2024年11月13日水曜日

祈祷会用:レビ記 16:1~34

レビ記16:1-34

 今日お読みした16章に記されているのは贖罪日に関する規定です。贖罪日(ヨーム・キップール)は第7の月の10日です。太陽暦ですとだいたい9月から10月のどこかになります。

 今日は群読しませんでしたが、29節以下にはこう書かれています。「以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第七の月の十日にはあなたたちは苦行をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者も、あなたたちのもとに寄留している者も同様である。なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳かな安息日である。あなたたちは苦行をする。これは不変の定めである」(29~31節)。

 「苦行をする」とは、具体的には断食することです。断食が定められているこの一日は、そこに書かれていますように、一年に一度、「すべての罪責が主の御前に清められる」特別な日です。31節にあるように、それはユダヤ人にとって「最も厳かな安息日」として守られてきました。これは直訳しますと「安息日の中の安息日」という言葉です。この特別な安息日は現代でもユダヤ人によって守られていまして、それこそ普段安息日を守らない人であっても、贖罪日にはシナゴーグに行く人が多いそうです。

 これまで見ましたように、この日に限らず、祭司によって罪の贖いの儀式は行われるのです。しかし、この日についてはあえて「あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである」と語られているのは、大祭司によって行われるその日の罪の贖いの儀式」があるからこそ、その他の日に祭司によって行われる罪の贖いの儀式は意味を持つということなのでしょう。だからこそ、この日には人間の罪、自分の罪にしっかりと目を向ける日でもあるのです。それは悲しみ嘆く日であって、喜び祝う日ではありません。だからその日には「苦行」すなわち断食が定められているのです。

 この日に行われることにおいて、最も大きな意味を持つのは、大祭司が垂れ幕の奥に入るということです。それは聖所と至聖所を分ける垂れ幕です。その垂れ幕が示しているのは、罪ある人間は神に近づくことはできないという厳粛な事実です。本来、人は神に近づくならば死ぬのです。だから「決められた時」すなわち、贖罪日以外には入ることはできないのです。「決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように」(2節)と書かれているとおりです。

 その主の言葉が語られる前提として、1節には次のように書かれています。「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった」(1節)。この事件については10章に書かれていました。「贖罪日」に関する規定が、この事件を前提として語られていることには大きな意味がありますので、その出来事を振り返っておきましょう。

 それはアロンによる献げ物の初執行当日の出来事でした。その日に、アロンの長男と次男は「規定に反した炭火」をささげたのです。すると主の御前から火が出て二人を焼き殺したのでした。

 彼らの献げた「規定に反した炭火」というのは、直訳すると「異なる火」という言葉です。火は、本来、神が天から与えた火が燃やし続けられているところから取らなくてはならないのです。しかし、彼らは別なところから、人間が点火した火から取ってきたのです。それが意味するのは、いわば人間から生じた礼拝です。「人間がこうしたい」ということが優先される礼拝と言ってよいかもしれません。しかし、そのように人間がしたいように神に近づくならば、神は御自身が聖なることを示されるのです。つまり神が本当に神であることを示される。それは人間にとって裁きとなるのです。

 しかし、16章においては、彼らの死について「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件」と語られており、アロンに対して「決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように」と告げられているのです。それはすなわち、彼らが安易に至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づこうとしたことを示していると考えられるのです。そのようにして彼らは自らに死を招いたのです。

 繰り返しますが、16章はこの事件を前提として語られているのです。何を意味するのでしょう。神に近づくのには、人間がではなく、神が定めた近づき方があるということです。そして、神はその仕方を定めてくださったのです。アロンの二人の息子が死んで、それで終わりではないのです。主はモーセに「あなたの兄アロンに告げなさい」と言って、神が定めた近づき方を教えてくださったのです。それはとてつもなく大きな恵みなのです。

 「まず、贖罪の献げ物として若い雄牛一頭、焼き尽くす献げ物として雄羊一匹を用意する」(3節)というところから始まります。しかし、雄牛と雄羊をどうするかが語られる前に、まず大祭司の衣装について語られているのです。

 大祭司には本来大祭司が着ることになっている衣装があることは既に8章に見たとおりです。「そしてアロンに長い服を着せ、飾り帯を付け、上着を着せ、更にその上にエフォドを掛け、その付け帯で締めた。次に胸当てを付けさせ、それにウリムとトンミムを入れた。 また頭にターバンを巻き、その正面に聖別の印の黄金の花を付けた」(8:7~9)。

 大祭司が着るのは、かなり仰々しい衣装です。しかし、アロンはその衣装を一旦全部脱がなくてはならないのです。そして、亜麻布の白い衣に着替えます。それはどうしてか。着替えた後に、「アロンは、自分の贖罪の献げ物のために雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行う」(6節)と語られているからです。これをまずしなくてはならないのです。彼は、大祭司である前に、一人の罪ある人間として神の前に立たねばならないのです。

 実際に何をするかは、11節以下に次のように書かれています。「アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。次に、主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。次いで、雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく」(11~14節)。

 彼は定められた仕方で、垂れ幕の奥に入ります。その時、定められた炭火を取って香炉に満たし、香を携えていきます。しかし、それ以上に重要なのは、その後に書かれているように「贖いの座」の東の面と前方に振りまくための「血」を携えているということです。それは「自分の贖罪の献げ物」の血に他なりません。そのように、まず自分のために贖いがなされる必要がある。これが神の定められた近づき方なのです。

 その上で民のために罪の贖いが行われます。具体的に何がなされるかは15節以下に書かれています。民の贖罪のためには二匹の雄山羊が用意されます。7節以下に説明がなされていますが、一匹は犠牲として屠るための雄山羊です。そして、もう一匹は荒れ野に放たれるための雄山羊です。これは前もってくじ引きで決めておきます。伝承によれば、「主のため」「アザゼルのため」と書かれた木札が用いられたと言われます。

 民の罪の贖いのために垂れ幕の奥に入る場合もまた、アロンは贖罪の献げ物の血を携えていきます。血を携えることなくして、神に近づくことはできません。しかし、民の罪の贖いにおいてやはり目を引くのは、「アザゼルのため」の雄山羊でしょう。この「アザゼル」が何を意味するのかは、よく分からないのですが、重要なのはその雄山羊がどのように用いられるかです。一匹は殺されて献げられるのですが、もう一匹については、21節以下に次のように書かれているのです。「アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる」(21-22節)。

 「荒れ野に追いやられる」という言葉が意味しているのは、この山羊はもう二度と戻ってこないということです。それは実に象徴的なことであり、またこれは罪の贖いがなされるイスラエルの民に実際的に必要な儀式だったとも言えます。

 例えば、詩編103編に次のように書かれています。「天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(詩編103:11-13)。

 あるいはミカ書7章には、次のように語られています。「あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」(ミカ7:18-19)

 このような聖書の言葉を読むと、どうしてアザゼルのための山羊が必要であったかが分かります。神の赦しにおいては「わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」のであり、「海の深みに投げ込まれる」のですが、それを信じることが難しい時もあるのでしょう。しかし、贖罪日において、彼らは、自分たちの罪が遠く離れて行って見えなくなるのを山羊の姿として実際に目にするのです。あの山羊はもう戻ってこないのです。罪の赦しとはそういうものだ、ということを彼らは目で見ることができたのです。

 さて、ここで私たちは以前祈祷会でヘブライ人への手紙を読んだ時に、その手紙の9章に次のように書かれていたことを思い起こす必要があります。「しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(9:7)。これは今日お読みしたレビ記16章を背景として語られているのです。

 そして、さらに次のように書かれていました。「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(9:11-12)。

 今日お読みした旧約の規定は、いわばキリストにおいて実現することを指し示す予型なのです。それは毎年繰り返されなくてはなりませんでした。今もユダヤ人がしているようにです。しかし、キリストはただ一度、決定的なことを私たちのために行ってくださったのです。次のように書かれています。「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(9:25-26)。


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