レビ記 19:1‐18
前回は16章を読みました。そこには贖罪日(ヨーム・キップール)に関する規定が書かれていました。それに続く17章から26章のまとまりは「神聖法集」と呼ばれます。この部分については19章と25章を取り上げることにします。今日は19章です。
今日は特にその前半部分をお読みしたわけですが、3節以下は二つに区分することができます。まず3節から8節までは、大まかに言いまして、十戒の前半部分に対応しています。申命記の言葉を借りるならば、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉でまとめることができるでしょう。
ここで、興味深いのは、最初に「父と母を敬いなさい」という言葉が置かれていることです。主を愛し、主を畏れる生活が形作られることにおいて、親の存在は極めて大きな意味を持っているということであろうと思います。そして、さらに言いますならば、主を愛して生活するということは、単に心情的なことではなくて、具体的に神を礼拝して生きることを意味するのです。ですから、ここでも礼拝に関することが語られております。「わたしの安息日を守りなさい」、「偶像を仰いではならない」、「和解の献げ物を主にささげるときは、それが受け入れられるようにささげなさい」というようにです。
この「和解の献げ物」については、より多くの言葉が費やされております。これがレビ記の特徴でもあります。既に見てきましたように、レビ記にはまず犠牲の献げ方が延々と述べられています。このような記述が後々にまで伝えられたことには大きな意味があります。このような犠牲の献げ方を書き記し、それを伝えた人々には明確な一つの意識があったことが明らかだからです。それは《犠牲をささげるときは、それが受け入れられるようにささげなくてはならない》という意識です。言い換えるならば、《犠牲にはふさわしい献げ方があるのであり、神を礼拝するには、ふさわしい礼拝の仕方があるのだ》ということです。
神を愛し、神を礼拝しようとするならば、私たちがしたいように礼拝するのではなくて、神の望まれる礼拝をささげることが大事なのです。それは私たちがどのように神を礼拝するかということについて、神は決して無関心ではないからです。レビ記の記述は、そのことをはっきりと示しているのです。
そして、9節から18節は主に十戒の後半部分に対応しています。この部分は、18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉でまとめることができます。ご存じのように、主イエスは先の申命記の言葉とこの言葉をもって律法の全体をまとめられました。
レビ記には先に申しましたように、祭儀の規定が詳細に記されております。しかしもう一方で、ここに見ますように日常生活のあらゆる領域に渡る神の命令が記されているのです。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」(9‐10節)ということまで書かれております。
このように、神はただ礼拝の場にいる私たちの姿にのみ関心を持っておられる御方ではありません。私たちの日々の生活を御覧になっておられるのです。特に、私たちが他者とどのように関わって生きているかということに大きな関心を抱いて御覧になっておられるのです。神にとって重要なのはただ日曜日の私たちの姿ではありません。月曜日から土曜日も同じように重要なのです。
それはある意味で当然のことです。なぜなら、神の求めは、2節に記されているように、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(2節)ということだからです。
「聖なる」という言葉は、本来、神にのみ用いることのできる言葉です。神のみが聖なる御方です。「聖なる」は本来、人間の特質を描写する言葉ではありません。どんなに清く正しい人であっても、そのことによって「聖なる者」になるわけではありません。物や人間が「聖なるもの」となるのは、《聖なる神のものとなることによって》なのです。祭儀のための聖具は、神のために聖別されて、神のものとなって、聖具となります。神のものでなければ、どんなに立派な器であっても、聖具とはなりません。人間も同じです。聖なる神のものとなって「聖なる者」となるのです。
ですから、ここで語られている「あなたたちは聖なる者となりなさい」という言葉は、取りも直さず、「神の民として生きなさい。完全に神のものとして生きなさい」ということに他なりません。そして、神のものとして生きるということは、ただ神を礼拝するということだけでなく、生活のあらゆる領域に関わることなのです。そのことを、レビ記は示しているのです。
そこで私たちは、「あなたたちは聖なる者となりなさい」という言葉の意味をより深く理解するため、さらに幾つかのことを考えたいと思います。
第一に、私たちはこの言葉が神の恵みに基づくことについて考えねばなりません。「あなたたちは聖なる者となりなさい」。この言葉をイスラエルの民がモーセを通して聞いているのはシナイの荒れ野においてです。彼らはエジプトにおいてこれを聞いているわけではありません。神は彼らを奴隷状態から解放し、エジプトから導き出されたのです。エジプトにおける苦役からの解放は人々の願いでありました。神は彼らの叫び声を聞き、御力をもって彼らを救い出されたのです。
しかし、苦しみからの解放は、彼らに備えられている大きな恵みの計画の、いわば出発点に過ぎません。出エジプト記19章を御覧ください。エジプトの国を出て三月目に、主はモーセにこう語られました。「ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」(出19:3‐6)。
神はイスラエルを解放するだけでなく、彼らと契約を結ばれました。神が彼らと結ぼうとしておられた契約は、彼らを神の民とするための契約でありました。この契約によって、彼らは神の宝の民とされたのです。祭司の王国となり聖なる国民とされたのです。確かに神が苦難から解放してくださることは人間にとって喜ばしいことであるかもしれません。しかし、神が人を神の民としてくださること、神が人と共に生きようとしてくださること、そして人に対して大きな目的と計画を持っていてくださることは、もっと喜ばしいことであるに違いありません。そのように、「聖なる者となりなさい」という言葉は、神の側から一方的に示してくださった神の驚くべき恵みに基づく言葉なのです。
第二に、私たちはこの言葉が、神の限りない忍耐と寛容を前提としていることについて考えねばなりません。「聖なる者となりなさい」というこの言葉は、天使たちに語られたのではなく、意のままに動かせる人形に対して語られたのでもなく、現実にこの地上に生きている罪深い人間に対して語られた言葉です。苦難から解放されても、喉元過ぎれば熱さを忘れ、「エジプトのほうが良かった。エジプトに帰ろう」などと言い出す、そのような人間に対して語られた言葉なのです。実際、レビ記に続く民数記においては、神が驚くべき忍耐をもって、まことに罪深い人間の現実に関わり続けられる姿を見ることになるのです。
そして、第三に、「聖なる者となりなさい」というこの言葉には、神の忍耐と寛容だけでなく、目指すところを実現し給う神の熱情が秘められていることを知らねばなりません。私たちはイエス・キリストを通して、そのことを知らされているのです。
神はイスラエルの民とシナイにおいて契約を結ばれました。しかし、イスラエルはその契約を破ったのです。後に預言者エレミヤが語っているとおりです(エレミヤ31:32)。しかし、人間がどんなに不真実であっても、そのことをもって神を挫折させることはできません。神はこの地上に聖なる民を持つことを諦めることはありませんでした。契約の目的そのものを放棄することはありませんでした。神は、古い契約が破られたゆえに、罪の赦しに基づいて「新しい契約を結ぶ」と言われたのです。そのために御自分の御子をさえ地上に送られ、罪の赦しを与えるために十字架にかけられたのです。
この新しい契約のゆえに、私たちもまた神の民としてここに存在しています。この神の驚くべき熱情のゆえに、私たちは聖餐において、あの主イエスの御言葉――「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」――というあの御言葉を聞くことができるのです。私たちが聖餐にあずかることは、そのような新しい契約の杯にあずかることに他なりません。それゆえに、ペトロはかつてイスラエルに対して語られたあの主の言葉を、教会に対して再び語り直しているのです。「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです」(1ペトロ1:14‐16)。
今日は特に「神聖法集」を読む上で大事であると思えることをお伝えしました。一つ一つ命じられていることについては、それぞれお読みください。そこから聞こえてくる神の思いに耳を傾けましょう。ここには、今日の私たちには直接当てはまらないと思えることや無縁に思えることも多く語られているかもしれません。しかし、私たちはそれらの記述を含めたこれらの書の全体から、神の民として生きるとはどういうことであるのか、神のものとして、聖なる者として生きるとはいかなることであるのかを、聞き取っていく必要があるのです。共に神の民としての生活が真に形作られることを祈り求めてまいりましょう。