ヨハネによる福音書 10:31-39
あなたたちは神々である
「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。」そんな言葉から、今日の福音書朗読は始まりました。そのきっかけとなったのは、その直前に発せられたイエス様の一言でした。「わたしと父とは一つである」(30節)。
これを言ったら彼らは石をつかむだろう。イエス様は分かっておられるのです。しかし、主はあえて彼らに問われました。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」すると彼らは案の定、こう答えました。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」そうです。必ずこのような答えが返ってくる。イエス様は分かっておられるのです。
そこで主は聖書を引用してこのように反論されました。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか」(34-36節)。
イエス様が引用しているのは、詩編82編6節の御言葉です。私たちはまず、少し時間を取って、イエス様が引用している聖書の言葉にまで遡って、主の御言葉を思い巡らしたいと思うのです。詩編82編をお開きください。
主が引用している6節の言葉です。「わたしは言った『あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と」(詩編82:6)。ここで新共同訳では「神々なのか」と疑問文に訳されていますが、原文ではイエス様の引用のとおり「あなたたちは神々である」という平叙文です。私の知る他のすべての翻訳はそうなっています。しかし、新共同訳が疑問文に訳した理由も分かるような気がいたします。
ここで「神々」と呼ばれている「あなたたち」というのは、裁きの権威を与えられている世の支配者たちなのです。その権威は神が彼らに与えたのであって、彼らはいわば神の裁きを代行するようにと、支配者として立てられているのです。しかし、この詩編に歌われているように、彼らはその権威を濫用し不正な裁きを行っているのです。神の御心に仕える代行者ではなくて、いわば自ら神のようにふるまっているのです。
そんな彼らに対して、神は言われるのです。「あなたがたは神々だ」と。また、この詩編の作者も言うのです。「神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる」(1節)。言ってみれば、この「神々」というのは強烈な皮肉なのです。新共同訳は、恐らくこれが皮肉であることを表現しているのです。「おまえたちは神々なのか!」と。
そのように、皮肉にせよ「あなたたちは神々だ」と書かれている。さらにその次には「皆、いと高き方の子らである」すなわち、「皆、神の子らである」と書かれているのです。この部分は引用されていませんが、イエス様はもちろんこう続くことを知っていますし、聞いているユダヤ人たちも知っているのです。
そこで主は言われるのです。彼らでさえ聖書において「神々」と呼ばれ、「神の子ら」と呼ばれている。ならば、わたしが自らを「神の子」と呼ぶことが、どうして冒涜になるのか、と主は反論しておられるのです。
イエス様の言われることは、聖書の文字面だけを用いた屁理屈に聞こえなくもありません。先に申しましたように、実際には神でない者たちが神々と呼ばれているわけですし、およそ神の子らしからぬものたちが、皮肉を込めて「いと高き方の子ら」と呼ばれているわけですから。しかし、それだからこそ、ここでは重大なことが語られているように思うのです。
詩編82編の悪しき支配者たちが「神の子ら」と呼ばれたら、それは彼らがやっていることを見れば、明らかに事実とは異なる皮肉なのです。しかし、イエス様のなさっていることを見る時に、「神の子」という言葉は皮肉になり得るのだろうか。もし詩編と同じように、神がこの御方に「あなたは神の子だ」と言われたなら、それは皮肉となり得るのだろうか。その言葉を、イエス様が自らに対して用いたとき、それは事実でないことを事実として語っていることになるのだろうか。それこそ彼らが考えなくてはならないことなのです。そして、これを読んでいる私たちもまた、考えなくてはならないことなのです。主は言われるのです。「父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。」
わたしの行う父の業を信じなさい
だからこそ、主はこう続けられたのです。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」(37-38節)。
実際、彼らはイエスが行う「父の業」を見てきたはずなのです。先にお読みしたように、イエス様の最初の問いはこれでした。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」聖書協会共同訳では「私は、父から出た多くの善い業をあなたがたに示してきた」となっています。こちらの方が直訳に近いのです。「父から出た多くの善い業」と主は言っておられるのです。これに対して彼らはこう答えています。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。」そのように、彼らは「善い業」については否定しないのです。またその業が、「父から出た」ということも否定していないのです。
そんな彼らに「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と主は言われるのです。「そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」。これに対して、彼らは反論しないのです。恐らく反論できなかった言った方がよいのでしょう。だから彼らはどうしたか。「そこでユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとした……」と書かれているのです。そのように彼らは、力づくで、イエスを抹殺しようとするのです。そして、その彼らの意図は、続く11章以降ではっきりしてくるのです。
彼らはどうして石打ちにしようとしたのか。どうして捕らえようとしたのか。続く11章の終わりでは、イエスを抹殺するために最高法院が動き出すのです。どうして、そこまでして、イエスを消し去りたかったのでしょうか。「わたしと父とは一つである」と語ることが神に対する冒涜だからでしょうか。いいえ、そうではないのです。「わたしと父とは一つである」――このことが否定できなくなってきたからなのです。イエスが父の業、すなわち神からの業を行っていることが否定できなくなってきたからなのです。言い換えるならば、この御方を通して父なる神が語っておられること、行動しておられることが、否定できなくなってきたからなのです。
それはある意味では恐ろしいことなのです。なぜなら、詩編82編に見るように、まことの神が語られるならば、「神々」は裁かれ、否定されることになるからなのです。
この世の権力に限らず、何にせよ、すべては神から与えられ、託されているのでしょう。にもかかわらず、それを認めないで、あたかも自分に属するものであるかのように、好き勝手に用いているならば、それは神々として生きているのです。その意味では、あのユダヤ人たちも神々として生きていたのです。しかし、「父と一つである方」が語り出すならば、すなわち神が語り出すならば、「神々」は裁かれ、否定されることになる。要するに、イエスの言葉と行動によって、彼らの罪が明らかにされるということです。「父と一つである方」が来られたということは、いわばこの上ない明るい光が、恐ろしく近くにやってきたということなのです。光に照らされるなら、汚れた自分をも認めざるを得なくなるのです。
そこでなおも、自分の罪を認めたくなければ、その光から逃げるか、光を消し去るしかありません。「わたしと父とは一つである」と言うことが神を冒涜することだから抹殺しようとしたのではないのです。そうではなくて、「わたしと父とは一つである」と主の言葉が真実であることが見えてきたから、神を冒涜したという罪状で抹殺しようとしたのです。そして、恐らく私たちがそこにいても同じことをしたのです。なぜなら、父と一つである御方の前では、私たちの罪もまた明らかならざるを得ないからです。
しかし、彼らにせよ、私たちにせよ、人間はそのようなものであるからこそ、父の御業はここで終わらなかったのです。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。」イエス様が言われる「父の業」、神の子が行う「父の業」はいったいどこに向かっていたのか。――それは十字架へと向かっていたのです。父は神の子を通して、罪の贖いを成し遂げようとしておられたのです。
さて、私たちは、最終的に罪の贖いとして成し遂げられる「父の業」、すなわち神の子としてのイエスの御業を既に知らされた者として、毎週、この礼拝の場書に集っているのです。今日もそのような者として、主がこう言われるのを聞いているのです。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」
私たちは、父と一つであるキリストの御言葉に耳を傾けます。神のまばゆい光の前に身を置くときに、私たちの罪も明らかにされます。「あなたたちは神々なのか。」そんな声も聞こえてきます。神々であるならば、その罪は明らかにされます。しかし、私たちはもはや光から逃げる必要はありません。光を抹殺する必要もありません。「わたしは世の光である」(8:12)と言われた方は、世の罪、私たちの罪を照らし出す光でありますが、その御方はまた、私たちが暗闇の中を歩かないための導きの光でもあるのです。今週も、この御方に従ってまいりましょう。