2024年10月9日水曜日

祈祷会用:レビ記 8:1~36

レビ記 8:1‐36

 今日お読みしたところには、祭司の任職について書かれています。祭司は、人々に代わって、人々を代表して神に近づきます。もう一方で、祭司は人々に律法を教えます。律法があるからこそ、罪もまた明らかになります。そこで祭司は教えるだけでなく、人々の弱さをたずさえて、神の御前に出て、神に語るのです。聖所の中に入ることができるのは彼らだけであり、人々は間接的にのみ神に近づくことができたのです。

 しかし、それはいわば予告編なのであって、本編を指し示すものに過ぎません。本編が到来して、キリストが十字架の上で血を流され、よみがえられてからは、キリストを信じる者すべてが祭司となりました(1ペトロ2:9)。また、イエス様ご自身が私たちの大祭司となり、神の右の座におられて、私たちのために執り成してくださっているのです(ヘブライ8:1)。それゆえ、8章から10章にかけては、祭司について書かれているのですが、そこにおい私たちは、大祭司であるキリストについて学ぶことができますし、また、祭司の務めを任されている私たち自身の働きについて学ぶことができるのです。そこで、今日は特に8章に書かれている任職式の様子から学びたいと思います。

 主は既に、シナイ山の上でモーセに、アロンとその子らの任職式に関して指示を与えています(出エジプト記29章)。ここに書かれていることは、まさに出エジプト記において主が命じられたことが実行されている次第が伝えられているのです。「これは主が命じられたことである」(5節)とモーセが語っているとおりです。
 ここでアロンと4人の息子が祭司となるための儀式が行われています。彼らが神のものとなり、神から託された働きを行うことができるように聖別されるのです。彼らは、そのままで主に用いられることはできません。アロンがモーセの兄という理由で用いられることはありません。また、息子たちがアロンとの血縁関係があるという理由で用いられることはありません。まず、主が望まれる仕方で、主の御言葉に従って聖別されなくてはならないのです。

 何のためにこんな儀式が必要なのかと問うことは無益です。主が定められたからという答えしかないからです。また主は、イスラエルの全会衆が祭司の任職式に集うように命じておられます。もちろん、現実的には全員が集まることはできないでしょうから、おそらく代表のイスラエルの長老たちが臨在の幕屋の入り口に近づいているものと思われます。しかし、いずれにせよ、祭司が任命されることは、主の御言葉に従って、公になされねばならなかったのです。

 今日、祭司としてのキリスト者が地上に存在することについても、主が定められたことがあります。キリストとの関係において「私的に」キリスト者になることはできません。なぜ十字架を通しての罪の赦しなのか。主が定められたからです。なぜ十字架を信じてバプテスマを受けることが必要なのか。主が命じておられるからです。なぜ聖餐を行うのか。主が命じておられるからです。それは個人的なことではなくすべて共同体的なことです。病床洗礼においてさえそうなのです。また、教会のすべての働きは共同体的なことであり、公のことなのです。教会とは関係なく、神の民と関係なく、個人的にキリスト者であり祭司であることはあり得ないのです。

 祭司の任職において、彼らはまず水で清められる必要がありました。祭司は神と人との間に立つのですから、その務めは汚れを帯びていてはなりません。しかし、その清さは自分自身で獲得するのではありません。人間から生じる清さが人を働きにふさわしくするのではないのです。それはまず「洗われる」ことによって得られるのです。つまり、この水による洗いは、《神によって》清められることを象徴しているのです。

 そして、彼らは新しい装束を得ることになります。彼らは長い服を着せられ、飾り帯を締め、頭にターバンを巻きます。その一つ一つの意味が何であれ、大事なことは、「着せられる」ということです。外から、神から着せられるのであって、その人の中から出て来るものではないのです。その人が祭司にふさわしいから祭司になるのではないのです。その務めは「着せられる」のです。逆に言えば、それが純粋に外から来るゆえに、その恵みに応答する責任、忠実さが求められることになるのです。

 キリスト者という祭司になるのもまた同じです。外から洗われて務めに就くのです。それが洗礼です。清めるのは神であって、清くなったから洗礼を受けるのではありません。また、その務めに就かせられるのは、着せられることに他なりません。「キリストを着る」(ローマ13:14,ガラテヤ3:27)という表現が新約聖書に出てくるのは、そういうわけです。

 続いて油が注がれます。まず幕屋と外庭にあるあらゆる用具に油を注ぎます。これらを聖別するためです。聖別とは、他のものと区別して、ただ神のものとして用いることを意味します。これらの用具、例えば、12個のパンを置く机は、他の机と区別されて、主を礼拝するためだけに用いられることになります。そのために油が注がれるのです。

 興味深いのは、続いてアロン自身にも油が注がれたということです。頭から聖別の油の一部が注がれるのです。祭具を聖別した後なら意味もはっきりします。基本的には聖別された机と一緒です。他の用途に用いてはならないということです。完全に神のものとして、神への奉仕だけに用いられる器として聖別されるということです。

 さらに、贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物が献げられます。私たちがこれまで見てきたように、決められた手順でいけにえがほふられます。まず、雄牛の上に手を置く。これはこの動物が、確かに自分自身であり、自分の身代わりになったことを示します。そして、この動物をほふられ、血が流されます。それを取って、祭壇をきよめるのです。ここでは水で清めるのではなく、血で清めることになります。ここにおいては、明らかに罪の赦しが問題となっているからです。そして、雄牛を解体して、脂肪と内臓の部分は祭壇の上で焼きます。肉や皮や汚物など、その他の部分は宿営の外に持っていき、そこで焼き捨てます。これは、私たちの主が、エルサレムの町の外で、神に遺棄されたものとして、十字架につけられ、死なれたことを指し示すものです。

 贖罪の献げ物は、罪を自覚することなくして献げることはできないことについては、既に申しました。祭司の務めを果たすとき最初に向き合わなくてはならなかったのは、自分が罪ある人間であるという事実でした。まず、自分の罪が贖われなくてはならないという事実を、自分自身がまず目の前で死んでいく動物の姿を通して見なくてはならなかったのです。そのことを知ってこそ、はじめて神にお仕えし、神に用いられるようになるからです。それは確かに、キリスト者が祭司としてのキリスト者として生きる上で、まず知らなくてはならないことなのでしょう。

 そして、祭司は罪を赦された自分自身を献げるのです。それを象徴しているのが焼き尽くす献げ物です。自分が罪深い人間であると知った上で、その自分の身を主におささげするのです。

 続いて、任職の献げ物が献げられます。任職の献げ物とされる雄羊については、その流された血を、祭司になる人の耳たぶと手足の親指に塗ったことが記されています。任職の献げ物においては、このことが特徴的であると言えるでしょう。すべて右側に付けられていますが、聖書では右は権威や活動の象徴です。それはすべて神の権威に服することを示しています。耳たぶに血が塗られるのは、私たちが聞くことにおいて服従することを意味します。右手の親指に血が塗られるのは、祭司の働きが神の権威に服するものとであることを示しています。手を動かすことによって、私たちは働きます。この手は、主が喜ばれることのみに用いるのです。そして、右足の親指に血が塗られるのは、私たちの歩みが聖別されるためです。私たちの足がどこに向かうかということもまた、神に服するものでなくてはならない。耳と手と足、要するに生活のすべてが聖別され、神に服するものとなるということを、この聖別の献げ物は示しているのです。

 そして、30節に示されているように、祭服には聖別の油がそそがれます。さらには祭壇の血が取られ、振りまかれて、祭服には血の染みがつけられます。それは既に述べてきたように罪の赦しと神による聖別によって務めに立っていることが、誰からの目にも明らかになるように、いつでも公にされるようにということです。それはキリスト者であることについても言えるでしょう。罪が赦された者であり、神のものとして生きていること。それが誰の目にも見えるようになっていることは、本当はとても大事なことなのでしょう。

 さて、そのような任職式は7日間続きます。33節以下においては、アロンとその子らに対して、その間、臨在の幕屋の入り口から離れてはならないという指示が出されています。それは何のためか。「死ぬことのないように」と書かれているのです。アロンとその子らは畏れをもって、その指示を聞かなくてはならなかったことでしょう。

 それは自分が何のために召されたかを徹底的に知る七日間に他ならなかったはずです。確かに、自分が資格を獲得したのではないのです。まったく恵みによって選ばれたのです。その務めも自分の内から出たものではなく着せられたものです。しかし、だからこそ畏れをもって応答し、仕えていくことが求められているのです。それこそがキリスト者の本来のあり方なのです。自分が何者であるか。何者とされているのか。私たちもまた、徹底的にそのことを見つめる期間が必要なのではないかと思います。

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