レビ記 1:1‐17
今週からレビ記を読み始めます。現在の予定としては、まずはレビ記の前半部分である16章までお読みするつもりです。17章以下に関しては未定です。
「主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった」(1節)。このような言葉からレビ記は始まります。臨在の幕屋とは礼拝の場所です。既に見てきましたように、その詳細な作り方が直前の出エジプト記に記されていました。その幕屋が完成したところで出エジプト記は終わります。レビ記はその続きです。作られた幕屋から主がモーセを呼ばれます。主はモーセを通してイスラエルの民を礼拝へと招かれるのです。そこで主はモーセに犠牲の献げ方についての指示、すなわち、礼拝に関する指示を与えられたのでした。
さて、ここに書かれていることは、おおよそ私たちとは無縁のことのように思われます。私たちは教会に牛を連れてきたりはしません。牛を屠って火にくべたりはしません。しかし、かつて動物が犠牲としてささげられていた時、《ある定まった献げ方》があったということは私たちにとって極めて重要な意味を持っています。《形》というものは《意味》と不可分であるからです。私たちは、その意味を捉えなくてはなりません。
今日の聖書箇所に書かれていますのは、「焼き尽くす献げ物」の献げ方です。レビ記には何種類かの犠牲の献げ方が出ていますが、「焼き尽くす献げ物」は最も一般的な献げ方です。「焼き尽くす献げ物」として献げられる動物が、ここには何種類か出てきます。代表的なのは牛であり、その場合が詳細に記されています。
次に出ているのは、羊または山羊を献げる場合です。多くの所作は牛の場合に準じるので、簡単に書かれています。その次に書かれているのは山鳩または家鳩の場合です。このように何種類かに分かれているのは、値段が違うからです。皆が皆、牛を献げられるわけではありません。牛が無理な人は羊などを献げます。それも無理な人は鳩を献げます。経済的に困難な人の場合がこのように考慮されているのです。このように富める者も貧しい者も同様に礼拝へと招かれているのです。
さて、動物を焼き尽くして献げることの意味するところの一つは4節に明示されております。「手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」(4節)。ここに記されているように、「焼き尽くす献げ物」に「罪を贖う儀式」という意味が伴っていたことを、私たちはまず心に留めたいと思います。
ここに記されているような動物犠牲を伴う儀式そのものは決してイスラエルに特有のものではありません。古今東西、様々な例が見られます。ある民族は、狩りの獲物をささげます。そのようにして、獲物を与えられたことを感謝すると共に、次なる狩猟のための祈願を行います。その他にも、家畜が殖えることを祈願して家畜を犠牲として献げる習慣を持つ民族もあります。同じような意味合いをもって農作物を献げる民族も少なくありません。
イスラエルもまた、家畜の多産や作物の豊作は、神から来るものであり、神の祝福であると理解していました。ですから、そのような祝福を求める祈願はあったに違いありません。しかし、イスラエルの礼拝においては、何よりもまず神の前における《自分の罪》を問題にしたのです。ですから「罪を贖う儀式」があるのです。
これは、言い換えるならば、「罪を赦していただく儀式」です。礼拝における大事な要素は、なによりもまず、罪を赦していただくことだったのです。というのも、そもそも神に赦していただかなければ、礼拝するために神の前に出ることすらできないのが人間だからです。そのような自己理解は、例えば詩編130編などに明瞭に言い表されています。
「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、
主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり、
人はあなたを畏れ敬うのです」(詩編130・3‐4)。
「人の罪を贖う儀式」としての犠牲奉献は、人間の根本的な必要が何であるかを、私たちに教えているとも言えるでしょう。私たちは多くのものを必要としています。そして、必要が満たされなくて困窮することがしばしばあります。そのことのゆえに苦悩し、あるいは自分は不幸であると考えます。それは経済的な悩みかもしれませんし、病気のゆえの悩みであるかもしれません。
しかし、人間にとって本当に不幸なことは、必要が満たされずに欠乏していることではなく、人間が罪深いことなのだと聖書は教えているのです。ならば、本当に必要なことは、神によって様々な必要を満たしていただくという以前に、何よりもまず、罪を赦していただくことなのです。それゆえに、富んでいる者も、貧しい者も、それぞれの仕方において罪の贖いの儀式にあずかったのです。富んでいても、貧しくても、罪の赦しを必要としているからです。罪深いままで、神に赦していただかないままで生きているということ、そして罪人のまま死んでいくということは、本当に不幸なことだからです。
そして、神がイスラエルに命じられたこの「罪を贖う儀式」は、人間が自分の罪というものを軽いこととして考えないためにも、重要な意味を持っていたのです。実際に、自分自身が犠牲の奉納者として牛を献げている場面を想像してみてください。あなたは手塩にかけて育ててきた牛を連れてきます。あなたはその手を牛の頭の上に置きます。それはあなたと牛が一つになることのしるしです。
牛はこうして罪深いあなたの代わりになります。あなたの罪を代わりに背負ってくれます。そして、あなた自身の手で牛の喉を切り裂きます。大量の血が流れ、牛は悲鳴を上げながら、苦しみながら死んでいきます。牛はあなたが赦されるために目の前で死んでいきます。そこに見ているのは、あなた自身の罪に対する裁きです。本当はあなたが罪を裁かれ、苦しんで死んでいかなくてはならないはずでした。しかし、あなたは赦されました。牛の命とひきかえに。
私たちがイエス・キリストの十字架について考える時、その背景に、イスラエルの人たちが続けてきたこのような礼拝があることを忘れてはなりません。私たちはいつの間にか十字架を単なるシンボルのように考えてしまいがちです。しかし、それはもともと死刑の道具なのです。その上にキリストが磔になっている姿は、牛が血を流して死んでいくのよりも、もっと凄惨なむごたらしいものであったに違いありません。
その御苦しみの中に見るのは、私たちの罪とその罪に対する神の裁きに他ならないのです。パウロはあの旧約における「罪を贖う儀式」を背景として、キリストの十字架について次のように語っています。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(ローマ3:25)。私たちの礼拝もまた、神の御子の犠牲による罪の贖いによって成り立っていることを、私たちはまず心に留めねばなりません。
さて、「焼き尽くす献げ物」について考えます時に、私たちはさらに、殺された牛が解体されて、完全に燃やし尽くされることに注目したいと思います。「焼き尽くす献げ物」は、原語では「オーラー」と言います。これは、「昇る(アーラー)」という言葉に由来します。犠牲は燃やし尽くされて、全て神のもとに昇ってしまうのです。これは完全に神に献げ尽くされて人の手元には何も残らないことを意味します。
この牛は手を置いた牛です。手を置くことは、この牛と一つになることだと申しました。その牛を完全に神に献げ尽くすことは、礼拝者が自分自身を完全に神に献げ尽くすことをも象徴的に表しています。つまり、この犠牲は、罪を贖う犠牲であると同時に、礼拝者にとって《神に完全に献げられた自分自身》でもあるのです。
「献身する」ということと、いわゆる「献身的である」ということは異なります。神に身を献げるということは、この身が関わる生活のあらゆる領域を神の支配のもとに置き、神のものとして生きることに他なりません。神の求めておられるのは、最終的には次の言葉によって表現されるのです。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(19:2)。
それはレビ記全体の内容そのものが雄弁に物語っています。そこでは礼拝のささげ方だけでなく、生活の仕方に至るまで様々なことが語られております。他の人々にどう関わって生きているかということは、神と無関係ではないのです。
しかし、神に献げられた者として生きること、その意味において「聖なる者となる」ことは、決して容易でないことも、私たちは良く知っています。生活の中に、神のものとなっていない部分、神の御心に適わない部分、神に逆らっている部分が立ち現れてくるのです。神に献げられた者として生きようとする時にこそ、そこにおいて私たちの罪もまた明らかになってくるのです。
そのように、私たちが献身ということを本気で考え始めますなら、それはまた神による罪の赦しの恵みなしにはあり得ないという事実と向き合うことになります。だからこそ、献身を表す「焼き尽くす献げ物」は、同時に罪の贖いの犠牲でもある必要があるのです。私たちを受け入れてくださる神の憐れみなくして、私たちの献身はあり得ないからです。
ローマの信徒への手紙12章1節には次のように書かれています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。ここで自分を神に献げよと勧められています。しかし、それは「神の憐れみによって」勧められているのです。
私たちが神のものとして生きるための基礎、それは週ごとの礼拝によって繰り返し与えられる神の赦しの恵みです。そして、私たちはその神の憐れみに基づいて、私たち自身をお献げし、私たちの生活のすべてが神への献げ物となることを求めつつ、再びこの世へと出て行くのです。