2026年6月21日 主日礼拝説教
聖書:使徒言行録 13:1‐12
今日は使徒言行録13章が読まれました。ここには、アンティオキア教会からバルナバとサウロが伝道旅行に遣わされたいきさつが記されていました。また、彼らが向かったキプロス島における宣教の様子が記されていました。
聖霊によって送り出されたバルナバとサウロ
まず、バルナバとサウロが旅立つまでのいきさつを見ておきましょう。アンティオキアはローマ、アレキサンドリアに次ぐ大都市でした。そこにおいて形づくられたアンティオキアの教会は、ある意味では福音が世界へと宣べ伝えられていくための拠点となった教会です。そのようなアンティオキアの教会とは、いかなる教会だったのでしょう。私たちは詳しい情報を得てはいませんが、ここに預言者と教師の名簿が書かれています。これを見るだけでも、教会の一面を垣間見ることができます。
そこには、エルサレム教会から遣わされてきたバルナバがいます。また、ニゲルと呼ばれるシメオンがいます。ニゲルというのは黒人のことです。シメオンというのはヘブライ名ですから、恐らくアフリカのユダヤ人家庭に生まれ育った人物であると想像できます。
次に出てくるのはキレネ人です。キレネというのはアフリカ北部にあります。ということは、シメオンと共にアフリカ人ということになりますが、ルキオというのはヘブライ名ではありません。ラテン語の名前です。恐らくユダヤ人ではない。シメオンというヘブライ名と並べられることによって、二人の文化的な背景の違いが強調されているようです。
ルキオの次に書かれているのは、「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」です。彼は、ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスの幼友達だったわけです。恐らく宮廷との関係にある貴族の出身だったのでしょう。そして、最後に書かれているのはサウロです。タルソ出身のユダヤ人。宗教的には元ファリサイ派のユダヤ人であり、ガマリエルのもとで正統的なラビの教育を受け、かつて教会の迫害者であった人物です。
教師だけをざっと見ても、これだけ多様であったということです。多様な人々が集まれば、やっかいなことも煩わしいことも起こります。似たようなユダヤ人だけが集まっている教会ならば起こらないようなことも起こったに違いない。しかし、世界へと福音が伝えられるための拠点となった教会を描写するのに、聖書はまずはその驚くべき多様性を挙げているのです。それは、後に福音があらゆる国々、あらゆる文化圏に福音が伝えられていくことを象徴的に表しているからです。そして、アンティオキアの教会にかぎらず、教会とは本来そういうものなのです。
では、アンティオキア教会では、このような多種多様な人々が、いったいどこにおいて一つとなったのでしょうか。何において一つの方向に動きだし、サウロとバルナバを送り出すに至ったのでしょうか。
2節にはこのように書かれています。「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために』」(2節)。そのように、 彼らは礼拝し、断食して祈っていたのです。
彼らが一つの体に作り上げられたのは、単なる相互理解によるのではありませんでした。一人のカリスマ的人物の指導力によるのでもありませんでした。共通の敵に対して一つになったのでも、共通の目標に向かって一つになったのでもありませんでした。そうではなくて、彼らが一つとなったのは、礼拝と祈りにおいてでした。神を拝み、神の御前に共に身を低くして、共に御心を尋ね求めるところにおいてでした。
そのような教会に対して聖霊が「バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい」(2節)と語られたということは重要です。礼拝と祈りの中で、教会は神の言葉を聞き、主の御心が確かにここにあると信じたのです。だから、彼らはさらに「断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」(3節)のです。
パウロとバルナバが自らの使命感から「行きたい」と言い出して、その情熱と使命感をアンティオキアの教会が理解してサポートしたのではないのです。教会が、キリストの派遣を信じて「出発させた」のです。遣わす者にも遣わされる者にも、共通理解がありました。これが人からではなくキリストから出たことなのだ、ということです。それゆえに聖書は「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは」(4節)と語るのです。
皆さん、目に映るのは人間の姿です。しかし、人間の姿や行うことだけに思いを向けていてはならないのです。だからこそ、こうして共に礼拝すること、共に祈ることが大事になってくるのです。
魔術師エリマとの戦い
さて、次に4節以下に目を移しましょう。バルナバとサウロはセレウキアからキプロス島に船出し、サラミスに着きました。サラミスはキプロス島東岸にある港です。そこから彼らは島全体を巡ってパフォスに着きました。パフォスはローマの地方総督の座があったところで、キプロス島における行政の中心でもありました。
当時のキプロスを治めていた地方総督はセルギウス・パウルスという人物でした。キプロスには迫害によって散らされたキリスト者たちが既に伝道を始めていたようです(11:19)。セルギウス・パウルスも島のうちのユダヤ人たちに起こっている新しい動きを知っていたのでしょう。そこでサウロたちを招いて御言葉を聞くことにしたのだと思います。
ところが、そこに「ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者」と呼ばれ、「魔術師エリマ」と呼ばれている人物が登場します。この男はセルギウス・パウルスと交際がありました。彼は、キプロスにおいて大きな支配力をもっていたことと考えられます。
そのエリマがバルナバとサウロの邪魔を始めたのでした。「魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした(8節)と書かれています。第一回目の伝道旅行において、彼らがまず直面したのは、このような魔術師との対決という問題でありました。
さて、今日の私たちの周囲には、魔術師という存在はあまり見かけません。なので私たちとは無関係の話に思えます。しかし、実は、この「魔術師エリマ」の当たるものは、形を変えて、私たちの周りにいくらでもあるのです。
そもそも古代の魔術とは何でしょうか。なぜ霊能者や未来を予知できる人が古代において重んじられたのでしょう。それは人間の内にある「恐れ」に関わっています。人はだれでも自分の手に負えない諸々の力のもとにあることを知っているからです。例えば、古代人にとっては、自然現象に現れる力などは、具体的に彼らの理解も能力をも越えた力であったわけです。ですから、それらの諸々の力を支配することのできる人、あるいはそれらの力の行方を予知することのできる人が必要だったのです。不安と恐れの中にある人間が、「どうしたらいいでしょう」と尋ねることのできる人、「こうしたらよいのだ」と方向を指し示してくれる人が必要だったのです。
恐らく、地方総督セルギウス・パウルスが魔術師エリマと交際していたのは、助言者としてであり、超自然的な助けを得るためだったのです。地方総督をしていれば、難しい問題に直面することもあれば、迷うこともあり、不安や恐れに捕らわれることはいくらでもあったでしょうから。
しかし、人間が迷ったり、不安や恐れの内に置かれた時こそ、自分の人生のあり方を問い直すべき大事な時なのでしょう。この世界を本当に治めておられるのは誰なのか、過去も未来も、人間の生も死も手にしておられるのは誰なのか。本当により頼むべき御方、すべてをその御手にゆだねて信頼すべき御方は誰なのか。その時こそ、人間が天地の創造主である御方に向かうべき時なのでしょう。人間の恐れの根本的な解決というのは、その御方の愛を知り、生ける神との愛の交わりの中に身を置くところにしかないのです。
ところが、人が本当に神に向かおうとする時に、魔術師エリマがそれを妨げるのです。「総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした」(7-8節)。
聖書は一貫して魔術や占いの類を禁じています。それは本来向かうべき御方を見失わせるからです。すぐに不安や恐れを解決してくれるもの。すぐに迷いを取り除いてくれるもの。すぐに答えを出してくれるもの。それは今日においても、様々なスピリチュアルな、あるいは宗教的な装いをもっていくらでも存在します。もしくは、まったく世俗的な形でも存在します。今日たいへんな勢いで進化している生成AIは、とても役に立つ便利な道具ではありますが、使いようによっては、これもまた神に向かわせることを妨げる、魔術師エリマにもなり得ます。
バルナバとサウロは何よりもまず「ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた(5節)のでした。これが彼らの働きの中心でした。そして、信仰へ導かれつつあった総督も、バルナバやサウロの行う奇跡を見たいと思ったのではなくて、「神の言葉を聞こうとした」(7節)と書かれているのです。その意味で、総督は正しい方向へ向かっていた。なぜなら、神との真実なる関係は「神の言葉」が語られ、そして聞かれることによってしか生み出されないからです。
その意味においても、先ほど言いましたように、人間の姿や行うことだけに思いを向けていてはならないのです。私たちは目に見えない御方の、大きなご支配の中にあり、またその御方が、聖霊のお働きを通して、私たちに語りかけてくださるのです。だからこそ、こうして共に礼拝すること、共に祈ることが大事になってくるのです。