2024年9月11日水曜日

祈祷会用:レビ記 4:1~34

レビ記 4:1-34

 「主はモーセに仰せになった」(1節)と書かれていました。1章1節に書かれていたのと同じ言葉です。ここから新しい区分に入るということです。レビ記には犠牲の献げ方が単純に羅列されているように見えますが、実はそうではありません。3章までは任意の献げ物の話です。4章からは献げることが義務づけられている献げ物の話に移ります。罪を犯した時に、これを任意で献げるのではありません。献げなくてはならないのです。

 今日お読みした箇所に書かれていたのは、「贖罪の献げ物」です。全焼の献げ物もまた「罪を贖う儀式」(1:4)という意味を持っていました。同じ言葉が、4章でも20節などに出てきます。しかし、「贖罪の献げ物」の場合は、例えば3節に「油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合には、自分の犯した罪のために」とあるように、具体的な罪が念頭に置かれていることがわかります。「人間には罪があるから献げます」というのと「具体的な罪を犯しましたから献げます」というのでは意味合いが違いますでしょう。

 そのように、具体的に禁じられていることを行ってしまった場合、それは任意ではなくて「献げなくてはならない」のです。これはどういうことを意味するかというと、要するに、誰かが「贖罪の献げ物」を献げていたとすると、それを見た人は、「あの人は律法を犯したのだな。それを本人もまた認識しているのだな」と理解することになる、ということです。言い換えるならば、罪を犯したという事実が公になることを意味するのです。

 この章には四つの場合が書かれています。まずは「油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合」です。ここでいう「油注がれた祭司」とは、特に大祭司を指していると考えられます。この大祭司が律法を犯した時、それは公にされることになります。大祭司であっても明らかにされるのです。

続いて「イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合」(13節)について語られています。この二つが前半部分です。これらはどちらも民全体に関わることです。大祭司が罪を犯すと民全体が責めを負う、つまり神から咎められることになるからです。このように民全体の場合は、「若い雄牛」を献げることが定められています。「若い雄牛」というのは最も高価な大きい牛(「パル」と呼ばれます)のことです。そして、もう一つ、聖所の中に血が注がれることが定められています。聖所の垂れ幕の前、祭壇の角、そして入り口の祭壇の基に注がれるのです。そのように徹底的に罪の贖いがなされるのです。

 後半の二つは個人の場合です。その第一は共同体の代表者であり、上に立つ者が罪を犯した場合です。そして、次に書かれているのは「一般のだれか」の話です。この場合は山羊でもよい。罪を贖う儀式にしても、聖所の中にまで血を注ぐことはありません。

 そのように献げ方は異なりますが、個人であろうが共同体全体であろうが、罪を認識していることが重要なのです。罪を認めないまま贖罪の犠牲は献げることができません。そして、先に申しましたように、認識していることを公にすることが求められているのです。具体的に人々の前で告白したか否かは定かではありませんが、とにかく罪を犯したことは明らかになるのです。

 ところで、この犠牲は、新約聖書の記述との関連で大きな意味を持っています。パウロが、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(2コリント5:21)と書いているからです。

 今日の箇所では、「贖罪の献げ物」という訳になっているが、実はこれは「ハッタース」という一語であり、それは「罪」とも訳せるし、同じ言葉が「贖罪の献げ物」をも意味するのです。パウロが言っている「わたしたちのために罪となさいました」というのは、「わたしたちのために贖罪の献げ物となさいました」という意味でもあり、パウロが念頭に置いているのはこの贖罪の献げ物のことであると考えられるのです。

 特に重要なのは前の二つ、民全体のために献げられる贖罪の献げ物です。それがキリストと重なることになるのです。

 ここで注目したいのは、犠牲が2区分に分かれるということです。一方に「血」と「脂肪」があります。こちらが一つの区分で、もう一つは「皮とか肉」など、「体」のその他の部分です。贖罪の犠牲においては、全部が献げ物です。煙にする部分だけではありません。その中で、血と脂肪は煙にします。血は聖所において御前に注がれるのです。これは焼き尽くす献げ物の時と同じように、罪を贖うために流される血です。17章11節に「血はその中の命によって贖いをするのである」と書かれているように、「命」をもって罪は贖われるということを意味しています。

 また「脂肪」つまり最も良い部分は目に見える形で神のものとされます。祭壇で煙にされるのです。それは全焼の犠牲の場合と同じように、神が受け入れてくださることを意味します。贖罪の犠牲は命である血をもって罪を贖うのですが、神が受け入れてくださらなかったら意味がないのです。そこで、この犠牲は確かに神が受け入れてくださる犠牲であることを現しているのは脂肪が焼かれて生じる煙なのです。それは天に昇っていくのです。

 ところが、この犠牲において特徴的なのは、捨てられる部分もまたあるということなのです。わざわざ宿営の外の焼却場に運び出して焼き捨てるべきことが書かれているのです。「清い場所」というのは修辞的な表現で、実際にはゴミ焼き場のことです。そのようなゴミを処理する場所は、宿営には必要なので、必ず設けられます。贖罪の献げ物の一部は、そこで焼き捨てるのです。それはすなわち、ゴミと一緒にされるということです。

 人間が神に献げたものがゴミと一緒に捨てられるのです。神様がそうしろと言われたのです。それは何を意味しますか。人間が神に献げたものの一部は、神に忌み嫌われて、拒否されて捨てられるということです。

 私たちは、どうも人間が神に献げるものは受け入れられるのが当然だと考えているところがあります。私たちが例えば「献金」を献げるときには、それが拒否されるとは思っていないのです。ですから、献げ物が受け入れられなかったカインは激怒したのです。もし皆さんが献げた物を、私が翌日のゴミと一緒に出してしまったら、それは極めて不快なことでしょう。しかし、実際にそういうことが行われていたのです。それが「贖罪の献げ物」の献げ方だったのです。神はどうしてそのように定められたのでしょうか。これは「罪を代わりに負った動物」だからです。先ほども言いましたように、これは「罪」という名前の献げ物なのです。つまりその一部がゴミと一緒に捨てられることは、罪を神がどれほど忌み嫌っておられるかを象徴しているのです。

 具体的な罪を認識して献げるならば、その罪を神が忌み嫌っていることを知る必要があるのです。罪の赦しとは、神が「いいよ、いいよ、わたしは気にしてないよ」と言ってくださるという意味ではないのです。神は罪を徹底的に憎まれるけれど、それでもなお、私たちを赦してくださるということなのです。

 そのように「受容」と「忌棄」が一つになっているのが「贖罪の献げ物」なのです。そして、それこそまさに十字架において起こったことなのです。キリストが私たちの罪のための犠牲となりました。この犠牲が受け入れられなければ、私たちは救われません。そして、あの犠牲は確かに受け入れられたのです。しかし、同時に神は罪を憎んでキリストを棄てられたのです。「なぜわたしをお見捨てになられたのですか」という叫びはまさにそのことを示しているのです。キリストは神殿のあるエルサレムの都の中で十字架にかけられたのではありません。都の外のゴルゴタの丘、死刑場において十字架にかけられたのです。まさにゴミと一緒にされたのです。私たちはそこに私たちの具体的な罪を見なくてはならないのです。

 そして、ここで繰り返されているのは「祭司がこうして罪を贖う儀式を行うと、彼らの罪は赦される」という言葉です。

 「赦される」は受け身で書かれていますが、これは「神が赦してくださる」という意味です。儀式が自動的に赦しをもたらすのではありません。これは神の主体的な行為です。神が赦そうと決められたから赦しがもたらされるのです。神の仕方で、神の意志によって赦しがもたらされるのです。だからそれを神の恵みと呼ぶのです。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。だから、パウロはさらにこう続けるのです。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(2コリント6:1)。


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