レビ記 7:1-21
今週も引き続き、各種の献げ物に関する施行細則の部分をお読みします。既に読んできましたそれぞれの献げ物の意味を振り返りながら、この施行細則において強調されている特別なメッセージに耳を傾けたいと思います。
7章に入りますと、まず「賠償の献げ物」に関する細則が記されています。賠償の献げ物については、既に5章14節以下において見てきました。まず簡単に振り返っておきましょう。
人間には償い得るものと償い得ないものがあります。償い得ないものに関して、それを一生背負って苦しみ続けることは、主が望むところではありません。しかし、償い得るものもあるのです。それについては償ったらよいし、償うべきなのです。その償いに伴うのがこの「賠償の献げ物」です。
償いについては二通りあります。まずは主に対する償いです。5章に書かれていたのは、主に献げるべき奉納物を過って献げなかった場合です。その背景には聖書の独特の考え方があります。「主に献げるべき奉納物」と訳されているのは「主の聖なるもの」という言葉です。すなわち「主のもの」ということです。献げものというのは、私たちのものを主に「あげる」のではありません。もともと「主のもの」であるものを主のものとするのです。ですから「主に献げるべき奉納物」を献げないということは、要するに主のものを自分のものにしてしまっているということです。それは償い得ることなので償う。そこで献げるのが「賠償の献げ物」です。
さらに、書かれているのは、禁じられている主の戒めを破った場合です。それはいわば主に損害を与えるということとして書かれているのです。これが聖書の見方です。私たちの罪は、それが何であれ、主に対して損害を与えることなのだということです。ならば、償い得るものは償わなくてはならない。そこで賠償の献げ物を献げます。
その次には人間に対することが書かれているのですが、人間に対して罪を犯した場合も、それは単に人と人との間のことではありません。人が気づかなくても、裁判で有罪にならなくても、それが罪ならば責めを負います。責めは神に対して負うのです。それゆえに、返すべきものは返し、その上で賠償の献げ物を献げるのです。
さて、今日お読みした箇所には、さらに賠償の献げ物を捧げる際の細かい規定が書かれています。大きく分けるならば、「血」と「脂肪」と「肉」について書かれているのです。
賠償の献げ物は、焼き尽くす献げ物を屠る場所で屠ります。すると血が流れます。血は祭壇に注ぎかけます。これは焼き尽くす献げ物の時と同じように、罪を贖うために流される血です。17章11節に「血はその中の命によって贖いをするのである」と書かれているとおりです。血が注がれるということは、命が注がれるということです。命が注がれるとき、もとの犠牲は命が出てしまうわけですから死ぬことになります。それは贖いのための死です。注がれる血は、その死が贖いのための死であることを示しているのです。
そして、その血は祭壇の四つの側面に注がれるのです。それは焼き尽くす献げ物のときと同じです。それは要するに、すべての人から見えるように注がれるということです。それを献げた人だけが見るのではなく、罪が赦されるために命が注がれたことが公に示されるということです。
続いて「脂肪」については「祭司はこれを祭壇で燃やして主にささげ、煙にする」(5節)と書かれています。特に祭司に対する指示としてこう書かれていることには、意味があります。犠牲は6節に書かれているように、祭司の食糧にもなるからです。その犠牲において、脂肪の部分は食物としては最上の部位とされていたのです。それを惜しみなく煙にすることが、特に祭司への指示として書かれているのです。祭司はそれが煙になることを惜しんではならないのです。
後にサムエル記などに見るように、祭司職というものは堕落への誘惑が常に隣り合わせにあります。それは神に関わることを自分の利益のために用いようとしてしまうところから起こります。そのような人間の弱さがあるゆえに、特に祭司の食料となる犠牲については、祭司に対してこのことがはっきりと書かれているのです。
そして、最後の「肉」については、明記されてはいませんが、「祭司の家系につながる男子は皆、これを食べることができる」(6節)に書かれている「これ」とは、「血」や「脂肪」以外の食べられる部分を指していることは明らかです。
この犠牲については1,6節に「神聖なものである」という表現が繰り返されています。これは英語にするならば、"Holy of Holies"という言葉になり、最も聖なるものであり、完全に神のものであることが示されているのです。そう言われているにもかかわらず、もう一方で献げ物については、「祭司のものである」という言葉が繰り返されているのです(7、8、9節)。
神のものが祭司のものとなっている。そこに起こっているのは、一つには6:10に書かれていたことと同じで、神が御自分のものを祭司に取り分けて与えたということです。しかし、献げる側から見るならば、そこにはもう一つの意味があると言えます。そこでは祭司が食べているのですが、彼は神に代わって食べているのです。それは神が償いを受け入れてくださったことを目に見える形で示すデモンストレーションでもあるのです。
続いて、「和解の献げ物」について、かなり詳細な施行細則が書かれています。今日はその前半部分だけをお読みしました。「和解の献げ物」と訳されているのは「ゼバハ・シェラーミーム」という二つの単語です。ゼバハとは通常の動物犠牲をあらわす言葉です。そして、シェラーミームという単語は、「シャーローム(平和)」という言葉に由来します。ですから「平和の献げ物(peace-offering)」とも訳されます。
その「平和」とは神との平和であり、また人との平和でもあります。なので、以前にも話しましたとおり、この献げ物の最大の特徴は、献げた人と招待された客が一緒に「食べる」ということにあります。祭司が受ける分については、胸の肉と右後ろ肢というように明確に定められています。「なぜなら奉納物の胸の肉と献納物の右後ろ肢は、イスラエルの民がささげる和解の献げ物のうちから、わたしが取り分けて、祭司アロンとその子らに与えたものだからである。これはイスラエルの人々が守るべき不変の定めである」(34節)と書かれているとおりです。煙にするのは脂肪の部分ですから、他の部分は残ります。それらを皆で食べるのです。
しかし、残った部分も献げ物の一部ですから、それは本来神のものです。ならば、祭司以外が食べる部分についても、原則は祭司の場合と同じです。神が取り分けて与えてくださったのです。つまり、ここで皆が一緒に食べるとき、それはあたかも神の食卓に招かれているというイメージになるのです。それは神の招きによるのです。食事に招いてくださったことによって表現されているのは神との平和です。そして、当然共に招かれた人と人との間にも平和がもたらされます。それは神によって与えられた平和なのです。
そして、今日の箇所には、「和解の献げ物」を献げる場面は、必ずしも一通りでないことが示されていました。人は「感謝の献げ物」として和解の献げ物をささげることもあるし、あるいは「満願の献げ物」として和解の献げ物をささげることもあるのです。あるいは「随意の献げ物」としてささげることもあります。
感謝の献げ物としてささげる場合と、満願の献げ物としてささげる場合には、例えば翌日も食べることができるか否かに違いがあります。どうして感謝の献げ物の場合は二日目に食べることができないで、満願の献げ物の場合には食べることができるのか。よく分かりません。しかし、大事なことは、感謝の場合にせよ、満願の場合にせよ、神の指示に従って会食が行われたということなのです。つまり、感謝にせよ、満願にせよ、これを自分と神との間のことにしなかったということです。そこで人と喜びを共にするのです。随意の献げ物ですらそうなのです。それを自分と神との間のことにしないのです。
しかし、会食ということが入って来ると、もう一方では単に人と人との間のことになってしまうという危険もあります。「感謝の献げ物」をするのは、何か感謝すべきことが具体的にある場合が多いのでしょう。しかし、その喜ばしいことについて、単にみんなが集まってお祝いするだけのことにしてしまわないためにも、「和解の献げ物」を「感謝の献げ物」としてささげるということが重要なのでしょう。
それは神への献げ物ですから、神の定めに従って食べなくてはならないのです。神が二日目には食べるなと言われるなら、二日目には食べないのです。その他、諸々の規定に従って食べるのです。とかく人が集まって食べる時、そこには実際には人間しか見えないから、ともすると単なる食事になりかねません。この箇所を読みますと、古代の教会において聖餐式がそのようなものとなってしまったことを思い起こします。(1コリント11:17以下)。
人間にはそのような弱さが確かにあります。だからこそ、これを神が招いてくださった食事とわきまえて食べないならば、「自分が属する民から断たれる」とまで書かれているのです。「自分が属する民から断たれる」は必ずしも死刑を意味しないと学者は言います。しかし、神の民から断たれることは、本当は命を絶たれることよりも大きなことではないのではないでしょうか。