2025年6月22日 主日礼拝説教
聖書:使徒言行録 17:22-27
知られざる神に
今日の第二朗読は、アテネにおいて語られたパウロの説教でした。それはアレオパゴスにおいて語られたものです。「アレオパゴス」とはアテネにある一つの丘の名前です。しかし、この場合は、そこにあった評議所、すなわちアテネ最古の裁判と会議の場所を指しています。パウロはそのような場所に連れて行かれることとなりました。その経緯を簡単にお話ししますと、こういうことです。
当初、パウロはアテネでの宣教は予定していませんでした。パウロがアテネに滞在したのは、後から来るシラスとテモテと落ち合うためでした。しかし、二人を待っている間に、パウロはその町の至るところに偶像があるのを目にします。その夥しい数は、当時、人の数よりも神々の数の方が多いとさえ言われたほどでした。パウロはそれを見て心を動かされます。彼はアテネにおいてイエスとその復活とを宣べ伝え始めました。安息日にはユダヤ人の会堂において人々と論じ、他の日には広場で居合わせた人々と論じ合うこととなりました。
パウロと討論をしていたエピクロス派やストア派の哲学者たちの中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣 伝をする者らしい」と言う者もいた、と書かれています。「おしゃべり」と訳されているのは極めて侮蔑的な言葉です。そのような人々が、パウロをアレオパゴスに連れて行ったわけです。
その際に、彼らはこう言いました。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(19‐20節)。丁寧な言葉に訳されていますが、状況的に考えて、純粋に興味関心から話を聞こうというのでないことは明らかです。パウロは好意的に迎えられたわけではありません。恐らくパウロは尋問されるためにアレオパゴスに連れて行かれたのです。新しい宗教や哲学が入ってくるのを監督するのは、アレオパゴスの議員の権限であり責任でもあったからです。
そのようなアレオパゴスの真ん中に立つこととなったパウロは口を開き語り出しました。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(22‐23節)。
先にも触れましたように、アテネの町には夥しい数の偶像がありました。それは一面において、アテネの人たちの信心深さを表していると言えるでしょう。彼らは極めて宗教的な人々でした。パウロはそのことに敬意を払いつつ語り始めます。しかし、すぐに問題の核心に迫ることになります。「知られざる神に」と刻まれている祭壇を見たことに触れ、彼らの信心深さの中に存在する問題を取り上げることになるのです。
そもそも、なぜ「知られざる神に」と刻まれているような奇妙な祭壇が存在するのでしょう。どうして、そのような祭壇が存在し得るのか。人々にとって、そこで拝まれているのが誰であるかは、さして重要なことではないからです。礼拝において祈っている相手がだれであるかは、大して重要なことではないからです。
「知られざる神に」という祭壇が造られた背景には、一説によれば紀元前六世紀に流行した疫病があるとも言われます。確かにそれは考えられることです。人間が神々を祭るとき、当然のことながら、そこには神々にして欲しいことがあるわけです。免れさせて欲しい災いがある。また、その一方において、叶えて欲しい願望がある。そういうものでしょう。そこにあるのは願望と恐れです。
人間の願望が多岐にわたるなら、その願望を満たしてくれる神々の数も増えていきます。一つの災いが起こった。その災いが二度と起こらないように神を祀るとするならば、災いの数だけ神々の数も増えていくことになります。そうなりますと、場合によっては、どの神に願って良いか分からないということも起こってまいります。ならばとりあえず「知られざる神に」と刻んで祭壇を造ったらよいということにもなります。
そのように、欲求の満たしと災いの回避が目的であるならば、それを実現してくれるのが誰であってもよいのです。「知られざる神」でもよいのです。人間の信心深さは、必ずしも神を知ることへの願いと結びついているわけではありません。それが偶像礼拝というものです。
しかし、それは偶像礼拝の話であるから私たちには無関係だと言えるでしょうか。キリスト教会は偶像礼拝はしていません。神々を拝んでいるわけではありません。唯一の神を礼拝していますと私たちは言います。しかし、そのような私たちもまた、願っていることが叶うか、災いを免れることができるかにしか関心が向いていないとしたらどうでしょう。神を知ることにではなく、教会生活によって「何を得られるか」ということにしか関心が向いていなかったとしたらどうでしょう。
実際、キリスト者がいつの間にか「知られざる神に」という祭壇に向かって礼拝していることはあり得ることだと思います。キリスト者となって既に長い年月を経ているにもかかわらず、神様がどのような御方であるのか、キリストがどのような御方であるのか、聖書はいったいどのように伝えているのかを知らない。神様がどのような御方であるかには関心がないし、実際知ろうともしていない。そのように、「知られざる神に」ということで良しとしているということは、今日の教会においても起こり得ることだと思います。
わたしはお知らせしましょう
だからこそ、私たちもまた、ここでパウロが言っていることに耳を傾けなくてはならないのです。パウロはそこでこう言っているのです。「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(23節)。
「お知らせしましょう」。パウロはそう言いました。それはアテネの人たちにとっては余計なお世話であったかもしれません。欲求の満たしと災いの回避については「知られざる神」で事足りているわけですから。「何を得られるか」ということについては、夥しい数の神々でもう十分なのですから。しかし、それでもなおパウロは「お知らせしましょう」と言うのです。ある意味では、そのために危険な宣教旅行を続けてきたとも言えます。命をかけて「お知らせしましょう」を続けてきたのです。
それはなぜなのか。神が望んでおられるからです。「知られること」を神が望んでおられるからです。神は知られることを望んで、独り子さえもこの世界に送られる神であるからです。そのようなことをすれば罪ある人間によって十字架にかけられてしまうことも承知の上で、あえて自らを啓示するために御子を遣わされた神だからです。パウロはそのことを知るゆえに宣教旅行を続けてきたのです。
ですからここでも「お知らせしましょう」とパウロは言って、こう続けるのです。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」(24‐25節)。
先に触れましたように、パウロについては「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言われていたのです。そのような人たちが、パウロをアレオパゴスに立たせたのです。同じようにこの国においても、かつて宣教師たちは言われたのでしょう。「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と。
しかし、そうではないのです。この国の神も外国の神もないのです。神は世界とその中の万物とを造られた神だからです。神は天地の主なのです。だからユダヤ人である彼がアテネのギリシア人にまで、このことを語るのです。命と息と、その他すべてのものを与えられていることについては、ユダヤ人もギリシア人もないからです。
さらにパウロは続けます。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」(26節)。命を吹き入れられた多くの民族は、同じ神によって導かれ、定められた季節と定められた居住地の中に生かされているのです。神はすべての民族にかかわって治めていてくださる。それは何のためなのか。パウロは言います。「人に神を求めさせるためだ」と。「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」(27節)。そのようにパウロは語るのです。
そのように神は知られることを望んでおられる神なのです。見いだされることを望んでおられる神なのです。人間が知らなくても、求めていなくても、神は命と息と、その他すべてのものを与えてくださっているのでしょう。私たちが生きていられるのは、すべて神から与えられるものによってなのです。
なので、私たち人間は「いただくものさえいただければ、それで十分だ」と言うかもしれません。「知られざる神」でも良いのです、と。しかし、神にとっては良くないのです。それはなぜでしょうか。神は私たちを愛しておられるからです。だから、神は神の持っている何かではなく、神御自身を与えようとしておられるのです。
「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」。――私たちの目の前に十字架がかかげられているように、その神は、キリストにおいてご自身を現してくださった御方です。さて、その御前において、私たちは何を求めているのでしょう。あるいは、ここに集まることができない主日に、それぞれの場において私たちは何を求めているのでしょう。
私たちには、それぞれ様々な願いがあり、求めがあることでしょう。しかし、神がまず与えようとしているのは神様御自身なのです。私たちが神を知るようになることであり、神との交わりに生きることなのです。私たちの様々な求めを横に置いて、まず神様御自身を求めましょう。神御自身を知ることを求めましょう。そのような信仰生活を求めましょう。神は与えてくださいます。それは神様の求めていることでもあるからです。