使徒言行録 4:5-14
聖霊に満たされて
「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった」(5‐6節)と書かれていました。サンヘドリンと呼ばれるユダヤ人社会の最高法院が招集されたのです。何のためか。ペトロとヨハネを尋問するためでした。「そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した」(7節)。
アンナスとカイアファという名前には見覚えがあります。イエス・キリストが裁かれた時に出てきました。彼らはイエスを尋問した人々です。イエスを断罪し、死に定めた人々です。その同じ場にペトロとヨハネは立たされることとなりました。それは重大な危機を意味しました。それだけではありません。まだ教会は産声を上げたばかりなのです。その大事な時に柱ともいうべきペトロとヨハネが捕らえられたということは、教会にとっても重大な危機を意味ました。
なぜそのようなことが起こったのか。この話は3章から続いています。その次第を簡単にお話ししておきます。
その前の日、午後三時の祈りの時にペトロとヨハネは神殿に上っていきました。するとそこに生まれながら足の不自由な男が運ばれてきました。毎日、神殿の門のそばで物乞いをしていた人でした。彼はペトロとヨハネに施しを乞いました。ペトロは言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。すると彼は癒されて、躍り上がって立ち、ペトロたちと共に神殿に入っていきました。
神殿の門で物乞いをしていた男が、今や歩き回って神を賛美しているのを見て人々は大いに驚きました。大勢の群衆がペトロたちのところに集まってきました。ペトロは集まった大群衆にイエス・キリストを宣べ伝えました。ペトロは復活して今も生きておられるキリストを、彼らに伝えていたのです。
そのようにペトロとヨハネが群衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいてきました。彼らは二人がイエスの復活を宣べ伝えているのにいらだって、彼らを捕らえて牢に入れました。そして、翌日、最高法院が招集されたのです。
これが簡単な話の流れです。しかし、考えてみると、これはおかしな話です。ただ神殿で話をしていただけで、翌日に最高法院が招集されるというのはあまりにも大げさです。なぜこんなことになったのか。一つ考えられることは、群衆があまりにも巨大化していたということです。今日の箇所の直前に、「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」(4節)と書かれているとおりです。
それほどにペトロたちの影響力は大きかった。それはかつてイエス・キリストを十字架にかけた人々にとってはまことに恐るべきことだったのです。やっとのことでイエスを抹殺して全て終わったと思っていたのに、そのイエスの復活を宣べ伝える人々の群れが見過ごせぬほど膨れあがっていたのです。その結果、彼らは最高法院まで招集せざるを得ませんでした。どんな手段を用いてでも、この動きを封じなくてはならなかったからです。
ユダヤの最高法院が動き出しました。イエスが捕らえられたあの時と同じです。今度は使徒たちを、教会を、この世の巨大な権力が支配するために動き出しました。この世においては力関係がものを言います。力ない者は力ある者に支配される。弱い者は強い者に支配されることになるのでしょう。この場面においては、この世において何の権威も力もない二人が、権威と力を持つ人々のただ中に立たされているのです。ペトロとヨハネは支配される側の人間として立たされているのです。
しかし、そこで聖書は次のように語ります。「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った」(8節)。「満たされる」という言葉が意味するのは「支配される」ということです。例えば、私たちが「怒りに満たされる」ならば、それは「怒りに支配される」ことを意味するのでしょう。「聖霊に満たされる」とは「聖霊に支配される」ことを意味するのです。すなわち、この場面においてペトロを支配しているのは、アンナスやカイアファではないということです。支配しているのは「聖霊」なのです。神の霊なのです。
私たちの肉の目にはこの世の力しか映りません。この社会においては、人間が行うことしか見えないのです。そうです、この世界は人間が動かしているように見える。人間の支配関係がすべてを決定しているように見えるのです。
しかし、実は、もう一つの支配があるのです。それは神の支配です。目に見えるところにおいては、ペトロとヨハネは圧倒的に大きな人間の力のもとにあるのです。しかし、今日の聖書箇所が伝えているのは支配された人間の姿ではありません。ペトロはこの世の力に支配されてはいません。この世の力によって生じた悪い状況にも支配されてはいません。そうではなく、ペトロは聖霊に満たされていたのです。ペトロを支配しているのは「聖霊」なのです。
信仰に生きるとはこういうことなのです。あの時、ペトロを満たした聖霊は、私たちの内にも働いておられます。私たちもまた、もう一つの支配のもとに生きているのです。共に集まって礼拝をささげるこの場は、まさにその事実が目に見える形で現れている場だとも言えます。私たちがここに集まっているのは、人間の支配によるのではありません。神の支配によるのです。神の霊の働きによるのです。だから私たちは人間の権威や力、人間の行いを誉め讃えるのではなく、目に見えない神をほめたたえるのです。一緒に賛美をささげているのです。それはこの世の目からは滑稽に見えるかもしれません。しかし、私たちは目に見えない御方の支配を信じているのです。そして、目に見えない御方に自分自身を献げ、新しくここから歩み出すのです。
神の愛の支配が内に
そして、この世界に厳然として目に見えない神の支配があるならば、その御方のなさることは必ず現れてくるのです。目に見える形で現れてくるのです。人間は自分よりも力のない者を支配し、自分の思い通りにコントロールしようとするのですが、現実には人間の思ったとおりにはならないのです。それよりももっと大きな支配があるのですから。
ペトロとヨハネには何が起こりましたか。アンナスやカイアファたちは、ペトロとヨハネのために尋問と断罪の場所を用意しました。彼らはペトロとヨハネを強制的にその中に置くことができました。しかし、聖霊はそこでペトロとヨハネに神の言葉を語る大胆さと、福音宣教の機会を与えられました。目に見えない神の霊は、尋問と断罪の場所を、イエス・キリストを宣べ伝える場所に変えてしまったのです。
聖霊に満たされたペトロは言いました。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(10‐12節)。そのように、救いのために与えられた一人の御方、ただ一つの御名について語るのです。
その姿を見て議員や他の者たちは驚いたと書かれています。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」(13節)。そこに現れたのは聖霊の支配であり、聖霊の御業でした。
いや、聖霊は彼らに大胆さを与えただけではありません。聖霊の支配はまた神の愛の支配でもありました。アンナスやカイアファをはじめ、ペトロとヨハネをとりまく人々は、かつてイエス・キリストを死に定めた人々です。ペトロははっきりと彼らに対しても「あなたがたが十字架につけて殺し」たのだと語っています。しかし、その上でペトロは彼らに対する神の裁きについて語るのではないのです。そうではなく、救いについて語るのです。
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(12節)。このような言葉は極めて排他的に聞こえるかもしれません。しかし、ペトロは他を「排する」ために語っているのではないのです。宗教論争として語っているのではないのです。彼は「《わたしたちが》救われるべき名」と言うのです。ペトロはカイアファやアンナスたちに対しても「わたしたちが救われるべき名」と言って語っているのです。「わたしたち」にはアンナスもカイアファも含まれているのです。
聖霊に満たされたペトロの内にあったのは神の愛です。御自分を十字架につけた者をも救おうとされるキリストの愛です。ペトロはその愛によって自分もまた救われたことを知っているのです。自分もまたアンナスやカイアファと変わらない、ただイエス・キリストによって救われた罪人であることを知っているのです。だから「わたしたちが救われるべき名」として語っているのです。
そのように彼らはもはや支配者たちの敵意の中にもいないのです。敵意や憎しみにさえも支配されてはいないのです。もう一つの支配のもとにあるからです。もっと大きな権威と力をもった一つの御名のもとにあることを知っているからです。その御名によって救われていることを知っているからです。そして、その御名は私たちにも与えられているのです。私たちもまた同じ御名のもとにあり、同じ救いにあずかっているのです。
(祈り)