2021年8月1日日曜日

「神が与えてくださる慰めと平和」

使徒言行録 9:26-31

何のためにエルサレムに
 今日の第2朗読は、「サウロはエルサレムに着き」という言葉から始まっていました。この直前にはサウロが命からがらダマスコを脱出した様子が描かれています。ユダヤ人たちがサウロを殺そうと陰謀を巡らしていたからです。彼らは昼も夜も町の門で見張っていました。町の外に出たところを襲撃するつもりだったのでしょう。そのたくらみを知ったサウロは夜の間に城壁づたいにつり降ろしてもらい、まさに九死に一生を得てダマスコから脱出したのです。そのサウロが向かったのはエルサレムでした。「サウロはエルサレムに着き」とはそういうことです。

 ある意味では不可思議な行動です。エルサレムは、サウロの命を狙ったユダヤ人たちのいわば本拠地です。そこに帰るならば、さらに大きな危険に身をさらすことになるでしょう。サウロはエルサレムにおいて迫害を受けていたキリスト者たちの姿を決して忘れることはなかったはずです。殊に自分の目の前で石に打たれて血みどろになって死んでいったステファノの姿は生涯脳裏に焼き付いて離れなかったに違いない。そして、エルサレムに帰れば、サウロ自身が彼らと同じ立場に置かれることになるのです。もし身の安全を確保するためのダマスコ脱出であったなら、エルサレム行きという選択肢は本来あり得ません。むしろ少しでも安全を確保できる、故郷のタルソスに向かうべきだったと言うことができます。

 いったいなぜ、サウロは危険を承知の上で、エルサレムへと向かったのでしょうか。一つの大きな目的は、イエスがキリストであることを、同胞であるユダヤ人たちに宣べ伝えることにありました。実際、今日の箇所でもユダヤ人に宣教するサウロの姿が描かれていました。ダマスコにおいては、イエスのことを宣べ伝えたゆえに、ユダヤ人たちから憎まれて命まで狙われることになりました。しかし、憎まれること自体は伝道をやめる理由にはならなかったのです。彼はエルサレムにおいて憎まれようが、たとえ命が危険にさらされようが、エルサレムにいる同胞にイエス・キリストを宣べ伝えたかったのです。

弟子の仲間に加わるため
 それは確かにサウロがエルサレムに戻った大きな目的だったと言えます。しかし、今日の聖書箇所はもう一つの目的に私たちの目を向けさせます。こう書かれているのです。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」(26節)。なぜまっすぐにタルソスに逃れなかったのか。なぜエルサレムなのか。そこには彼がどうしても会わなくてはならない人々がいたからです。それはかつてサウロ自身が迫害したエルサレムのキリスト者たちです。彼らとどうしても会わなくてはならない。迫害者サウロとしてではなく、キリスト者として、彼らと会わなくてはなりません。そして、「弟子の仲間に加わること」――それこそがサウロにとって大きな目的だったのです。

 そのことを考える時、彼がエルサレムに戻ってきたことは改めて驚くべきことだと言わざるを得ません。ダマスコでは、かの地のキリスト者との関係はおおむね良好でした。少し前の19節を見る限り、彼は回心後、ダマスコの弟子たちに、すぐに受け入れられたようです。しかし、ダマスコとエルサレムでは状況が違います。ダマスコの教会はサウロによって荒らされた経験はないのです。ダマスコに到着する前にサウロが回心しましたから。

 しかし、エルサレムのキリスト者たちは違います。サウロがどれほど酷いことをしたかを身近に見てきたし、実際に被害を被ってきたのです。サウロ自身、後にこう言っています。「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」(使徒22:4)。エルサレムに残った信徒の多くは、そのような迫害を耐え忍んで留まった人たちなのでしょう。その中には、自分の家族を投獄された人がいるかも知れません。サウロが都を数年離れていたとしても、彼の暴力的な行為の記憶は決して薄れることはなかったでしょう。

 サウロがエルサレムに向かうということは、そのような人々に再会することを意味したのです。そこでどんなに謝罪したとしても、あるいは自分自身の回心について語ったとしても、容易に受け入れてもらえるとは到底思えなかったに違いありません。実際、彼は信じてもらえなかったのです。受け入れられなかったのです。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」。そんなことは始めから分かっていたのです。分かっていながら彼はエルサレムに来たのです。暖かく迎えられると思って来たのではないのです。そこに自分の居場所があると思って来たのでもないのです。それでもなお「弟子の仲間に加わろうとした」。それはなぜか。それがキリストの御心であると信じていたからです。それがキリストに従うことだったからです。

 それはサウロの回心の物語を思い起こせば分かります。サウロの回心の物語は使徒言行録に三回でてきます。一回はこの9章に、あとの二回はサウロ自身が物語っています。その描写は細かい点において違っています。しかし、一言一句違うことなく伝えられている言葉があるのです。サウロが聞いたキリストの言葉です。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(9:4,22:7,26:14)。この言葉をサウロは生涯忘れることはできなかったに違いありません。それは自分が迫害してきたキリスト者が、教会が、いったい何であるかを明らかに示している言葉でした。キリストは「なぜ、わたしを迫害するのか」と言われたのです。キリストは教会を御自分と同一視しておられた。キリスト者を痛めつけることはキリストを痛めつけることに他ならなかったのです。教会とキリストとはそのように分かちがたく一つに結ばれていることを彼は知ったのです。

 ならばサウロがキリストを信じるということは、彼もまたその中に身を置くことに他ならないのです。キリストを信じるということは、自分もまた教会と一つになり、キリストと一つになって生きていくことを意味するのです。だから彼はエルサレムへと向かったのです。「弟子の仲間に加わろうとした」のです。キリストに従い、キリストを証しする共同体を一緒に形作っていくために、さらには彼らと苦しみをも共にするために、サウロは「弟子の仲間に加わろうとした」のです。それがキリストを信じるということだからです。

神の備えてくださる慰めがそこに
 そして、弟子の仲間に加わろうとして、案の定、不信と拒絶に遭ったサウロに、そこで何が起こったかを聖書は次のように伝えているのです。「しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した」(27節)。

 サウロがキリストに従って向かったエルサレムには、既に出会うべき人が備えられていたのでした。バルナバと呼ばれるその人の名前の意味は「慰めの子」です。仲間が恐れと敵意の目で見ていた時に、どこまでも自分を信じて行動してくれた人、バルナバ。サウロにとって、まさに彼は苦難の中に備えられていた神の慰めでした。そのひとりの執り成しによって、サウロは使徒たちに会うことができ、教会に受け入れられることになりました。

 いやそれだけではありません。その後、エルサレムにおいてサウロがユダヤ人たちに命を狙われた時、危険を省みずサウロを助けようと努めたのは、かつてサウロによって迫害された教会の人々だったのです。「それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた」(30節)と書かれていました。命を狙われているサウロを連れてカイサリアに下るということは、自らもまた危険に身を晒すことになるのです。しかし、彼らはそのことを覚悟の上で、かつての迫害者サウロを安全にタルソスへ出発させるために、カイサリアまで同行したのでした。その情景を思い浮かべます時に、まことに胸が熱くなる思いがいたします。

 先にも触れましたとおり、サウロの一つの目的はユダヤ人たちにキリストを伝えることでした。しかし、いくら語っても理解されません。エルサレムでもまた命を狙われるようになり、結局は都を後にしなくてはならなくなるのです。同胞を思う時に深い悲しみがこみ上げてきたことでしょう。しかし、そのような深い悲しみの中にあって、もう一方においてサウロは大きな慰めと平和とを経験していたのです。かつて自分が迫害した人々によって赦され、本来なら憎まれて然るべき人たちから愛され、助けられ、仲間とされている自分がそこにいるのです。彼は確かに、神のみが与えることのできる大きな慰めと平和とを目の当たりにしていたのです。

 そして当時の教会の状況が次のようにまとめられています。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」(31節)。

 「こうして、教会は」――その言葉の重さを思わずにはいられません。6章にも似た言葉がありました。「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」(6:7)。その6章から今日お読みした場面に至るまでに、どのようなことがあったでしょうか。ステファノが石で打たれて惨殺されました。それがきっかけとなって大規模の迫害が起こりました。教会は散らされることとなりました。しかし、そのような敵意と憎しみが激しく渦巻くただ中で、なんと迫害者サウロがキリストの教会に加えられるという出来事が神によって実現し、神の御言葉は伝えられて行くことになったのです。

 サウロはこの後しばらく表舞台から姿を消すことになります。外から見るならば、サウロは敗北者のようにタルソへと逃げ帰っていくことになります。しかし、カイサリアまで命がけで同行してくれている弟子たちと共にあるサウロには分かっていたはずです。すべては神の恵みの支配のもとにある。神の御業は進んでいるのだ、と。そして、どんな時にも慰めと平和を備えてくださる神を信じてサウロは旅立ったに違いありません。
(祈り)

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