レビ記 3:1‐17
前回は穀物の献げ物(ミンハー)の話でした。この「穀物の献げ物」が焼き尽くす献げ物の後にわざわざ分け入るように書かれているのには、二つの意味があることを見てきました。一つは「貧しくても献げられる献げ物」という意味でした。もう一つは、「日常を献げる献げ物」という意味でした。
そして、このミンハーの献げ方は、今日の箇所との関連で、大事なことを示していたので少し振り返っておきます。それは「献げたら神のもの」という献げ物の原則です。粉のまま献げる場合でも、調理して献げる場合でもこう言われているのです。「穀物の献げ物の残りはアロンとその子らのものである。これは、燃やして主にささげられたものの一部であるから、神聖なものである」(2:3、10)。
「神聖なもの」というのは、「聖なるもののうちで最も聖なるもの」という意味です。「聖なるもの」とは「神のもの」ということです。全部を煙にするわけではありません。一部は祭司の食べ物となるのです。穀物の献げ物で煙にせずに残った部分は「アロンとその子らのものである」と書かれています。この書き方に注意してください。「穀物の献げ物の残りは」。つまり、残りも「献げ物」の一部なのです。「一部は神に献げないで祭司の食べ物として残しておく」ということではないのです。ミンハーは全部が神聖なものであり、祭司が食べる部分もまた、神のものなのです。
ミンハーだけではありません。後に見ていくように、献げ物は、さまざまな用途に用いられます。今日の「和解の献げ物」では、一部がミンハーと同じように祭司の食べ物になります。さらには、一部を会食のために用いるのです。みんなで食べるのです。しかし、それは人間が食べるために献げないで残しておいたものではないのです。献げて人の手を離れた瞬間に、それは聖なるものなのであって、全部神のものとなるのです。
さて、今日の箇所において「和解の献げ物」と訳されているのは「ゼバハ・シェラーミーム」という二つの単語です。ゼバハとは通常の動物犠牲をあらわす言葉です。そして、シェラーミームという単語は、「シャーローム(平和)」という言葉に由来します。ですから「平和の献げ物(peace-offering)」とも訳されます。
そして、この「和解の献げ物」という献げ方の最大の特徴は、今申し上げたように、献げた人と招待された客が一緒に「食べる」ということなのです。今日読んだところには出てきませんが、後に7章の施行細則の中に出てきます。また、申命記27章7節には「和解の献げ物を屠ってそれにあずかり(つまり「それを食べ」ということ)、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい」という形で出てきます。
ここには牛の場合、羊の場合、山羊の場合が書かれています。内容はほとんど同じです。この献げ物においては、脂肪の部分を煙にします。脂肪の部位が異なるので、それぞれ分けて書かれているわけです。油尾は羊にはあるが山羊にはない、などということがあるからです。
このように焼いて煙にするのは一部部分なのですが、そもそも献げ物というのは全体が献げ物なのです。だから「無傷のものを献げる」というようなことが書かれているのです。もし献げるのが脂肪の部分だけであるならば、極端なことを言えば、傷のある牛であっても脂肪の部分が無傷ならよいことになるのでしょう。しかし、そうではないのです。ミンハーの時のように明確に「しるし」とは書かれていませんが、原則はミンハーと同じなのです。煙にする一部は「しるし」として全体が神のものであることを表現しているのです。
ならば、その「しるし」は最上のものでなくてはなりません。残り物や不要な部分であってはならないのです。だから「脂肪」や「肝臓の尾状葉」や「油尾」なのです。それらは食物としては最上の部位とされていたのです。それを惜しみなく煙にするのです。その最上の部分は人間が食べないで献げるのです。そう考えますと、いわゆる私たちがしばしば「献品」と呼ぶものについても、献身のしるしとしての「献金」にしても、改めて考え直す必要があるかもしれません。
そのように、煙にするのは最上の部分なのですが、残りはどうするのでしょうか。施行細則にあるように、ミンハーと同じように一部は祭司のものとなります。祭司の食物となるのです。7章29節にあるように、胸の肉と脂肪を祭司に引き渡すわけですが、煙にするのは脂肪だけで、胸の肉は祭司のものとなるのです。また、右後ろ足も祭司のものとなります。そこで次のように語られていることは重要です。「なぜなら奉納物の胸の肉と献納物の右後ろ肢は、イスラエルの民がささげる和解の献げ物のうちから、わたしが取り分けて、祭司アロンとその子らに与えたものだからである。これはイスラエルの人々が守るべき不変の定めである」。先にも触れたように、一部を神に献げ、一部を祭司に与えているのではないのです。神のものを《神が》祭司に与えるのです。
しかし、その他の部分が残ります。それは先に触れたように、献げた人と招かれた客が一緒に食べるのです。繰り返しますが、全体が献げ物なのです。みんなで食べる部分は献げないで残しておくのではないのです。ならば、奉納者と客との会食についてはどういうことが言えますか。奉納者が客に肉を振る舞うのではないのです。神のものを《神が》皆に振る舞って下さるのです。すなわち、和解の献げ物の会食は、神御自身が、神の食卓に招いてくださっているという意味になるのです。それゆえに、その会食そのものが大きな意味を持つことになるのです。その意味を表しているのが「和解」あるいは「平和」という言葉なのです。
その会食は、第一に「神との平和」を表現していると言うことができます。
一般的に言って、イスラエルの伝統においては、食事はきわめて重要な人間同士の交わりを意味するものでした。人が人と共に食事をするということは、まさに人と人との間が平和であることを意味したのです。だから当然、絶対に食事を共にしない人たちもいたのです。イエス様の時代に、ファリサイ派の人たちが徴税人や罪人とは絶対に食事を共にしなかったことを思い起こしてください。
そのような食事を「神の食卓においておこなう」のが、和解の献げ物の食事なのです。神が食卓に招いてくださり、神が肉を振る舞ってくださる。ならば、それ自体が神との平和を表現していることになるのです。
ならば、神の食卓に招かれているのはどうしてなのか、どうして神との間が平和なのか、という「理由」が重要になってまいります。そこで5節に「アロンの子らはこれを、祭壇の燃えている薪の上の焼き尽くす献げ物と共に煙にする。これが燃やして主にささげる宥めの香りである」と書かれていることが大きな意味を持ってくるのです。それは「焼き尽くす献げ物と共に」とも訳せるし「焼き尽くす献げ物の上で」とも訳せる言葉です。恐らくは「焼き尽くす献げ物の上で」というのが本来の意味合いであろうと思います。
「焼き尽くす献げ物」とは何であったかを思い起こしてください。それは「罪の贖い」であり「献身のしるし」でありました。その上にあって、和解の献げ物の食事もあるのです。罪の贖いなくして、神との間に平和はないのです。人間は根源的に神に敵対しているからです。「神の顔を避けて」いる存在、それが人間です。その人間が罪の赦しをいただいて、神との和解させていただくことができるとしたら、それは罪の贖いによってなのです。
そのようにして実現する、神と人との和解、そして神と人との平和。それを象徴的に表しているがこの「和解の献げ物」「平和の献げ物」なのです。だからこそ、そこでは「神の食卓に招かれて着く」という象徴的な食事が行われるのです。
このような和解の献げ物の食事を背景として、イエス様は神の憐れみと赦しを、一つのたとえ話において生き生きと描き出してみせてくれました。そのたとえ話とは、有名な「放蕩息子のたとえ」です。父のもとに息子が帰ってきました。そこでは神を象徴的に表している「父親」が、自ら肥えた子牛を屠らせるのです。そして、父が帰ってきた息子のために祝宴を主催し、「食べて祝おう」と言うのです。まさに、レビ記が語っている「和解の献げ物」の会食とは、そのような会食なのです。
そして、そのような神の食卓での会食、神の祝宴に招かれたのなら、招かれたお互いの関係もまた、特別なものとなるのでしょう。今度はそこに、人と人との間に平和(シャーローム)が生み出されることになるのです。その意味において、その会食は第二に、神によって生み出された「人と人との平和」を表現していると言うことができるのです。そして、その平和は、イスラエルの民という共同体形成において、本質的な意味を持つことになるのです。
さて、ここまで「和解の献げ物」について見てきましたが、ここで私たちが行っている「聖餐」を思い起こした人も少なくないでしょう。私たちが聖餐を行うこと、そして、毎週、聖餐卓の周りに集まって礼拝を捧げていること。その意味を考える上で、この「和解の献げ物」の献げ方は、確かに大きな意味を持っていると言えるでしょう。