レビ記12:1‐8
前回は食物規定が記されている11章を読みました。食べるという行為は、どこまでも人間の主体的な行為です。「わたしが食べる」のです。しかし、その食物について、神が命令を与えます。神は「これを食べて良い」と言い「これは汚れたものである」と言われる。それは人間が区別するのではありません。神が区別するのです。その区別を受け入れるということは、すなわち神の主権を受け入れるということです。イスラエルの民は、まず食べ物において、神の主権に服するということを学んだのです。
それは11:45とも関係しています。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と書かれていました。「聖なる」とはもともと「区別する」という言葉から来ています。区別された者として生きること、それが「聖なる者となる」ということです。つまり、他の民から区別された「神の民」として生きること、神のものとして生きること、そのアイデンティティをしっかり持つことです。
そこで「食物規定」は大きな意味を持つのです。食べる度に、料理をする度に、自分たちは神の民なのだということを意識せざるを得ないからです。まさに、「食べ物を区別する神が、わたしを他の民から区別して神の民としていてくださるのだ」という恵みを強烈に意識させるのが、この食物規定だったのです。
そして、今日お読みした12章から15章にかけて、「出産」「重い皮膚病」「一般的な漏出」に関する規定が続きます。これらは人の内から生じる汚れに関する規定です。この部分については、一つ一つ細かく見て行くことはいたしません。この中で「出産」に関する規定だけを取り上げます。大事な事柄は共通していますので、重い皮膚病や一般的な漏出に関してはそれぞれ読んでいただくことにします。
まず「出産」に関する規定の内容を概観しておくと、最初に書かれているのは男児を出産した場合(2~4節)です。その時には当然出血するわけです。また、悪露(おろ)が続きます。このような血液や体液の流出は、一般的に「汚れ」と見なされます。それは15章に書かれている一般的な漏出にも共通しています。
この汚れには二段階あります。最初の段階は、男児を生んだ場合は七日間です。この間は何かに触れた場合、触れるものが全て汚れるので、当然、食事の準備等はできません。家事全般ができなくなります。これが2節に書かれている七日間です。これが終わると、触れることによっては汚れを移さない期間に入ります。男児の場合、8日目に割礼を施すことになりますが、母親は安心して息子の割礼にも立ち会うことができます。
しかし、一般的に何かに触れても汚れを移さなくはなるのですが、続く33日間は家に留まることが命じられています。また、「聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない」と命じられています。言い換えるならば宗教的な行事には「汚れた者」として参加することはできないのです。
続いて簡単に書かれているのは、女児を出産した場合(5節)です。この場合は、最初の段階が14日間続きます。女児の場合は割礼がないので、ある意味では支障ありません。続く段階も66日間で男児の場合の倍になります。なぜ倍になるのかは分かりません。神様がそうお決めになったらそうなるのです。ただ一般的には、古代社会においては、女児を産んだ場合の方が出血期間が長く、肥立ちも悪いと考えられていたようではあります。
続いて書かれているのは、清めの期間が完了した時の祭儀です。ここでは焼き尽くす献げ物と贖罪の献げ物を献げることが規定されています。そこで、とても印象的なのは8節の規定です。産婦が貧しい場合の規定です。その場合は鳩でもよいのです。これは一般的な犠牲奉献の話にも出てきました神様の配慮です。この実際を、私たちはイエス様の誕生に関連して見ることができます。ルカ2:22の「清めの期間」とは、男児の場合の33日間のことです。その時に、マリアとヨセフは羊を買うことができなかったので、鳩を献げているわけです。
さて、12章から15章までを通じて、このような規定についても大事なことは、11章の食物規定と同様に、第一には神の主権を認めることです。神がお決めになったから、そのように行うのです。しかし、そこにはまた神の善意に満ちた温かい配慮を見ることができます。一つは衛生的な観点においてです。水がふんだんに使えない社会において、疫病が蔓延する速度は比較になりません。そこで血液や体液の「漏出」については、特に気をつけなくてはならなかったのです。血液にせよ膿にせよ、そこにはウイルスによる伝染の危険が常に存在するからです。それゆえに、漏出全般を「汚れ」として規定して、とにかく触れないように、距離を置かせるようにしたことは、まさに神の特別な配慮だったと言えるのです。
また、特に出産に関して言うならば、汚れたとされた産後の女性は、7日間あるいは14日間、とにかく汚れを移さないように、何かに触れないように気をつけることでしょう。しかし、これは裏を返せば、何かが産婦に触れないように気をつけさせることにもなるのです。体力的にも弱っている女性に、人であれ物であれ、何かが触れることは極力避けられることになる。それは衛生環境が整っていない社会においては、産後の女性にとって実に望ましいことなのでしょう。
そしてまた、この規定は産後の女性に十分な休息を与えることにもなるのでしょう。汚れているならば触れることはできません。なので気兼ねなく家事から離れることができるのです。神は、誰も産婦に家事を強制できない状況を造り出したのです。そして、それは宗教的な様々な義務からも解放するものでした。40日間、あるいは80日間は、とにかく家が関わる行事に携わらなくてよいのです。
実際に女性の立場が弱かった古代社会においては、こうでもしなければ女性を守ることはできなかったとも言えます。一般的に言いまして、特別な配慮は時として受ける側に負い目を負わせることになります。しかし、「あなたは汚れているのだから」ということならば女性は心理的にも負い目を負うことはありません。神はその意味で、本人が負い目を感じることなく配慮を受けることができるよう、特別な配慮をなさったと言えるのです。
そして、これらの規定に関してもう一つ重要なことは、これらの規定が霊的な事柄を象徴的に表現しているということです。この場合の霊的な事柄とは「人間の罪」ということです。神の御前における罪、人間の罪とはどのようなものであるか、ということを象徴的に表しているのです。
もちろん、このように言う時には注意が必要です。ここで語られている「汚れ」と人間の「罪」とは全く別次元の話です。それらを混同することは避けなくてはなりません。出産した時、女性は「汚れている」とされますが、それはその時、出産した女性がいかなる意味においても特に罪深いという意味ではありません。
しかし、繰り返しますが、この「汚れ」というものは、「罪の現実」を象徴的に表していると言えるのです。子どもは「汚れ」の中において生まれてきます。つまり出血を始めた時点で既に汚れているのだから、血の汚れの中に赤ん坊は生まれてくるのです。何を象徴しているか明らかでしょう。子どもは人間の罪の中に罪人として産まれてくるということです。
人間の自然な感性からすると、赤ん坊は「天使」に近く見えるのであって、罪がない、清い、真っ白な存在と見えるのです。しかし、聖書はそう言いません。人間は生まれながらの罪人であると言うのです。アダムとエバが、神の禁じられた木の実を食べた時、神がエバに言われたのは、「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む」(創世記3:16)と語られています。つまり人間の罪と出産とが、最初の物語で既に結びつけられているのです。出産の苦しみは、人間の根源的な罪を指し示すものとして機能することになります。そして、この「汚れ」に関する規定も、その延長上にあるのです。人間の根源的な罪について、生まれながらの罪について考えるようにと、この規定は象徴的な意味を持つものとして機能するのです。
ですから、聖書は他のところでもやはり同じことを語っているのです。「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」(詩編51:7)これは聖書が語る、とても深い罪認識です。これをまずしっかりと心に留めるとき、もう一つのことがはっきりと見えてきます。イエス様もまた、この出産の「汚れ」の中に生まれてきたのだ、ということです。それはまさに人間の罪の世界の中に、私たちの一人として生まれてきてくださった、ということなのです。
最後に、清めの期間が終わった時に、焼き尽くす献げ物と贖罪の献げ物が献げられることについても、短く触れておくことにします。
焼き尽くす献げ物は、奉納者の献身を表すことについては既に見てきたとおりです。親となって汚れの期間が終わった時に、まず為すべきことは献身なのです。親となるとはそういうことだからです。それは献身的な親になるということではなくて、神に自分を献げるということです。
子どもは親に「与えられた」のではありません。親が作ったのではないし、親のものになったのでもありません。与えられたのは養育の責任です。言い換えるならば、その務めのために、親が自分を神に献げるのです。それが人の親になるということなのです。
それゆえにまた、贖罪の献げ物を捧げてスタートすることになります。それは罪の赦しを求めての献げ物です。赦しなくして親にはなれないのです。親は自分が罪のないものであるかのように、子どもに向かうことは許されません。子どもに指し示すのは神の正しさであって、自分の正しさではありません。親が求めるべきことは、子どもが神を畏れることであって、親を恐れることではないのです。親は神の正しさの前で自分もまた一人の罪人に過ぎないのだという認識をもって子どもに関わらなくてはなりません。親の公式の務めは焼き尽くす献げ物と贖罪の献げ物をもって始まるのだという原則は、実際に動物犠牲を献げることはない今日においても変わらないことを忘れてはなりません。