げして、一生を終えるのです。

 そのように、どんな人でも神に自分を献げることができることを示しているのがこの「ミンハー」なのです。

 さて、そのように、ミンハーには、「貧しくても献げられる献げ物」という意味があることをお話ししましたが、もう一つ重要なのは、そこに「日常を献げる献げ物」という意味があるということです。このミンハーは貧しい人がそれだけ単独で献げることもあります。しかし、その他にも、焼き尽くす献げ物や和解の献げ物に添えて献げるという場合もあります。

 そうしますと、もう一つの象徴的な意味が見えてまいります。だいたい、イスラエルの民は年がら年中牛や羊を屠って肉を食べているわけではありません。いや、むしろめったに肉は食べないのです。普段は、それこそ、ここに出て来るような小麦でできている「輪形のパン」や「薄焼きパン」あるいは大麦を食べているのです。つまりあの牛を献げるということは、ある意味では特別なこと、非日常的なことなのですが、このミンハーはまさに日常を献げることを目に見える形で現しているのです。

 神に身を献げて生きるとは、何も特別なことではなかったのです。祭司になることだけではないのです。そもそも祭司はアロンの子孫しかなれなかったのですから。そうではなく、彼らにしても、まさに日常を献げること、日常を主のために生きること、主のものとして生きることを意味したのです。そのように、聖なるものとして生きる、主のものとして生きる「献身」とは日常を献げることなのだということを示しているのが、この「ミンハー」なのです。

 さて、11節以下では、穀物の献げ物には「酵母や密のたぐい」は入れてはならないこと、また、穀物の献げ物には「塩をかける」ことが確認され、また命じられています。これは実際的な目的としては、腐敗を防ぐためであると考えられます。そのために酵母や蜜の類の混入を避け、防腐のために塩を加えるのです。その必要があるのは、ミンハーは全部を煙にするのではなく、祭司の食糧ともなるからです。ちなみに、全部を煙にしないのですが、それでもすべては主に献げられたものであるということが、強調されて書かれています。「穀物の献げ物の残りはアロンとその子らのものである。これは、燃やして主にささげられたものの一部であるから、神聖なものである」(3節、10節)。この「神聖なもの」とは「聖なるものの内最も聖なるもの」というのが直訳です。これは祭司が食べるとしても、全部が主に献げられた、主のものなのです。

 そのように、実際的な理由はあるのですが、そこには象徴的な意味を見ることもできるでしょう。新約聖書において、イエス様は「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(マルコ8:15)と言われ、パウロもまた、「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」(1コリント5:8)と語っていますように、「パン種」すなわち「酵母」は、わずかな悪しきものが全体に影響を与えるものを喩えるために用いられています。ミンハーが日常生活を献げることを象徴しているとするならば、まさにその日常生活の中にこそ、パン種の類が入らないように注意しなくてはならない、ということでもあります。「純粋で真実のパン」として、日常を献げられることを求めるべきなのでしょう。

 また、塩はここで特に「契約の塩」と呼ばれているように、神との契約の永続性を象徴するものだったようです。契約に基づいた神の変わることのない慈しみに思いを馳せ、私たち自身も契約に真実に、神のものとして生きて行くことを心新たに思いつつ献げる。それがミンハーの意味するところなのだと思います。それは、私たちの主日礼拝においても、常に心に留めなくてはならないことなのでしょう。


2024年8月21日水曜日

祈祷会用:レビ記 1:1~17

 レビ記 1:1‐17

 今週からレビ記を読み始めます。現在の予定としては、まずはレビ記の前半部分である16章までお読みするつもりです。17章以下に関しては未定です。

 「主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった」(1節)。このような言葉からレビ記は始まります。臨在の幕屋とは礼拝の場所です。既に見てきましたように、その詳細な作り方が直前の出エジプト記に記されていました。その幕屋が完成したところで出エジプト記は終わります。レビ記はその続きです。作られた幕屋から主がモーセを呼ばれます。主はモーセを通してイスラエルの民を礼拝へと招かれるのです。そこで主はモーセに犠牲の献げ方についての指示、すなわち、礼拝に関する指示を与えられたのでした。

 さて、ここに書かれていることは、おおよそ私たちとは無縁のことのように思われます。私たちは教会に牛を連れてきたりはしません。牛を屠って火にくべたりはしません。しかし、かつて動物が犠牲としてささげられていた時、《ある定まった献げ方》があったということは私たちにとって極めて重要な意味を持っています。《形》というものは《意味》と不可分であるからです。私たちは、その意味を捉えなくてはなりません。

 今日の聖書箇所に書かれていますのは、「焼き尽くす献げ物」の献げ方です。レビ記には何種類かの犠牲の献げ方が出ていますが、「焼き尽くす献げ物」は最も一般的な献げ方です。「焼き尽くす献げ物」として献げられる動物が、ここには何種類か出てきます。代表的なのは牛であり、その場合が詳細に記されています。

 次に出ているのは、羊または山羊を献げる場合です。多くの所作は牛の場合に準じるので、簡単に書かれています。その次に書かれているのは山鳩または家鳩の場合です。このように何種類かに分かれているのは、値段が違うからです。皆が皆、牛を献げられるわけではありません。牛が無理な人は羊などを献げます。それも無理な人は鳩を献げます。経済的に困難な人の場合がこのように考慮されているのです。このように富める者も貧しい者も同様に礼拝へと招かれているのです。

 さて、動物を焼き尽くして献げることの意味するところの一つは4節に明示されております。「手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」(4節)。ここに記されているように、「焼き尽くす献げ物」に「罪を贖う儀式」という意味が伴っていたことを、私たちはまず心に留めたいと思います。

 ここに記されているような動物犠牲を伴う儀式そのものは決してイスラエルに特有のものではありません。古今東西、様々な例が見られます。ある民族は、狩りの獲物をささげます。そのようにして、獲物を与えられたことを感謝すると共に、次なる狩猟のための祈願を行います。その他にも、家畜が殖えることを祈願して家畜を犠牲として献げる習慣を持つ民族もあります。同じような意味合いをもって農作物を献げる民族も少なくありません。

 イスラエルもまた、家畜の多産や作物の豊作は、神から来るものであり、神の祝福であると理解していました。ですから、そのような祝福を求める祈願はあったに違いありません。しかし、イスラエルの礼拝においては、何よりもまず神の前における《自分の罪》を問題にしたのです。ですから「罪を贖う儀式」があるのです。

 これは、言い換えるならば、「罪を赦していただく儀式」です。礼拝における大事な要素は、なによりもまず、罪を赦していただくことだったのです。というのも、そもそも神に赦していただかなければ、礼拝するために神の前に出ることすらできないのが人間だからです。そのような自己理解は、例えば詩編130編などに明瞭に言い表されています。

 「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、
  主よ、誰が耐ええましょう。
  しかし、赦しはあなたのもとにあり、
  人はあなたを畏れ敬うのです」(詩編130・3‐4)。

 「人の罪を贖う儀式」としての犠牲奉献は、人間の根本的な必要が何であるかを、私たちに教えているとも言えるでしょう。私たちは多くのものを必要としています。そして、必要が満たされなくて困窮することがしばしばあります。そのことのゆえに苦悩し、あるいは自分は不幸であると考えます。それは経済的な悩みかもしれませんし、病気のゆえの悩みであるかもしれません。

 しかし、人間にとって本当に不幸なことは、必要が満たされずに欠乏していることではなく、人間が罪深いことなのだと聖書は教えているのです。ならば、本当に必要なことは、神によって様々な必要を満たしていただくという以前に、何よりもまず、罪を赦していただくことなのです。それゆえに、富んでいる者も、貧しい者も、それぞれの仕方において罪の贖いの儀式にあずかったのです。富んでいても、貧しくても、罪の赦しを必要としているからです。罪深いままで、神に赦していただかないままで生きているということ、そして罪人のまま死んでいくということは、本当に不幸なことだからです。

 そして、神がイスラエルに命じられたこの「罪を贖う儀式」は、人間が自分の罪というものを軽いこととして考えないためにも、重要な意味を持っていたのです。実際に、自分自身が犠牲の奉納者として牛を献げている場面を想像してみてください。あなたは手塩にかけて育ててきた牛を連れてきます。あなたはその手を牛の頭の上に置きます。それはあなたと牛が一つになることのしるしです。

 牛はこうして罪深いあなたの代わりになります。あなたの罪を代わりに背負ってくれます。そして、あなた自身の手で牛の喉を切り裂きます。大量の血が流れ、牛は悲鳴を上げながら、苦しみながら死んでいきます。牛はあなたが赦されるために目の前で死んでいきます。そこに見ているのは、あなた自身の罪に対する裁きです。本当はあなたが罪を裁かれ、苦しんで死んでいかなくてはならないはずでした。しかし、あなたは赦されました。牛の命とひきかえに。

 私たちがイエス・キリストの十字架について考える時、その背景に、イスラエルの人たちが続けてきたこのような礼拝があることを忘れてはなりません。私たちはいつの間にか十字架を単なるシンボルのように考えてしまいがちです。しかし、それはもともと死刑の道具なのです。その上にキリストが磔になっている姿は、牛が血を流して死んでいくのよりも、もっと凄惨なむごたらしいものであったに違いありません。

 その御苦しみの中に見るのは、私たちの罪とその罪に対する神の裁きに他ならないのです。パウロはあの旧約における「罪を贖う儀式」を背景として、キリストの十字架について次のように語っています。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(ローマ3:25)。私たちの礼拝もまた、神の御子の犠牲による罪の贖いによって成り立っていることを、私たちはまず心に留めねばなりません。

 さて、「焼き尽くす献げ物」について考えます時に、私たちはさらに、殺された牛が解体されて、完全に燃やし尽くされることに注目したいと思います。「焼き尽くす献げ物」は、原語では「オーラー」と言います。これは、「昇る(アーラー)」という言葉に由来します。犠牲は燃やし尽くされて、全て神のもとに昇ってしまうのです。これは完全に神に献げ尽くされて人の手元には何も残らないことを意味します。

 この牛は手を置いた牛です。手を置くことは、この牛と一つになることだと申しました。その牛を完全に神に献げ尽くすことは、礼拝者が自分自身を完全に神に献げ尽くすことをも象徴的に表しています。つまり、この犠牲は、罪を贖う犠牲であると同時に、礼拝者にとって《神に完全に献げられた自分自身》でもあるのです。

 「献身する」ということと、いわゆる「献身的である」ということは異なります。神に身を献げるということは、この身が関わる生活のあらゆる領域を神の支配のもとに置き、神のものとして生きることに他なりません。神の求めておられるのは、最終的には次の言葉によって表現されるのです。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(19:2)。

 それはレビ記全体の内容そのものが雄弁に物語っています。そこでは礼拝のささげ方だけでなく、生活の仕方に至るまで様々なことが語られております。他の人々にどう関わって生きているかということは、神と無関係ではないのです。

 しかし、神に献げられた者として生きること、その意味において「聖なる者となる」ことは、決して容易でないことも、私たちは良く知っています。生活の中に、神のものとなっていない部分、神の御心に適わない部分、神に逆らっている部分が立ち現れてくるのです。神に献げられた者として生きようとする時にこそ、そこにおいて私たちの罪もまた明らかになってくるのです。

 そのように、私たちが献身ということを本気で考え始めますなら、それはまた神による罪の赦しの恵みなしにはあり得ないという事実と向き合うことになります。だからこそ、献身を表す「焼き尽くす献げ物」は、同時に罪の贖いの犠牲でもある必要があるのです。私たちを受け入れてくださる神の憐れみなくして、私たちの献身はあり得ないからです。

 ローマの信徒への手紙12章1節には次のように書かれています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。ここで自分を神に献げよと勧められています。しかし、それは「神の憐れみによって」勧められているのです。

 私たちが神のものとして生きるための基礎、それは週ごとの礼拝によって繰り返し与えられる神の赦しの恵みです。そして、私たちはその神の憐れみに基づいて、私たち自身をお献げし、私たちの生活のすべてが神への献げ物となることを求めつつ、再びこの世へと出て行くのです。


以前の記事