2024年10月16日水曜日

祈祷会用:レビ記 9:1~24

レビ記  9:1‐24
 
 9章に入りまして、ここにはアロンが祭司として初めて献げ物をささげた次第が記されています。その初めに、次のように書かれていました。「八日目に、モーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び集め、アロンに言った。無傷の若い雄牛を贖罪の献げ物として、また同じく無傷の雄羊を焼き尽くす献げ物として、主の御前に引いて来なさい。またイスラエルの人々にこう告げなさい。雄山羊を贖罪の献げ物として、無傷で一歳の雄の子牛と小羊を焼き尽くす献げ物として、また雄牛と雄羊を和解の献げ物として主の御前にささげ、更にオリーブ油を混ぜた穀物の献げ物をささげなさい。今日、主はあなたたちに顕現される」。

 主が神の民に顕現されるのです。神が彼らの前で栄光を現されるのです。それは言い換えるならば、彼らは確かに神の前にいるのだということをはっきりと示されるということです。神の御前にあってこそ、礼拝は成り立つのです。そこで、役割を持つのが祭司です。

 罪ある民が、そのまま神の前に立つということは、本来は死を意味するのです。彼らが死なないでなお神の御前に立つことができるのは、一つには神の定めた祭儀があるからです。犠牲の献げ方については、既に述べてきたとおりです。そして、もう一つ重要なのは、祭司という存在なのです。祭司が神と民との間に立ってとりなすのです。そして、この章においては、アロンが初めてその務めを行うことになるのです。

 さて、先週申し上げたとおり、律法によって定められた祭司制度は、いわば予告編であり、本編を指し示すものに過ぎません。本編が到来して、キリストが十字架の上で血を流され、よみがえられてからは、キリストを信じる者すべてが祭司となったのです。その祭司たちは、イエスという大祭司のもとにあり、その大祭司がまず私たちのために執り成してくださっているのです(ヘブライ8:1)。それゆえに、このアロンによる犠牲の初執行もまた、私たちの姿を指し示しているものとして、祭司の務めを任されている私たち自身の働きとして、読む必要があるのです。

 そこで、まず心に留めたいのは冒頭の「八日目に」という言葉です。それはすなわち、その前に七日間があるということです。その七日間については、先週見てきました。任職の儀式の七日間です。そこで重要なのは、「あなたたちは七日にわたる任職の期間が完了するまでは、臨在の幕屋の入り口を離れてはならない」と書かれていることです。そして、こう命じられているのです。「あなたたちは臨在の幕屋の入り口にとどまり、七日の間、昼夜を徹して、主の託せられたことを守り、死ぬことのないようにしなさい」(8:35)。それは徹底的に畏れをもって神の御前に身を置く七日間です。まず、彼らが神の御前に留まらなくてはならないのです。人の前に出る前に、神の御前に居続ける日々が必要なのです。そのことを、彼らは徹底的に知る必要があったのです。

 なぜなら、これから彼らは祭儀の執行にかかわることになるのですが、祭儀において重要なのは人間が人間に関する務めを果たすことではないからなのです。そこで神がなされることがあって、初めて祭儀、すなわち礼拝は成り立つのです。それが先に見たように、「今日、主はあなたたちに顕現される」(4節)と表現されているのです。人は祭儀すなわち礼拝を、実に容易に「人間の業」にしてしまうものです。そこで人間のことしか考えないようになる。祭司たちが過ごしたのは、そうならないための七日間だったのです。アロンが人々の前で祭儀を行ったのはあくまでも「八日目に」なのです。

 ゆえにこれが、「人の業」ではないことが共同体全体にも宣言されることになります。「彼らがモーセに命じられたとおりの献げ物を臨在の幕屋の前に持って来ると、共同体全体は進み出て、主の御前に立った。モーセは言った。これは主があなたたちに命じられたことであり、主の栄光があなたたちに現れるためなのである」(5-6節)。

 そして、モーセはアロンに言います。「祭壇に進み出て、あなたの贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物とをささげて、あなたと民の罪を贖う儀式を行い、また民の献げ物をささげて、彼らの罪を贖う儀式を行いなさい。これは主が命じられたことである」(7節)

 主の命じられたことに従って、アロンはまず、自分のために贖罪の献げ物をささげます。任職の時だけでなく、民のために仕える度に、彼は自分のために贖罪の献げ物をささげることになるのです。

 まずアロンは「自分の贖罪の献げ物」「自分の焼き尽くす献げ物」を屠ります。ちなみに8節の「若い雄牛」は「子牛(エーネル)」という言葉です。これは出エジプト記32章にも用いられていました。民が求め、アロンが作った、あの金の子牛の像について用いられていたのと同じ言葉です。かのエーネルは罪をもたらし、今献げるエーネルは罪を贖います。思い見れば、本来ならばアロンはこの贖罪の犠牲を献げることなく、既に滅ぼされていても不思議ではありません。しかし、アロンは滅ぼされることなく、かつて金の子牛を造ったアロンが、まさに自分の贖罪の献げ物をささげなくてはならないアロンが、今、祭司として立っている姿を聖書は描き出しているのです。

 そして、これは大きくは、レビ記そのものの存在と深く関係しているとも言えます。レビ記がまとめられたのは、捕囚後の時代であると言われます。一度、バビロニアによって神殿が破壊された後、バビロンからの帰還民によって再び神殿が建てられた時代です。

 かつて子牛の像がベテルとダンに置かれていました。分裂後、北王国イスラエルの初代の王ヤロブアムが造って置いたのです。その後の王たちについては、「イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返した」という言葉が繰り返されています。ヤロブアムの罪を離れなかった北王国はやがて滅びます。南ユダは北王国の罪とその滅びを見ていたはずなのに、悔い改めることなく、やがて南王国も滅びます。エルサレムは破壊され、神殿は焼き払われてしまいました。本来ならば、それで神の民の歴史は終わりであったはずでした。

 しかし、やがて神の恵みによって、再び神殿が建て直され、祭儀が行われることになります。レビ記がまとめられたのはその頃です。レビ記をまとめた人たちは、このアロンの祭儀の初執行をどんな思いで書き記したのでしょうか。少なくとも彼らは、祭儀を行えること、礼拝を行うことができることが、ただ神の恵みによることを思わずにはいられなかったに違いありません。

 アロンが「自分の贖罪の献げ物」「自分の焼き尽くす献げ物」を献げた後、さらに命じられたとおり、彼は「民の献げ物」をささげました。血が祭壇に注ぎかけられました。そして、22節において「手を挙げて民を祝福した」と続きます。

 実際には、その後に書かれているように、「彼が贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげ終えて、壇を下りると、モーセとアロンは臨在の幕屋に入った」というのが先です。その後に、「彼らが出て来て民を祝福すると」と続くのです。祝福の前に、彼らが臨在の幕屋に入ったのは、定められていたように罪の贖いの血を振りまき、香を焚く祭壇の四隅の角に塗るためです(4:6、7他)。

 臨在の幕屋に入ることは、神に近づくわけですから、それは本来ならば死を意味します。犠牲が受け入れられなければ、すなわち携えていった罪の贖いの血が受け入れられなければ、彼らは幕屋から再び出てくることはありません。彼らが臨在の幕屋に入り、再び彼らの前に現れたということは、すなわち屠られた犠牲が神に受け入れられたことを意味するのです。そのような彼らが民の前に再び現れて、民を祝福した。それが22節の「アロンは手を上げて民を祝福した」という言葉の意味することなのです。

 その祝福の言葉はここには記されていませんが、主がアロンとその子らに与えられた祝福の言葉は民数記6:24~26に記されています。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
 主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。
 主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。」

 そのような祝福に民があずかることができるのは、民の行いによるのではなく、ただ献げられた贖罪の犠牲が受け入れられたからであり、流された血が受け入れられたからなのです。そして、このこともまた、キリストの出来事を指し示す予型でもあるのです。主は自らを罪の犠牲として捧げられ、三日の後、キリストは復活されました。いわば主は臨在の幕屋が指し示すまことの幕屋から出て来て、その贖罪が完全であることを明らかにされたのです。そして、キリストは弟子たちを祝福して天に昇られたのです。

 このアロンによる犠牲の初執行においては、モーセとアロンが出て来て祝福した後、「主の栄光が民全体に現れた」と書かれています。さて、それはどのような形で現れたのでしょう。次のように書かれています。「そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした」(24節)。それは本来、恐るべき光景であったはずです。主の御前から炎が出ることは、主の裁きをも意味し得るからです。実際10章では同じ火が裁きとして現れたことを見ることになるのです。しかし、印象的なのは、この恐るべき出来事を見た人々の描写です。「これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した」と書かれているのです。

 主の御前から出た火が「喜び」となったのは、最終的にアロンの祝福に至る、祭儀を見てきたからでしょう。すなわち、罪の赦しをもたらす神の恵みによって定められた祭儀が行われてきたのを見ているからです。言い換えるならば、主が命じられた祭儀の意味を悟ったということでしょう。大祭司が存在すること、祭儀が存在することの意味、礼拝が成り立つことの意味を悟ったのです。その時、主の臨在は恐れをもたらすのではなく、大きな喜びをもたらすものとなるのです。しかし、それはまた厳粛なことでもある。もし赦しに基づいた火さえも人間が侮るならば、そこにはもはや赦しは残されていない。それが続く10章で現されることになるのです。

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