2024年8月28日水曜日

祈祷会用:レビ記 2:1~16

 レビ記 2:1-16

 2章に入りました。今回は穀物の献げ物の話です。「穀物の献げ物」と訳されているのは「ミンハー」というヘブライ語です。レビ記においては明らかに「ミンハー」を「穀物の献げ物」という意味で使っているので、その翻訳で間違いではないのですが、実はこの言葉は祭儀のための特別な用語ではないのです。これは世俗の世界においても使われる言葉なのです。それは一般的な「貢ぎ物」という意味の言葉なのです。例えば、士師記の記述において、「イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのために一人の救助者を立てられた。これがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドである。イスラエルの人々は貢ぎ物を彼の手に託して、モアブの王エグロンのもとに送った」(士師記3:15)とありますが、この「貢ぎ物」と訳されているものが「ミンハー」なのです。

 「貢ぎ物」という言葉には、上下関係がはっきりと言い表されています。今日の箇所も、例えば「穀物の献げ物」の部分を「貢ぎ物」と読み替えてみ読んだら、上下関係がはっきりします。神様に献げるのだから、上下関係があるのは当然なのですけれど、それをもともとはっきり現しているのが「ミンハー」なのです。ですから、ユダヤ教のラビは、これを献げること自体に、神の支配のもとにあること、神が主であることを認めることを意味したのだ、と説明しているのです。

 ところで、このミンハーも、基本的には献身を意味する献げ物です。これは煙にするのです。しかし、これは祭司たちの食物にもなるので、全部を煙にすることはしません。しかし、ここではあえて「しるしとして」(2節)と書かれているのです。それは一部しか煙にしないけれど、それはしるしなのだ、つまり全部献げるというしるしなのだ、ということです。これについては、あとでまた触れることにします。

 さて、この「穀物の献げ物」が焼き尽くす献げ物の後にわざわざ分け入るように書かれているのには、二つの意味があります。

 一つは「貧しくても献げられる献げ物」という意味です。焼き尽くす献げ物を献げることができない人たちがいるのです。だからそれに代わるものという意味で、この献げ方が記されているのです。

 焼き尽くす献げ物にも、既に貧しい人への配慮があったことを思い起こしてください。牛を献げることができない人については、鳩でもいいことになっているのです。しかし、鳩も無理という人たちが現にいるのです。その人たちでも、献げ物が献げられるように、というのが穀物の献げ物の主旨です。

 その献げ方には二通りありました。一つは「粉」のまま献げる献げ方です。これが1節から3節にかけて記されています。もう一つは調理して献げる仕方です。これが4節から10節までに記されています。そこに書かれているように、料理の仕方もいろいろあります。かまどで輪型のパンか薄焼きパンにして献げることもできます。あるいは、鉄板焼きにして献げることもできます。平鍋で蒸し焼きにする(これはオリーブ油で揚げ物にするのだという説もある)こともできます。

 いずれにせよ、酵母を入れない。蜂蜜も入れないというのが共通した条件です。しかし、ここでは共通することよりも違いが重要になります。

 粉で献げる場合は、オリーブ油と乳香を加えるように指示されています。大量に加えるようにとは書かれていません。恐らくは微々たるものです。しかし、それでも乳香にはお金がかかります。

 これに対して、調理する場合はどうでしょう。乳香は必要ありません。つまり、貧しい人たちが献げるという場合においても、そこには配慮があるということです。貧しい中でもまだ乳香を入れられる人は、そのまま献げたらよいのです。しかし、乳香を買えない人もいるわけです。その人たちは調理することで、代わりにできるのです。手間をかけることで代わりにできるということです。それならばできないことはありません。

 そのように、献げ物の規定は、どんなに貧しくても献げられるようにできているのです。小麦粉はたしかに上等なもので、ふすまの入っていないものを献げます。しかし、それでもそれは日常の食物の範囲です。もし買えないというのなら、一回断食したら献げられるのです。

 考えてみれば、これは驚くべきことだとも言えます。この冒頭の書き方は、日本語では分かりにくいのですが、これが任意の献げ物であることを示しているのです。それは何を意味しているのでしょうか。そのように貧しくても、鳩さえ献げることができない人でも、あえて自発的に献げようとする人たちがいたということです。貧しいから献げられないということはないことを、ミンハーは示しているのです。

 それは新約において「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)と勧められていたことを思い起こす時、私たちにも大きく関わってまいります。貧しさは経済的なことばかりではない。自分に能力がない、自分には健康がない。自分には若さがない。人生の残り時間があまりない。だから神に自分を献げられない。いいえ、そんなことはない、ということです。どんなに貧しくとも、自分を献げることはできる。自発的にミンハーを献げた人々の心があるならば献げることができるのです。

 実はこれも日本語になりにくいのですけれど、原文の頭は、「人が穀物の献げ物を主にささげるときは」となっているのです。そして、「人」と訳しましたが、これは「ネフェシュ」という言葉で、「魂」とか「命」と訳されることの方が多いのです。なので、あえて訳すならば、「一つの命がミンハーを献げるならば・・・」とも訳せるのです。どんなに貧しくても、ミンハーを献げられる。それは自分の命、自分の魂が献げることであり、その意味でまさに自分自身が自分自身を献げるしるしなのです。

 先ほど貧しくても献げられると言った。実際、私たちどんなに貧しくても自分の命という意味で自分を献げることはできる。年老いても献げることができる。病床にあっても、自分を献げることができる。最終的には、文字通り自分の命を神様にお献げして、一生を終えるのです。

 そのように、どんな人でも神に自分を献げることができることを示しているのがこの「ミンハー」なのです。

 さて、そのように、ミンハーには、「貧しくても献げられる献げ物」という意味があることをお話ししましたが、もう一つ重要なのは、そこに「日常を献げる献げ物」という意味があるということです。このミンハーは貧しい人がそれだけ単独で献げることもあります。しかし、その他にも、焼き尽くす献げ物や和解の献げ物に添えて献げるという場合もあります。

 そうしますと、もう一つの象徴的な意味が見えてまいります。だいたい、イスラエルの民は年がら年中牛や羊を屠って肉を食べているわけではありません。いや、むしろめったに肉は食べないのです。普段は、それこそ、ここに出て来るような小麦でできている「輪形のパン」や「薄焼きパン」あるいは大麦を食べているのです。つまりあの牛を献げるということは、ある意味では特別なこと、非日常的なことなのですが、このミンハーはまさに日常を献げることを目に見える形で現しているのです。

 神に身を献げて生きるとは、何も特別なことではなかったのです。祭司になることだけではないのです。そもそも祭司はアロンの子孫しかなれなかったのですから。そうではなく、彼らにしても、まさに日常を献げること、日常を主のために生きること、主のものとして生きることを意味したのです。そのように、聖なるものとして生きる、主のものとして生きる「献身」とは日常を献げることなのだということを示しているのが、この「ミンハー」なのです。

 さて、11節以下では、穀物の献げ物には「酵母や密のたぐい」は入れてはならないこと、また、穀物の献げ物には「塩をかける」ことが確認され、また命じられています。これは実際的な目的としては、腐敗を防ぐためであると考えられます。そのために酵母や蜜の類の混入を避け、防腐のために塩を加えるのです。その必要があるのは、ミンハーは全部を煙にするのではなく、祭司の食糧ともなるからです。ちなみに、全部を煙にしないのですが、それでもすべては主に献げられたものであるということが、強調されて書かれています。「穀物の献げ物の残りはアロンとその子らのものである。これは、燃やして主にささげられたものの一部であるから、神聖なものである」(3節、10節)。この「神聖なもの」とは「聖なるものの内最も聖なるもの」というのが直訳です。これは祭司が食べるとしても、全部が主に献げられた、主のものなのです。

 そのように、実際的な理由はあるのですが、そこには象徴的な意味を見ることもできるでしょう。新約聖書において、イエス様は「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(マルコ8:15)と言われ、パウロもまた、「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」(1コリント5:8)と語っていますように、「パン種」すなわち「酵母」は、わずかな悪しきものが全体に影響を与えるものを喩えるために用いられています。ミンハーが日常生活を献げることを象徴しているとするならば、まさにその日常生活の中にこそ、パン種の類が入らないように注意しなくてはならない、ということでもあります。「純粋で真実のパン」として、日常を献げられることを求めるべきなのでしょう。

 また、塩はここで特に「契約の塩」と呼ばれているように、神との契約の永続性を象徴するものだったようです。契約に基づいた神の変わることのない慈しみに思いを馳せ、私たち自身も契約に真実に、神のものとして生きて行くことを心新たに思いつつ献げる。それがミンハーの意味するところなのだと思います。それは、私たちの主日礼拝においても、常に心に留めなくてはならないことなのでしょう。


以前の記事