使徒言行録 13:44‐52
会堂に押し寄せた異邦人たち
本日の第2朗読で読まれましたのは、パウロの第一回目の伝道旅行において起こった出来事です。
パウロとその一行は、ピシディア州のアンティオキアに到着しました。アンティオキアは今日のトルコの内陸部に位置します。紀元前一世紀にローマの植民地となりましたが、そこにはユダヤ人のコミュニティがありました。パウロたちはアンティオキアに着きますと、安息日にユダヤ人たちが集まる会堂に向かいます。集まった人々にキリストの福音を伝えるためです。
パウロがアンティオキアの会堂で何を語ったか、その内容は13章16節以下に記されています。今日は全体を読むことはできません。38節以下の結論部分だけをお読みしておきます。「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(38‐39節)。
パウロは、「この方」、すなわちイエス・キリストによる罪の赦しについて語ったのです。そして、信じる者は皆、イエス・キリストによって「義とされる」と語ったのです。「義とされる」とは、言い換えるならば、神に受け入れ、救われるということです。
パウロの説教は会堂にいた多くの人々に受け入れられたようです。「パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ」(42節)と書かれています。さらには、「集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた」(43節)と書かれています。
「神をあがめる改宗者」と訳されているのは、この場合、ユダヤ人ではないけれど会堂に出入りしていた異邦人です。彼らも含めて、「神の恵みの下に生き続けるように」と勧めたということは、ユダヤ人だけでなく異邦人の中にもキリストを信じた人たちがいたことを意味するのでしょう。
そして、次の安息日がやってきました。そこからが本日の聖書箇所です。「次の安息日にも同じことを話してくれ」ということでしたので、パウロは彼らの願ったように、再び会堂へと向かいました。ところが、そこで恐らくユダヤ人たちが全く想定していなかったことが起こったのです。「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」(44節)。
町には確かにユダヤ人の共同体がありますが、ピシディアのアンティオキアの住民のマジョリティはユダヤ人ではありません。「ほとんど町中の人」が集まったというのはかなり誇張された表現であるにせよ、そこには普段会堂での礼拝には参加していない異邦人たちが大挙して押し寄せてきたということでしょう。
どのような経路を経てかは分かりませんが、確かに救いをもたらす福音の言葉は、人から人へ伝えられ、異邦人の間にも広がっていったのでした。「信じる者は皆、この方によって義とされる」という福音は、大きな喜びをもって受け入れられ、伝えられていったのでしょう。その結果、多くの異邦人たちが会堂を満たすに至りました。
口汚く反対するユダヤ人たち
すると、もう一度パウロの話を聞こうとしていたユダヤ人たちの態度が変わりました。「しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」(45節)というのです。前の週には特に反対してはいなかったユダヤ人たち、むしろ好意的に受け止めていたように見えたユダヤ人たちが、突如として、手のひらを反したように反対しはじめたのです。
ユダヤ人たちの内に何が起こったのか。ある程度、想像することは出来ます。集まってきた大勢の異邦人たちを見て、パウロの説教が結論とすることの重大性に気付いたということです。つまり、パウロが「信じる者は皆、この方によって義とされる」と言ったその言葉の本質に気付いたのです。
「信じる者は皆、この方によって義とされる」ということは、もはやユダヤ人であるか異邦人であるかという区別は意味を持たなくなるということです。それはユダヤ人たちにとっては大問題なのです。ユダヤ人からすれば、今までユダヤ人としてモーセの律法を守ってきた努力や熱心は何だったのだ、ということになるでしょう。今まで神に対して熱心に仕えてきた自分たちと、律法を知らずに今まで神に背を向けてきた人々がまったく同じ扱いを受けるということは、まことに許しがたいことに思えたに違いありません。
しかも、福音を信じ、キリストを信じた異邦人たちの内には、罪が赦され、義とされた平安と喜びがあるのです。そうです。彼らは喜んでいるのです。一方、救われるために一生懸命に戒律を守り、自分の熱心と努力によって救いを得ようとしていた人々の内には、平和も喜びもないわけです。もともとなかったのです。だからねたんだのです。そのように書いてありますでしょう。自分たちが持っていないものをパウロたちは持っている。キリストを信じた異邦人たちも持っている。だからねたんだのです。ねたみに支配された彼らは、もはや口汚くののしることしかできませんでした。
その前の週には、彼らも同じ言葉を聞いていたはずです。何が問題だったのでしょう。彼らがあくまでも人間中心にしか考えられなかったということです。宗教的な生活についても、救いについても、彼らは人間中心にしか考えられなかった。明らかに問題はそこにありました。
先ほど引用した結論部分だけを読んでも分かるように、パウロは、救いについて、一から十まで神の御業として語ったのです。その必然的な帰結は「この方(イエス・キリスト)による罪の赦し」だったのです。しかし、彼らには、「神が何をしてくださったか、そして神が何をしてくださるのか」ということよりも、「人間が何をしているか、自分は何をしているか」ということの方が重要だったのです。
彼らの目は神の方にではなくて、人間の方にしか向いていなかった。その結果、一方的な恵みの宣言である福音を拒否してしまったのです。それゆえに、一方的な神の恵みである、義も平和も喜びも得られないでいたのです。
それでもなお神の御業は進んでいく
そのような彼らにパウロは語りました。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも、救いをもたらすために。』」(46‐47節)。
パウロの責任は福音を伝えるところまでであって、それ以上ではありません。太陽が上ったことを知らせても、窓もカーテンも開けずに真っ暗な部屋に人がいるとしたら、それはその人の問題です。神が「永遠の命を得るに値しない者」として人を断罪するのではありません。人は神の一方的な愛と赦しを拒否することによって自らを神の愛から締め出し、永遠の命から締め出すのです。ユダヤ人が拒むなら、パウロは異邦人の方に行くしかありません。
このようにして、アンティオキアにおける宣教では、神の言葉はむしろ異邦人たちに受け入れられました。彼が「異邦人の方に行く」と言った時、異邦人たちはこれを聞いて喜びました。そして多くの人々が信じ、キリスト者になったのでしょう。
しかし、このことについても、聖書はパウロの努力や能力のゆえであるとは言いません。「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」(48節)と書かれているのです。これは、異邦人が多数信じたのはパウロの功績ではなく、神の御業だったのだ、ということを言っているのです。パウロが為したことは福音を伝えるところまでであって、それ以上ではないということです。
最終的にパウロは町から追い出されます。ユダヤ人たちが、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動したからです。ユダヤ人たちはアンティオキアの当局を味方につけ、公的に彼らを追放したということでしょう。人間の方にしか目が向いていなければ、彼らは公的な権力に屈した敗北者としか見えません。この世の力に負けて追い出されていくのです。
しかし、それは神とその御言葉そのものが敗北したことを意味するのか。――そうではないと聖書は語っているのです。神に目を向けるならば、それでもなお神の御業は進んでいるのです。この世の力はパウロたちを追放できたとしても、福音を追放することはできないからです。
そこにはパウロたちが追放されたにもかかわらず、「主の言葉はその地方全体に広まった」(49節)と書かれています。パウロたちが追放されて、誕生したばかりの弟子の群れ、教会は非常に厳しい状況に置かれたことでしょう。しかし、聖書は次のように伝えています。「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」(52)。彼らの目は、人間の酷い仕打ちにではなく、彼らを義としてくださった神に向かって開かれていたからです。
(祈り)