2026年6月14日 主日礼拝説教
聖書:使徒言行録16:16‐24
獄中における賛美
本日は第2朗読で使徒言行録の16章をお読みしました。聖書箇所をどうぞお開きください。使徒言行録16章16節からお読みいたしました。
ここに書かれているのは、パウロの第2回目の伝道旅行の途中の話です。フィリピに立ち寄った時の出来事です。数日滞在することになったそのフィリピにおいて、パウロはユダヤ人たちが祈りのために集まっているその場所に向かいました。その途中、占いの霊に取り憑かれている女奴隷に出会います。その女奴隷は占いをすることによって、主人たちに利益をもたらしていた人でした。
その占い師が、パウロとシラスが祈りの場所に行く途中、後ろについてきて、「この人たちはいと高き神の僕で、皆さんに救いの道を述べ伝えているのです」と叫び始めたのです。そのようなことが幾日も繰り返されることとなりました。
彼女の言っていることは、言葉としては間違っていません。まさにその通りです。しかし、占いの霊がしていることは明らかに宣教の妨げになりました。たまりかねたパウロは、その女を支配している霊に命じました。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、占いの霊が彼女から出て行きました。
しかし、事はそれで終わりませんでした。占いの霊が出て行った以上、占いはできません。そのため、この主人たちの商売は成り立たなくなりました。金儲けの道が断たれてしまったのです。主人たちは腹を立て、パウロとシラスを捕らえて広場に引き立てていきました。そして高官に引き渡して彼らを訴えたのです。
これは当事者同士の利害関係の問題ですから、通常であれば訴えに従って正規の取り調べが始まるはずでした。ところが、ここで異常なことが起こります。「群衆も一緒になって二人を責め立てた」(22節)と書かれているのです。しかもこれがかなりの大騒ぎとなりました。そのために高官たちは群衆を満足させて鎮めるため、二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じたのです。パウロとシラスはさんざん鞭で打たれた挙句、牢に投げ込まれたのでした。
法治国家においてあるまじきこの異常事態は、なぜ起こったのでしょうか。彼らがイエス・キリストを信じていたからでしょうか。イエス・キリストを述べ伝えたからでしょうか。いいえ、そうではありません。人々にとって、このパウロとシラスがイエス・キリストを信じているかどうかは、どうでもよいことでした。それは訴えた人々の言葉から分かります。彼らは言いました。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町を混乱させております。」つまりパウロとシラスは、キリスト者であるゆえに迫害されたのではなく、ユダヤ人であるゆえにひどい目に遭ったのです。
このことについては、フィリピという町の特殊事情を考慮に入れる必要があります。フィリピは12節にありますように、ローマの植民都市でした。そこではラテン語が語られ、ローマの法のもとに治められ、使用される貨幣にもラテン語が刻まれている、さながら小さなローマともいうべき町でした。そこに住む有力な人々はみな退役軍人などのローマ市民権を持つ入植者でした。そのローマ人たちにとって、ユダヤ人は言ってみれば被占領民族の一つに過ぎません。しかも彼らの目から見て、ユダヤ人というのは頑なに自分たちの習慣に固執して、決してローマ帝国に同化しようとしない、極めて特殊な人々として映っていたのです。
ローマ人たちの中に少なからず反ユダヤ的な感情があったことは、21節からも分かります。「ローマ帝国の市民である私たちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」そのような事情のもとでこの事件は起きたのです。
自分よりも力の強い者によって不利益が生じた場合、人はそのことをある程度我慢するものです。この女奴隷の主人たちが、例えばローマ皇帝の勅令によって不利益を被ったのであれば、それほどの騒ぎにはならなかったでしょう。しかし人は、自分が軽んじていたり見下している者によって不利益を被った時には、それを我慢することができません。だからこのような騒ぎになったのです。
彼らにとって我慢ならなかったのは、よりによってユダヤ人が占いの商売を邪魔し、損害を与えたということでした。こういう差別感情というのは、決して好ましいものではありませんが、周知のように一旦火がつくと炎上するものです。これは今日のネット社会においても、しばしば目にする現象です。直接損害を受けたのではない群衆までがパウロとシラスを責め立てました。その差別意識は公職にある高官においても同様でした。彼らは取り調べもせずに鞭打たせたのです。
繰り返しておく必要がありますが、これはパウロたちが命をかけて取り組んでいた福音宣教に対する迫害ではありません。キリスト教信仰に対する迫害でもないのです。差別によるリンチであり、投獄であったのです。
人は、自分が命がけで取り組んでいる事業に伴う困難や苦難であれば、ある程度耐えることができるものです。場合によっては、それは喜びにさえなります。理想的な社会を実現するために、あるいは革命を起こすために、自らの血を流し、拷問を耐え忍んだ人々は歴史上に数多く存在します。高い理想があるならば、その実現のために苦難を耐え忍ぶことは、人に誇りと喜びさえ与えるものです。
その一方で、実に耐えがたいのは、価値あることとは結びつかない苦しみです。不当な、理不尽な仕打ちによってもたらされた苦難です。しかし、私たちが経験する苦悩の圧倒的大部分は、そのような意味や価値とは直接結びつかないものではないでしょうか。なぜ自分がこのような思いをしなければならないのか、どうしてこんなことになるのかと思わざるを得ないような苦しみの方が、私たちの経験の中ではるかに多いのではないでしょうか。
この章のパウロとシラスもまた、彼らからすれば全く意味のない、価値とは結びつかない苦しみの中に置かれていたのです。
今日の朗読箇所はここまでですが、この先を少し読み進めてまいりましょう。25節に「真夜中ごろ」と書かれています。彼らは真夜中になっても、まだ起きているのです。おそらく痛くて眠れなかったに違いありません。また彼らがはめられていた「木の足かせ」というのは、足を開かせたまま座らせて固定するものでした。横になることもできません。どう考えても苦しくて眠れるはずがないのです。そのような眠れない夜――理不尽な、不当な仕打ちによってもたらされた眠れない夜を、彼らは経験していたのでした。
しかし、そこで最も印象的なのは、そのような苦しみを負った彼らが、獄中において賛美して祈っていたという姿です。
この姿を見る限り、パウロとシラスにとって、自分が受けている苦しみに意味があるかどうかは、おそらく大事なことではなかったのでしょう。苦しみの意味は神様が考えてくださればそれでよかったのです。彼らにとってはもっと大事なことがありました。それは、牢獄の外にある時と同じように、牢獄の中においても彼らが神と共にあるということです。彼らが神の御前にあるということです。そして、それはまた大きな恵みでもあります。神の御前にある愛されている子どもたちとして、神様を礼拝することができ、祈ることができる。四方を壁に囲まれていても、愛する主に近づくことができるという事実こそ、彼らにとって最も大きなことだったのです。彼らは賛美し、祈っていました。
救われるためには
物語はさらに続きます。その夜突然大地震が起こりました。見張っていた看守にとって、それは卒倒するような出来事でした。事実、卒倒したのでしょう。そして目を覚ました看守が目にしたのは、地震によって開いてしまった牢の扉でした。囚人たちが逃げてしまった――彼はとっさにそう思いました。囚人が逃げるということは、自分の命をもって償わなければならないことでした。この看守にとって最大の危機でした。
しかし、彼が自害しようとしていた時に、闇の中から大声で叫ぶ声を聞いたのです。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」パウロの声でした。
注目すべきは、この看守が「ああよかった」と言ったとは書かれていないことです。ほっとして喜んだとも書かれていません。彼は震え上がったのです。震えながらひれ伏して、こう尋ねました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」(30節)
パウロとシラスが獄中で賛美して祈っていた時、看守の目にはそれが不思議に映ったことでしょう。あるいは心のどこかに惹かれるものを感じていたかもしれません。しかし、いずれにしてもそれは所詮他人事でした。自分とは関係のないことだったのです。
しかしこの一連の出来事の中で、自分自身が危機的状況に置かれ、大きな苦しみの中に置かれた時、パウロたちが祈っていた姿、賛美していた姿は、もはや自分とは無関係ではなくなっていました。彼は、パウロたちが賛美していた神、生ける真の神の前に自分がいるということに気づいたのです。神を意識せざるを得なくなったのです。
それまでは、他の人が信じている神に過ぎませんでした。しかし人が真に生ける神を意識せざるを得なくなった時、もう一つ意識せざるを得なくなることがあります。それは、その神の前に自分はどう生きてきたか、ということです。自分自身の様々な罪と穢れです。神様が本当においでになるならば、神様はすべてをご存知です。この私はその神に受け入れられるのか、それとも罪人として滅びるのか。この私は赦されるのか、それとも赦されないのか、救われるのか、救われないのか。それが決定的に重要な問いとなります。だからこの看守は、神を意識した時に震え上がったのです。そしてこう問いました。「救われるにはどうすべきでしょうか。」
「何を行うべきでしょうか」と彼は尋ねました。しかし、パウロはこの問いに直接答えませんでした。なぜなら、救いは何らかの行いと引き換えに得られるものではないからです。大事なことは「何を行うか」ではなく「誰を信じるか」なのです。罪人を救うために世に来られた救い主を信じることです。パウロは答えました。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。」(31節)
パウロとシラスは看守とその家族に主の言葉を語りました。彼らは主を信じて洗礼を受けました。そして34節に「神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ」と書かれています。
彼らはこの後どうなったのでしょうか。私たちには知る由もありません。ただ想像できることはあります。この看守がパウロとシラスを助け、キリストを信じる者となり、クリスチャンとしてフィリピで生きていくことになったとすれば、おそらく困難なことが待ち受けていたに違いありません。苦難や迫害を経験することになったかもしれません。
しかし彼らの生活の中に苦難があるかないか、その苦難に意味があるかどうかは、彼らにとって決定的に重要なこととはならなかったでしょう。なぜなら、彼らは神を信じる者となったことを喜んだのであって、苦難がなくなったことを喜んだのではないからです。そのような彼らにとって大事なことは、パウロとシラスにとってそうであったように、この看守と家族もまた、神の御前にあるということ、神に赦され受け入れられた者として神の御前にあるということであったのでしょう。どのような状況に置かれても、人は神を賛美し、神に祈りながら生きていくことができる。そのことを、彼らもまた身をもって知っていったに違いありません。