2023年7月9日日曜日

「週の初めの日に」

使徒言行録 20:7-12

週の初めの日に
 私たちは週の初めの日である日曜日に毎週こうして集まっています。今日は行われませんが、月の第1主日と第3主日には聖餐が行われます。聖餐を行うことを、昔の教会は「パンを裂く」と表現しました。今日のような小さなパンを食べる聖餐ではありません。普通の食事の形で、パンを裂いて行われた聖餐です。

 今日の第2朗読にも、その言葉が出てきました。「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると」(7節)。彼らは聖餐を行うために、すなわち、主の食卓を囲んで共に礼拝するために、週の初めの日に集まっていたのです。その意味では、彼らが行っていることと、ここで行われていることは、本質的には変わりません。

 翌日、パウロは出発する予定でした。次はいつトロアスを訪れることができるか分かりません。いつ彼らに会えるか分かりません。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。――実際、パウロは二度とトロアスを訪れることはできなかったのです。

 そのような出発の時、別れの時を翌日に控えていたならば、別れを惜しんで少しでも長く語り合いたいと思うものでしょう。しかし、ここには「別れを惜しんで語り合うために集まっていると」とは書かれていないのです。彼らはパンを裂くために集まっていた。言い換えるならば、共に主を礼拝するために集まっていたのです。もう二度と会えないかもしれないお互いであるからこそ、ただ語り合うのではなくて、パンを裂くために集まったのです。

 それは「週の初めの日」の集まりでした。日曜日に集まるということは、決して自明なことではありませんでした。ユダヤ人の安息日は週の終わりの日、すなわち土曜日でしたから。しかし、教会は極めて早い時期から週の終わりの日ではなく週の初めの日に集まるようになりました。なぜでしょう。言うまでもなく、週の初めの日にキリストが復活されたからです。

 彼らはパンを裂くために集まりました。それはキリストの言葉に基づきます。かつてキリストが弟子たちと最後の晩餐を行った時、主はパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えてこう言われました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)。

 そのように聖餐はイエス様を記念して行う食事です。それはイエス様を思い起こして行う食事です。しかし、それを「週の初めの日」に行うならばどうなりますか。キリストの復活を思いながら行うならばどうなりますか。ただ過去の人イエスを思い起こしての食事にはならないでしょう。それは復活されたイエス様を思ってあずかる食事になるはずです。さらには復活されたイエス様と共に食卓を囲む食事となるのです。

 実際、第一巻目である「ルカによる福音書」には、復活されたキリストが二人の弟子に現れて、一緒に食卓についてくださったこと、パンを裂いてわたしてくださったことが書かれています。そのように、復活されたイエス様がパンと杯を分かち与えてくださるのです。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言って分け与えてくださるのです。

 ならばそれは当然、感謝の食事となるはずです。なぜなら食卓の主は、私たちが罪を赦され救われるために苦しみを負い、十字架におかかりくださった御方だからです。そこで受ける体と血は、まさに「わたしが赦されるために裂かれた体、わたしが救われるために流された血」として受けることになるのです。ならば当然、それは感謝の食事になるはずです。

 そして、罪を赦された者にとって、それはまた希望の食事ともなるのです。なぜなら食卓の主は復活された御方として、私たちの復活を指し示してくださるからです。それは、私たちが最終的に完全な救いに与る希望、すなわち神の国の希望を指し示す食事となるのです。その意味で、聖餐は神の国の祝宴の先取りでもあるのです。

 そのような時間をこそ、パウロもトロアスの人たちも、一緒に持ちたかったのです。もしかしたらこの世ではもう二度と会えないかもしれないから。だから、ただ別れを惜しむのではなく、復活のキリストと共にあって、共に感謝し、共に神の国を仰ぎ望む者でありたい。そのために集まったのです。それが「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると」と書かれていることの意味なのです。

居眠りして落ちた若者
 そのためにも、パウロはトロアスの信徒たちに、キリストの福音を、言葉を尽くして語ったのでしょう。彼は福音の真理をひたすら語り続け、伝えるべきことはすべて伝えておきたかったに違いありません。「その話は夜中まで続いた」と書かれているとおりです。

 するとそこで事件が起こりました。エウティコという青年がパウロの説教中に眠気を催し、眠りこけて三階から転落してしまったのです。ということで、その青年の名前は説教中に居眠りをして落ちた人として、二千年後にまで語り継がれることとなりました。

 しかし、その青年にとってははなはだ不名誉なことではありますが、わたしはその青年が転落してくれたことに感謝したいと思います。なぜならその出来事は、週の初めの日に集まるということがどういうことかを、後の人々にもはっきりと指し示す出来事となったからです。

 恐らくその集まりは夜に始まったのです。教会の多くの者たちは主人に仕える身でしたから、夜にしか集まれなかったのです。恐らくこのエウティコも日暮れまで激しい労働をしてきたのでしょう。そして、夜中まで人々の詰めかけた部屋の中で話を聞いていたのです。そんな彼が居眠りしたとしても無理はありません。

 ただ、窓に腰掛けていたのはまずかった。三階から転落した彼は「起こしてみると、もう死んでいた」と書かれています。当然、大騒ぎになりました。するとそこにパウロが駆けつけます。彼は青年の上にかがみ込み、抱きかかえて言いました。「騒ぐな。まだ生きている。」そして、一同を部屋に戻して礼拝を続けたのでした。

 さて、この出来事をどう捉えたらよいのでしょう。ある人は、実際にはエウティコは死んではいないのに、ただ人々が誤って大騒ぎをしていただけと考えるかもしれません。その場合、パウロは単に冷静に対処しただけ、ということになるでしょう。あるいは、「起こしてみると、もう死んでいた」(9節)と書かれ、12節にはことさらに「生き返った青年」と書かれていますから、これは純粋に神の奇跡として受け止めるべきだとも言えるでしょう。

 いずれにせよ、はっきりしていることがあります。エウティコにとっては、これが最後の礼拝となったかもしれない、ということです。この青年はトロアスの弟子たちと共に、毎週、週の初めの日にパンを裂くために集まっていたのでしょう。しかし、次の週の初めの日には、彼がいない集まりになっていたかもしれないのです。しかし、実際には彼は生き返って集まりの中に残された。一方、パウロは次の日に出発し、その後、ついに地上において彼らと再び相見え、パンを裂くこともなかったのです。

 皆さん、週の初めの日にパンを裂くために集まるということはそういうことなのでしょう。日曜日の礼拝に集まるということはそういうことなのでしょう。実際、私はこの説教の準備をしている時、ここで礼拝を共にした人が翌週にはここにいなくて、もう二度とここで一緒に礼拝することはなかった、そんな人たちの顔を次々と思い起こすことになりました。

 最初に触れましたように、「週の初めの日」それはキリストが復活された日です。週の初めの日の中心には復活したキリスト、神の国を指し示すキリストがおられるのです。そして、神の国を指し示すキリストは、言い換えるならば終わりの日を指し示されるキリストでもあるのです。その意味においてこの集まりは常に終末に接しているとも言えるのです。

 もちろん、終末に接しているという意味では、本当はこの世界全体が常に終末に接しているのです。いつ終わりとなっても不思議ではない。しかし、この世界全体がそのことを認識しているわけではありません。そのことを啓示され、復活の主によって指し示されているのは私たちなのです。そこで私たちは終わりの時を思わざるを得ないのです。

 実際、これが私たち自身にとっても最後の礼拝となるかもしれないのでしょう。人生の終末のゆえに最後となるのか、世の終わりを迎えて最後となるのか、それはわかりません。しかし、いずれにせよ常にこれは最後の礼拝であり得る。聖餐を行うとしたならば、それは最後の聖餐であり得るのです。

 そのように終末を指し示され、終わりの時を思うなら、そこでは「何が本当に重要なのか」が問われることになるはずです。私たちが大事だと思っていること、それは終わりにおいても大事なことなのでしょうか。私たちがいつまでもこだわっていること、私たちが心に抱え続けてきた思い、私たちがしがみついて手放せないでいるもの――それは終わりにおいても重要なことなのでしょうか。この礼拝が最後だとしても、それでもそれは重要なことですか。もし終わりにおいて重要でないなら、恐らく終わりでなくても重要ではないのです。もし終わりにおいても重要なことならば、まだ終わりでなくても重要なことなのです。

 「居眠りして窓から落ちた若者」。彼は週の初めの日にパンを裂くために集まった一人でした。そして、彼はある意味では最も「週の初めの日の集い」らしい経験をしたと言えます。彼にもし次の日曜日があったなら、恐らく彼はそこで思ったに違いありません。今ここに集まっている人々と共に感謝を捧げ、希望を言い表しているこの時は、なんとかけがえのない尊い時間なのだろう、と。そうです、本当は私たちにとってもそうなのです。

(祈り)

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