2025年6月8日 聖霊降臨祭 礼拝説教
聖書:使徒言行録 2:1-11
御心が成るために
私たちは礼拝において毎週「主の祈り」を祈ります。今日も後ほど、皆で祈りますが、その祈りの中に「御国を来らせたまえ」という言葉があります。「御国に入れてください」という祈りではありません。御国、神の国が「来ますように」と祈っているのです。どこにですか。この地上にです。
神の国が来るとはどういうことでしょう。神の国とは神の支配のことです。神の支配が実現することです。その意味するところは、主の祈りにおいて、さらに明確に祈られています。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。私たちは、地の上に、御心が実現するように祈っているのです。
「御心が行われますように」と祈っているということは、まだ御心は実現していない、少なくとも完全には実現してはいない、ということを意味します。この世界を見てください、人々が憎みあい、殺し合っているこの世界は、神の御心が実現している世界ですか。これが神の国ですか。とんでもない。私たちの仕事場は、神の御心が実現している仕事場ですか。神の国ですか。私たちの家庭はどうでしょう。神の御心が完全に実現している家庭ですか。神の国ですか。子供たちの通う学校はどうですか。天に神の御心が実現しているように、この地の上に実現していますか。いいえ、明らかに実現してはいません。
だから、私たちは祈り続けているのです。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と。イエス様は、「このように祈りなさい」と言って、主の祈りを与えてくださいました。イエス様は、私たちが一生をかけて一心に求めるべきものを明らかにしてくださったのです。言い換えるならば、イエス様は私たちの人生の目的を与えてくださったのです。それは神の御心が成ることを求めて生きることです。私たちの人生はそのためにこそあるのです。
主の祈りを真面目に祈っている人は、少なくとも「私は何のために生きているのだろう」などという悩み方はしないはずです。なぜなら、求めるべきことははっきりしているからです。神の御心の成っていない悲惨極まりないこの世界に、神の御心が成るために、私たちは生きるのです。生きていくのです。
しかし、私たちはもう一方で良く知っています。私たちは、この手で、この自分の力で、神の国を実現することはできません。神の御心を実現することはできません。この世界を支配する罪の力、死の力、悪魔の力が、圧倒的な現実として私たちの目の前にあるからです。私たちの為しえることは、あたかも山火事に向かってコップの水を投げかけるようなことでしかないと感じます。私たちは、身近な一人の人間をも変え得ない者ではありませんか。いやそれどころか、我が身一つ変えることもできないし、どうすることもできない。それが私たちの現実です。
ですから、一つのことは明らかなのです。私たちが主の祈りを真面目に祈るならば、その実現のためには、神様においでいただかなくてはならない、ということです。神様に来ていただいて、御心を実現していただくしかありません。だから私たちの内に住んでくださり、私たちを用いて、私たちを通して働いてくださる神の霊、聖霊を求めるのです。聖霊によらずして、どうして地上に御心が実現するでしょうか。どうして、神の支配が実現するでしょうか。
イエス様の弟子たちは、そのことを良く知っていた。骨身に染みて知っていたのです。彼らはキリストが十字架にかけられたときに、主を見捨てて逃げ去ってしまった人々だからです。つくづく自分の弱さと無力さを思い知らされた人でした。だから、彼らは神の霊においでいただくしかなかったのです。父の約束してくださった聖霊を待ち望むしかなかったのです。
それゆえに、彼らは祈り求めて待ちました。待ち望みました。それが今日お読みした聖書箇所の背景です。そして、そのように祈り求めて待ち望んだ彼らは一同は、「聖霊に満たされた」と書かれているのです。その場面の描写は摩訶不思議なものです。しかし、重要なのは、ここに描かれている不思議な出来事そのものではありません。その結果です。「一同は聖霊に満たされた」ということです。
私たちは、これを教会の誕生と見ることもできますし、教会の宣教の開始として見ることもできるでしょう。その意味において、これは歴史の中において起こった一回限りの決定的な出来事です。しかし、ここに語られていますような、「聖霊に満たされること」そのものは一回限りの事ではありません。すぐ後の4章において、彼らは再び聖霊に満たされます(4:31)。その後、私たちは聖霊に満たされて力強く働いているパウロの姿をも目にします。また彼自身、エフェソの信徒の手紙の中で次のように語っています。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされなさい」(エフェソ5:18)。
要するに、ここに書かれていることは、ある意味では、私たちの誰もが求め、期待すべきことなのです。今日の箇所を読みます時に、単に「何か特別なことが起こった」と考えて読むことは、この箇所の正しい読み方ではありません。むしろ、「何か特別なことがそこから始まったのだ。そして今日に至るまで継続しているのだ。それはキリストの再臨に至るまで続くのだ」ということを考えて読まなくてはなりません。続いているのですから、私たちもまた同じことを求めるのです。
聖霊の満たしを求めましょう
そこで残された時間、聖霊に満たされるとはいかなることかを、なおこの箇所から共に考えたいと思います。
「聖霊に満たされる」という言い方に良く似た表現が聖書には出て来ます。例えば、「怒りに満たされる」という表現があります。新共同訳ですと「憤慨する」(ルカ4:28)と意訳されています。あるいは、「恐れに満たされる」という表現。「妬みに満たされる」という表現。いずれも意味合いは分かりますでしょう。
皆さんは怒りに満たされたことありますか。もう腹が立って、腹が立って仕方がない。もう我慢ができなくなってしまう。自分の押さえが利かなくなってしまう。怒りによって動かされるままに、言わなくてもいいことを言ったりいたします。叩いてはいけないのに叩いたりしてしまうこともあるかもしれません。そのように、「満たされる」というのは、「支配される」ことなのです。自分が自分を支配できずに、怒りによって支配され、動かされてしまう。それが「怒りに満たされる」ということです。
満たされるのが「怒り」であるのは決して望ましいことではありませんが、これが「聖霊」だったらどうでしょう。聖霊によって満たされ、神の霊によって支配されるのなら、それは実に喜ばしいことではありませんか。怒りや妬みではなく、神の愛によって動かされるならどうでしょう。すべての人を救いたいという神の思いによって動かされるなら、どうでしょう。
いや、「思い」すなわち「思考」だけでなく、実際に、この世界を救う神の力に満たされ、私たちを通して神の救いの力が現れ、神の御業が現れるならば、私たちの生活はどうなるでしょう。私たちの人生はどうなるでしょうか。実際に、その実例を私たちは使徒言行録に読むことができます。そのように、まさに神様御自身に支配され、神様が御自身を現してくださる。それが聖霊に満たされるということなのです。
「一同は聖霊に満たされた」。神様はそこにいた一同を聖霊に満たしたのです。何のためですか。もちろん、彼らを用いるためにです。そのようにして、あらゆる国々、あらゆる言語を持つすべての民族に、救いを実現するためです。その意味で、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という出来事は、極めて象徴的な出来事だったと言えるでしょう。神はあらゆる言語を話すこの世界のあらゆる民族の救いのために、彼らを、教会を用いようとしておられたのです。そして、実際にその後の教会の歴史は、その神の計画が実現していったことを示しているのです。
しかし、これはよくよく考えて見れば、かなり不思議なことであると言わざるを得ません。この世界を救うならば、人間など用いずに、神様が直接なさった方がうまくいくに決まっているからです。それこそ激しい風が吹いて来るような音が天から響くような仕方で、炎のような舌が現れるような不思議な仕方で、完全に超自然的な仕方で天から直接人々を救ったらよいではありませんか。
ところが、どうしたわけか、神様はそのようなことを望んではおられないようなのです。あくまでも神様は人間を用いて人間を救おうとしておられるのです。激しい風が吹いて来るような音が天から響いたのは最初だけでした。炎のような舌が現れたのも最初のこの時一回限りでした。それ以降は、人を聖霊に満たし、人を用いて、人を通して神様は救いの御業を進めてこられたのです。
そのようにして、この下北沢にも教会が存在しているのです。そのようにして、私たちもここに集められているのです。実際そうでしょう。突然、炎のような舌が現れて、その舌に導かれてここに来た人、ここにいますか?いないだろうと思います。誰かが神に用いられたから、わたしがここにいるし、皆さんもここにいるのでしょう。そのように、人間を通して働かれる神の御業の中に私たちも存在しているのです。ならば、今度は私たちの番ではありませんか。神様は私たちをも聖霊に満たし、私たちを用いて、さらに救いの御業を進めようとしておられるのです。
聖霊に満たされることを求めましょう。あの弟子たちが「心を合わせて熱心に祈っていた」ように、ひたすら祈り求めましょう。怒りや恐れに満たされて、妬みに満たされて、あるいは欲望に満たされて、支配されて、人生を消費してしまうのはとても悲しいことです。聖霊に満たされ、聖霊に支配されて生きることを求めましょう。それは単に私たち自身のためではありません。私たちの家族の救いのためであり、友人の救いのためであり、さらに言えば、この世の救いのためなのです。神は私たちを用いて人を救おうとしておられる。神の恵みを運ぶ器とならせていただきましょう。