2021年8月8日日曜日

「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」

使徒言行録20:17-38

 パウロはエルサレムへと向かっていました。途中、彼らを乗せた船がミレトスに到着しますと、パウロはエフェソに人をやって教会の長老たちを呼び寄せました。ミレトスからエフェソまで片道50キロ以上はあります。決して近くはありません。しかし、船出する前にどうしても彼らと会って話がしたかった。なぜでしょう。パウロはもう二度と生きて彼らに会うことはないことを知っていたからです。

 「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(22‐23節)。またパウロはこうも言っています。「そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています」(25節)。だから、どうしても会って話をしたかったのです。

 船が出るまでのわずかな時間、もうこの世では二度と会うことはないであろう人々に、私たちでしたら何を話すでしょう。話したいと思うでしょう。余計なことは一切省いて、本当に伝えたいこと、知って欲しいこと、心に刻んでおいて欲しいことだけを話すに違いありません。今日お読みしたところに綴られているのは、そのようなパウロの言葉なのです。そして、それが聖書に書かれて伝えられているということは、後の時代の教会もまた、どうしても聞いておかなくてはならない言葉だからす。

悔い改めと信仰
 ではパウロは何を語ろうとしたのでしょう。彼はこう語り始めます。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました」(18‐20節)。

 パウロは涙を流しながら主に仕えてきた。また苦難をも耐え忍びつつ主に仕えてきたのです。どのようにして。彼らに伝えるべきことを伝え、教えるべきことを教えることによってです。「役に立つことは一つ残らず」伝えてきたし教えてきたとパウロは言うのです。

 「役に立つこと」。パウロはどんな「役に立つこと」を話してきたのでしょう。確かに人生をより良いものとするために「役に立つこと」はいくらでもあるでしょう。様々な悩みや実際に直面している問題を解決するために「役に立つこと」はいくらでもあるのでしょう。しかし、「役に立つこと」と言っているのは苦難を覚悟でエルサレムへと向かおうとしているパウロです。「この命すら決して惜しいとは思いません」(24節)と断言する人なのです。その彼が「役に立つこと」と言うならば、それは人間の生と死を越えて決定的に重要となることを意味するのでしょう。人間はいつか必ず己の人生が神の御前において総括される時を迎えなくてはならないのです。そのような人間にとって真に重要になることを意味するのでしょう。

 そのような意味での「役に立つこと」は多くはありません。ですからパウロはこう続けます。「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです」(21節)。究極的にはこれだけです。これをどうしても思い起こして欲しかったのです。これは救いに関わることだからです。

 「神に対する悔い改め」と彼は言いました。「悔い改め」とは単に「悔いる」ことではありません。過去の自分の行いについて後悔する人はいくらでもいますが、後悔をいくら繰り返しても救いにはなりません。「悔い改め」とは神に立ち帰ることです。ですから「神に対する悔い改め」と語られているのです。重要なのは神との関係なのです。

 そこで「神に対する悔い改め」と共に、どうしても必要となるのが「主イエスに対する信仰」なのです。ここで「主イエス」と言われている時、それが意味するのは、私たちの罪のために十字架にかけられ、三日目に復活されたキリストです。十字架において私たちの罪の贖いを成し遂げて、復活して今も生きておられて、私たちを救ってくださる御方です。

 このキリストによる罪の赦しと救いがなければ、私たちは神に立ち帰ることはできないでしょう。あのアダムとエバのように神の顔を避けて隠れるしかない。私たちは主イエスを信じるからこそ、神に立ち帰ることができるのです。主イエスによって成し遂げられた罪の贖いを信じるからこそ、確かな罪の赦しが主のもとにあることを信じるからこそ、平安と喜びをもって神に立ち帰ることができるのです。「神に対する悔い改め」と「主イエスに対する信仰」は切り離すことができない一つのことなのです。

 そのことをパウロはエフェソの教会に余すことなく伝えました。語られるべきことは語られた。聞かれるべきことは聞かれた。伝えられるべきことは伝えられた。ですからパウロは言うのです。「だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです」(26節)。

 パウロは去っていきます。もう二度と会うことはありません。長老たちはここでパウロと話をしていますが、エフェソの教会の人たちは、もう二度とパウロに会うことはないでしょう。しかし、それでも良いのです。大事なのは伝えた「人」ではなく、伝えられた「福音」だからです。彼らの永遠の救いに関わっているのはパウロという人物なのではなく、伝えられた「神の恵みの福音」なのです。永遠の救いに関わっているのは、彼らとパウロとの関係なのではなくて、彼らと神との関係なのであり、彼ら自身が信仰に留まるということなのです。

神とその恵みの言葉とにゆだねます
 そこでパウロはエフェソの長老たちに教会の信仰に関わる事柄を託すのです。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」(28節)。

 エフェソの人々に最初に福音を伝えたのはパウロでした。エフェソの教会はパウロの伝道によってできた教会であると言うこともできます。しかし、それはパウロの教会ではありません。それは「御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」なのです。パウロは長老たちに、まず「自分」と「群れ全体」に気を配ることを求めます。神は彼らを「神の教会の世話」をさせるために任命されたのだと語るのです。「気を配る」「世話をする」という言葉でパウロが思い描いているのは羊飼いです。

 羊飼いが必要なのはなぜか。狼がいるからです。次のように語られているとおりです。「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」(29‐30節)。実際にこの使徒言行録が書かれた頃には、このパウロの言葉はそのまま実現していたのです。小アジアの教会には異端の教えが嵐のように吹き荒れていたのです。

 そのように、「神に対する悔い改め」と「主イエスに対する信仰」とは相容れない教えが、教会の中に、信仰者の生活の中に入り込んでくるのです。狼が入り込んでくる。狼が狼らしい姿で来るならばわかりやすいのです。しかし、時に狼には見えない姿で入り込んでくるのです。そのような狼によって信仰生活が荒らされ、教会が荒らされるということが起こってきます。長老たちはそのような教えから守るために任命されているのです。いや、その長老たちの中からも邪説を唱える者たちが出てくるかもしれません。だからパウロは「あなたがた自身」に気を配りなさいと言うのです。

 今、パウロは彼らに言います。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」(31節)。この世にいる間にどうしてもエフェソの長老たちに会って話をしたかった理由が、ここにはっきりと現れています。思い起こさせ、確認したかったのです。いったい何を伝えられたのか。何が真に人を生かすのか。何が永遠の救いに関わるのか。何を信じているのか。どこに留まらなくてはならないのか。そのことについて目を覚ましていて欲しかったのです。今、パウロの目の前にいるのは教会の代表です。しかし、パウロにはそこにエフェソの教会が見えていたに違いありません。その教会全体に、目を覚ましていて欲しかったのでしょう。

 そして、今、パウロは去っていきます。もう二度と彼らに会うこともないでしょう。しかし、それでもよいのです。パウロが伝えた神の恵みの言葉、彼らが聞いた神の恵みの言葉は、彼らを信仰者として建て上げ、造り上げ、完成し、永遠なる神の恵みを共に受け継ぐ者とすることができるからです。

 パウロは言います。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(32節)。そうです。共に受け継ぐのです。パウロは永遠なる神の恵みを共に受け継ぐ神の国を思いながら、これを語っているのです。ならばこの地上において別れがあったとしても永遠の別れではありません。永遠の神の恵みが互いを結びつけているからです。

 もちろん、この地上における別れは悲しい。今日の聖書箇所において最後に見るのは激しく嘆き悲しむ彼らの姿です。しかし、嘆き悲しみながらも、彼らは一緒にひざまずいて祈っているのです。彼らは永遠なる神に共に向かい、共に祈っているのです。そこには何によっても引き離されることのない永遠の命の交わりがあるのです。これこそが、この世の言葉ではない神の恵みの言葉を共有する「神の教会」に与えられている、永遠の命の輝きなのです。

(祈り)

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