レビ記10:1‐20
前の章は、アロンが手を上げて民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れ、主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くしたところで終わっていました。主の御前から火が出るということは、本来、恐るべきことであるはずです。それは主の裁きをも意味するからです。しかし、民の反応は次のように書かれていました。「これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した」(9:24)。
主の臨在の火が喜びとなるのは、それが主の裁きではないことを民は既に知らされていたからです。すなわち、そこで行われているのは罪の贖いであることが知らされていたからです。焼き尽くされたのは民ではなく、献げられた犠牲でした。民はそこで、大祭司が存在すること、祭儀が存在することの意味を、改めて思わざるを得なかったに違いありません。天からのものによって、礼拝は成り立つのです。天からの火はまさにそのことを示すものでした。その火を「祭壇から絶やしてはならない」(6:2)と命じられていたのです。礼拝は人間の灯した火からはじまるのではないのです。
しかし、そこで一つの事件が起こります。それが今日お読みしたところに書かれていたことです。話としては9章から続いていますから、アロンによる献げ物の初執行の当日の出来事です。その日、アロンの長男ナダブと次男アビフが「規定に反した炭火」をささげました。すると主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んでしまいました。この直前において、人々の喜びとなった臨在の火が、ここでは一変して裁きの火となったのです。それはなぜであるかを考えねばなりません。
「規定に反した炭火」と訳されている言葉は、直訳すると「異なる火」です。彼らは礼拝において「異なる火」をどこからか持ってきたということです。本来は天から与えられた火が燃やし続けられ、そこから取らなくてはならない火を、彼らは別なところから、人間が点じた火をもってきたということです。
人間から生じたものをもって、自己流に自分のしたいように神に近づくならば、神は御自分が聖なることを示されます。すなわち神が人間とは区別された、本来人間が近づくことのできないまことの神であることを示されるということです。「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ」(3節)とモーセが言っているのはそういうことです。
さらに言うならば、ナダブとアビフは幕屋の垂れ幕の奥にまで近づいたということも考えられます。後に16章において次のように書かれているからです。「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった。主はモーセに言われた。あなたの兄アロンに告げなさい。決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように。わたしは贖いの座の上に、雲のうちに現れるからである」(16:1‐2)。
規定に反する火を持ってきた彼らが、垂れ幕の奥にまで行って、安易に神に近づけると思ったことは考えられます。なぜ安易に近づいたのか。罪の贖いの犠牲がささげられたから、というのは考えられる一つの理由です。罪の赦しが神への畏れを失わせるなら、それは災いをもたらすのです。
あるいは、自分たちは特別であると彼らは考えたのかもしれません。しかし、むしろ神に近づける立場に置かれたからこそ、神を畏れなくてはならなかったのです。これはキリスト者においても同じです。神に近づくことが赦された祭司とされています。しかし、だからこそ私たちはそのことを、畏れをもって受け止めねばならないのです。
「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ」。そうモーセは言いました。それは息子二人を失った直後のアロンに対する言葉としては、無慈悲な言葉に聞こえるかもしれません。しかし、そこで「アロンは黙した」と書かれているのです。この箇所を読んで、モーセの言葉に対しても、神に対しても、「ひどいではないか」と思う人はいるかもしれません。しかし、アロンはわかっていたのです。災いが起こった今は、神に不平を言う時ではない。御前に畏れ、黙するべき時だ、と。
さて、通常ならば死んだ子どもを葬るのは家族がすることです。しかし、モーセはアロンにも残された二人の息子にも、遺体をさわらせませんでした。「モーセはアロンのおじウジエルの子、ミシャエルとエルツァファンを呼び寄せて、『進み出てきて、あなたのいとこたちを聖所から宿営の外に運び出せ』と命じた。彼らは進み出て、モーセの命令に従い、祭服を着たままの二人を宿営の外に運び出した」(4-5節)。
それはなぜでしょうか。遺体に触れたら祭儀的には汚れたことになるからです。祭儀的にけがれたら、祭儀を続行することができなくなるのです。後で見ることになりますが、アロンには、まだやるべきことが残されているのです。それは、献げられたものを「食べること」です。贖罪の犠牲は、血を聖所の中にもっていって場合、すなわち大祭司と民全体の罪のためにささげる贖罪の献げ物の場合はその一部を焼き捨てることになります。しかし、聖所の中にもっていかない場合は聖域で食べることになっているのです。
だから、彼らはナダブとアビフが死んだとしても、祭司の務めはつづけなくてはならないのです。だから祭司は遺体に触れてはならないのです。しかも、ここでモーセはアロンと残された二人の子(祭司)であるエルアザルとイタマルに言うのです。「髪をほどいたり、衣服を裂いたりするな。さもないと、あなたたちまでが死を招き、更に共同体全体に神の怒りが及ぶであろう」(6節)。
つまり通常の葬儀においては行われることを、あなたはしてはならないというのです。あなたは悲しんではならない。むしろ、畏れをもって祭司の務めを継続することこそ、あなたがたのなすべきことである、とモーセは言っているのです。今本当にやらなくてはならないことは、ナダブとアビフの死によって示されたことをしっかりと受け止めることではないか、ということです。それは何か。祭司の務めの重さです。他の者たちは悲しんでよいし、悲しむべきです。しかし、彼らはだめなのです。なぜなら、「あなたたちは主の聖別の油を注がれた身だからである」(7節)と言うのです。
確かに、血縁関係というものは重いものです。祭司は家族が任職されますから、祭司としてのアイデンティティと家族としてのアイデンティティは混同されやすかったかもしれません。しかし、アロンは、それらははっきりと区別されなくてはならないことを知らされたのでした。そして、重んじられるべきであるのは、祭司として任職されたという事実の方なのです。さて、これはキリスト者という祭司として神に近づけられていることのアイデンティティは、私たちにとって、どれほどの重さを持っているのでしょうか。
続いて、主はアロンに仰せになりました。「あなたであれ、あなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲むな。死を招かないためである。これは代々守るべき不変の定めである」(9節)。これは極めて印象的な言葉です。というのも、古代オリエントの周辺世界においても、宗教的な儀式はあり、祭儀を司る者たちはいるわけですが、通常は恍惚状態になって祭儀を行うのです。そのために酒や薬が用いられたのです。しかし、イスラエルの祭司はしらふでいることを求められたのです。
宗教的であるということは恍惚状態や熱狂状態になることではなくて、醒めていることだということです。それはなぜなのか。次のように書かれています。「あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えることである(10-11節)。彼らは区別しなくてはならないのです。すなわち判断しなくてはならないのです。
清いものと汚れたものを区別する、とは神の喜ばれるものと忌み嫌われるものを判断するということです。御心にかなったものと、主は憎まれるものを判断することです。そして、それを教えることが彼らの務めなのです。だから醒めていること、判断できることが重要なのです。もちろん、それはキリスト者という祭司にも求められていることであって、新約聖書においては「身を慎んでいましょう」(1テサロニケ5:6)と勧められているのです。「身を慎む」と訳されているのは「しらふでいる」ことを意味する言葉です。
さて、モーセは9章で献げられたものを「食べること」をアロンと生き残ったエルアザルとイタマルに求めました。食べることもまた主が定めた祭儀の中のことだからです。それゆえに、それが正しく執行されたか否かをモーセは気にしました。しかし、聖域で食べられるべき贖罪の献げ物が食べられないで焼き尽くされてしまっていたのです。
モーセは怒って彼らに言いました。「なぜ贖罪の献げ物を聖域で食べなかったのか。あれは神聖なものであり、共同体の罪を取り除き、主の御前で彼らの罪を贖う儀式を行うためにあなたたちに与えられたものである」(17節)。
先にも言いましたように、贖罪の献げ物には、血を聖所に持って行くものと行かないものがあるのです。そして、血を聖所に持っていかないものは祭司が食べるのです(6:18)。しかし、アロンは言いました。「確かにあの者たちは今日、贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物を主の御前にささげました。しかし、わたしにこのようなことが起きてしまいました。わたしが今日、贖罪の献げ物を食べたとしたら、果たして主に喜ばれたでしょうか」(19節)。
アロンは二人が神に裁かれて死んだことを小さなこととは見ませんでした。これは大祭司の罪でもあり、民全体に及ぶ罪の贖いが必要だと考えたのです。すなわち、献げられた贖罪の献げ物については、これを「大祭司の罪のため、イスラエル共同体全体に及ぶ罪のための贖罪の献げ物」と見なしたのです。もし、そうであるならば食べてはならないのです。目の前で悲しむべきことが起こったのです。しかし、それをアロンは神の前で自分の罪として認めたのでした。そして、エルアザルもイタマルも、また問いただしていたモーセもまた、そのことを理解したのでした。