2024年9月18日水曜日

祈祷会用:レビ記 5:1~26

レビ記 5:1-26

 4章では「贖罪の献げ物」を献げる場合の、4つのケースについて書かれていました。まずは「油注がれた祭司」すなわち大祭司が律法を犯した場合。続いて「イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合」。この二つが前半の二つでした。これは民全体に関わる場合です。後半の二つは個人の場合です。まずは共同体の代表者が罪を犯した場合。そして、一般の人が罪を犯した場合です。そして、個人であろうが共同体全体であろうが、重要なのは罪を認識していることでした。罪を認めないまま贖罪の犠牲は献げることはできません。言い換えるならば、この献げ物を献げるということは、自らの罪を公にすることであり、その罪を自らも認識していることを公にすることでもあったのです。

 さて、5章前半はその続きです。ここには、ある意味で実に聖書ならではのことが書かれていると言えます。聖書は人間を本当に良く知っているからです。

 4章で述べられたものに加え、さらにここでは4つのケースについて書かれています。
第一は5章1節です。少々分かりにくいのですが、要するにこういう状況です。誰かが罪を犯しているのを、たまたまあなたはそれを見てしまった。例えば、誰かが盗みを働いているのを見てしまった。当然、そこには被害を受けた人がいるわけです。被害者は被害を受けたことを嘆き、加害者を呪います。それをあなたは聞いています。当然なすべきことは、見たことを証言することです。しかし、何らかの理由で、例えば報復が怖かったりして、証言しなかった。そのような場合です。その時には「罰を負います」と言われています。つまり、それは神によって裁かれるべき罪であるということです。

  第二は5章2節に書かれていることですが、これも若干の説明が必要です。汚れたものに触れてしまった。すると、これは後に11章24節、25節などに出てくるのですが、例えば動物の死骸など触れるなら夕方まで汚れることになります。衣服は水で洗わなくてはなりません。その他にも、汚れを負うケースは様々にあります。ところが、その時に気づかないで、後で気づくこともあるわけです。そのような場合、そのように気づかなかったために規定を破ってしまっていた場合でも、それは罪になります、ということです。

 第三は、人体から生じる汚れの場合です。出血が止まらない病気や漏出などの話です。これも触れたら夕方まで汚れます。衣服などは水洗いしなくてはなりません。いろいろやることがあるのです。しかし、その時には気づかないで、後で気づくということもあるのでしょう。ここに書かれているのは、そのような場合です。

 四つ目は、軽はずみな誓いをした場合です。誓いの言葉はいつも真面目に重く受け止められるわけではありません。本人ももともと実行するつもりはないし、聞いている人々も、簡単に忘れてしまうようなこともあるわけです。そして、実際、誰も覚えていない。しかし、本人がふと「そういえばあんなこと誓ったっけ」と思い起こす。そのような場合です。

 さて、この四つのケースの共通点というのは何でしょうか。それは「知らんぷり」できるということです。見たことを黙っていたって、恐らくはだれも気づかない。「私は見なかったのだ」と自分に言い聞かせることもできます。汚れたものに触れたと気づいたとしても、それを知っているのは恐らくは自分だけなのです。しかも、もう夕方も過ぎてしまい、今さら持ち出すのも面倒です。なかったことにしようと思えばできるのです。他の二つも同じです。軽はずみな誓いをして、自分が守っていないことを知っているのは、恐らく自分だけなのです。だから自分が気にしなければ、どうせだれも覚えてはいないのだから、なかったことにできるのです。

 しかし、「知らんぷり」したとしても、責めを負うという「事実」はあるのだ、とこの規定は言っているのです。責めを負うのだから、赦してもらわなくてはならないのです。つまり人が知っているかどうか、人から咎められるかどうか、ばれる可能性があるかどうか、人がもう忘れているか否か、――そんなことは関係ないのだ、ということなのです。罪は赦してもらわなくてはならないのです。そこで大事なことは罪を罪として認めるということなのです。

 わざわざ3節でも4節でも「知るようになったとき」と書いてあります。知ることができた、つまり罪に気づかせていただいたのですから、それを認めることが大事なのです。贖罪の献げ物を献げるということは、まさに神の御前に罪を認めるということなのです。それがどれほど大事なことかをこの犠牲の規定は示しているのです。

 その後に貧しい人のケースが書かれています。鳩でもいい。鳩に手が届かなかったら小麦粉でもいい。小麦粉10分の一エファは一オメルです。1オメルというのは、実はマナが降ったところに出てきました(出エジプト記16:36)。要するに一日分です。だから本当に貧しくて献げられないならば、一日断食したら献げられる、という話です。

 ある意味では、ここには神が何としてでも赦したいという思いが込められているとも言えます。牛がだめなら鳩でもいい。鳩がだめなら小麦でもいい。とにかく知らんぷりして責めを負ったままでいてほしくない。そのような神の心の現れがここに見えてくるのです。大事なことは、罪を認めることなのです。気づかせていただいたのだから、そのことを神の御前できちんと認めることなのです。

 5章の後半には、短く「賠償の献げ物」について書かれています。簡単に言えば、償い得るものは償いましょうという話です。人間には償い得るものと償い得ないものがある。償い得ないものに関して、それを一生背負って苦しみ続けることは、主が望むところではないのでしょう。しかし、償い得るものもあるのです。それについては償ったらよいし、償うべきなのです。

 まずは主に対する事があります。ここに書かれているのは、主に献げるべき奉納物を過って献げなかった場合です。「主に献げるべき奉納物」と訳されていますが、直訳は「主の聖なるもの」という言葉です。要するに「主のもの」ということです。献げ物というのは、もともと本来「主のもの」なのです。私たちのものを主に差し上げて、主のものにするのではありません。もともと主のものであったものを、主にいわばお返しするのです。私たちの「献金」もそうですが、献げ物とは本来そういうものなのです。

 だから献げるべきものを献げないということは、いわば主のものを自分のものにしてしまっているということになるのです。これについては償いができるわけだから償いましょう、というのがこの賠償の献げ物の規定です。5分の一を加えて献げるのです。

 さらに印象深いのはその次です。禁じられている主の戒めを破った場合です。それはいわば主に損害を与えるということとして書かれているのです。これが聖書の見方です。私たちの罪は、それが何であれ、主に対して損害を与えることなのだということです。

 ところが、私たちの罪についても、知らないでやってしまっていることの方が圧倒的に多いのです。それは律法を意識して生活しているイスラエルの民でも同じことだったのです。知らずに罪を犯している。知らずに主の心を痛め、あるいは主に損害を与えている。それは「知らなかったこと」なんだから仕方ないではないか、とは言えないのです。人間の間だって、知らないで損害を与えたら、「知らなかったこと」だから仕方ない、そんなの知らないよ、とは言えないでしょう。ということで、「それを知らなくても、責めを負い、罰を負う」(17節)と語られているのです。

 その次は、人間に対する事柄なのですが、それは単に人間に対することではなく、そこには「主を欺き」とも書かれています。17節は、ある意味では「知らなかった」律法違犯についてなのですが、21節以下は意図的な欺きの場合です。つまり、意図して行って、着服などがうまくいった場合です。

 友人はまだ気づいていません。しかし、それはばれたら、あるいは裁判で負けたら責めを負うということにはならないのです。ばれなくても、被害者が気づかなくても、責めを負うのだとこの規定は言っているのです。だから返しなさいと主は言われるのです。賠償の意味を込めて、五分の一を加えて返しなさい、と。

 もちろん、他の人に返すから罪が赦されるのではないし、人間の行いが罪の赦しをもたらすのではないのです。赦すのは神なのです。人が「責めを負う」とき、それは単に人からの責めを負っているのではないからです。だから賠償の献げ物を献げるのです。それが赦しは神から来るのであり、それはまた神の恵みなのだという事実を示しているのです。神は赦そうとしておられる。それと同時に、人間と人間の間の関係も真実なものとなることを望んでおられるのです。

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