ヨハネによる福音書 5:19-30
自分を殺そうとしている人々に対して
今日は5章の途中からお読みしましたが、この章の始めの部分には38年病気で苦しんでいた人をイエス様が癒されたという話が書かれています。しかし、それはユダヤ人の戒律においては労働が禁じられている安息日のことでした。病人を癒すことは、当然、禁じられている労働を行ったと見なされます。それゆえにユダヤ人たちはイエス様を責めたのです。
すると主はこのように言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(17節)。「わたしの父」とは神を指していることは明らかです。ユダヤ人の社会においてここういうことを言えば、ただでは済まされません。今日の箇所の直前にはこう書かれています。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである」(18節)。
今日の聖書箇所は、そのような理由で、殺意さえ抱いている人々に語られたイエス様の言葉です。主はこう続けます。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」(19節)。彼らにこんなことを語れば、火に油を注ぐことになるのは明らかです。しかし、イエス様は御自分の身を危険にさらすことになるのを百も承知でこう言われるのです。憎まれようが殺されようが、あくまでも父がこの世に遣わされた神の子として語られるのです。なぜなら、これは永遠の救いと裁きに関わることだからです。私たちはイエス様が自らの命を賭して、いったい何を語ろうとしたのか、真剣に耳を傾けなくてはなりません。
父を知りたければ子を見なさい
主は言われました。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」(19-20節)。これが父なる神と御子なるイエス様との関係だと主は言われるのです。
神は目に見えません。それは単に肉眼で見えないというだけでなく、神を知ることはできない、ということでもあります。神御自身についても、神のなさることについても、それは私たちの理解を超えているからです。そして、それは当然のことなのです。神は創造主であり私たちは造られたものに過ぎないからです。
しかし、ここに神を「わたしの父」と呼ばれる方がおられるのです。そして、「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」と言うのです。それは何を意味していますか。イエス様がなさっていることはすべて、父である神がどのような方であるかを、目に見える姿で表しているのだということです。「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」。いわば、神がどのような方かを知りたければ、わたしのしていることを見なさい、と主は言っておられるのです。
先にも触れましたように、この章の始めの部分には、38年もの長きにわたって病んでいた人を主が癒されたという話が書かれています。そこにはこう書かれていました。「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた」(5‐6節)。 そして、その人は癒されました。
これは、大勢の病人の中のたった一人に対してなさったことに過ぎません。しかし、この行為もまた、主が言われるように、父なる神がどのような方であるかを表しているのです。神は人間の苦しみを見て、知って、その上で関わってくださる。「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」。福音書はイエス様の言葉だけでなく、その生きる姿を伝えます。その御子の姿を通して私たちは父なる神を知るのです。
そのように「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示される」。イエス様は示されたとおりになさいました。ベトザタの池における癒しの業などは、まさにそのような御業の一つでした。しかし、父なる神がイエス様にさせようとしていたのは、そのような癒しの業に留まりませんでした。イエス様はこのように言葉を続けられます。「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる」(20節)。
死から命へと移っている
イエス様が父なる神から示されて為されるもっと大きな御業があると言うのです。癒しの業はそのしるしであるに過ぎません。イエス様が託された大きな御業とは何でしょうか。21節以下には2つのことが書かれています。「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」(21節)。これが第一のことです。第二は次のように書かれています。「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」(22節)。
第一の御業、「命を与える」ということについては、24節以下においてイエス様御自身が次のように語っておられます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(24‐25節)。
さて、ここで語られている「死」とは、明らかに、すべての人に例外なく訪れる肉体的な「死」のことではなさそうです。いったい「死」とは何でしょう。
ある時にイエス様はこんなたとえ話をなさいました。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった」(ルカ15:11‐12)。下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ちます。ご存じ「放蕩息子のたとえ」です。しかし、本当の問題は息子が放蕩していたことではありません。父から離れていたことです。そして、父から離れていた息子が帰ってきたとき、迎えた父親はこう言うのです。「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(同23‐24節)。
息子は生きて帰って来たのですから、その意味では息子は死んではいませんでした。しかし、父との関係においては「死んでいた」のです。父にとっては、父から離れていた息子は「死んでいた」のです。イエス様のたとえ話が語っているのは神と人との関係です。聖書が語る「死」とは、神によって造られた人間がその命の源である神から離れていることです。神との交わりの喪失です。ならば、体は生きているけれども霊的には死んでいるということがあり得るわけです。パウロもエフェソの信徒たちに宛てて次のように書いています。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(エフェソ2:1)。
イエス様に癒された病人のように、奇跡的な癒しを経験することは喜ばしいことではあります。しかし、癒された人もやがては肉体的には死んでいくわけです。癒しそのものは死を越えた命を与えるものではありません。イエス様は「命を与える」と言われたのです。それは永遠なる神との交わりによって与えられる命です。死によって失われない命、永遠の命です。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」そう主は言われました。
神の子の声が響いています。今もなおこの世界に響き渡っています。十字架にかけられ、死んで復活された神の子の声が響き渡っています。その声が死んだ者に届きます。罪の赦しを与え、父のもとへと招く声として、神の子の声が届きます。そして、その声を聞いた者は生きるのです。その声を聞いて、子を遣わされた父を信じる者は永遠の命を得るのです。その人は既に死から命へと移っているのです。体が生きようが死のうが、既に死から命へと移っているのです。
「死から命へと移っている」ことについては、そこに「裁かれることなく」と言い添えられていました。なぜ、裁かれないのでしょうか。裁きは一切子であるキリストに任されているからです。主が第二の御業としてこう言っておられたとおりです。「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」。
ある人が「人生はレストランのようなものだ」と言いました。好きなものを好きなだけ注文することができる。しかし、やがてレジを通らなくてはならない。私たちはどう生きようと自由である。しかし、生きたように支払わなくてはならない。――それは正しいとも言えるし、正しくないとも言えます。人生の終わりをレジに喩えるなら、それは正しくありません。人は必ずしも自分が生きたように、そのツケを払って死んでいくわけではありません。人生の終わりは必ずしも審判の時ではありません。
しかし、正しい神がおられる限り、最終的な審判は当然あるのでしょう。それをイエス様は次のように表現しています。「善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ」(29節)。イエス様ははっきりと言っています。人は死んで無になるのではない。私たちの人生は、死んですべてがチャラになるわけではありません。イエス様は、最終的に人は命を受けるか裁きを受けるかのいずれかだと言われるのです。しかし、そこでイエス様はこう言われるのです。「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」。
イエス様は、御自分が裁きの一切を任されたのだと言われるのです。そして、最終的に裁きを行う権能を託された方がこう言われるのです。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」と。
私たちは最終的な審判に至る前に、既に審判者の声を聞いているのです。神の子の声を聞いているのです。救いへの招きを聞いているのです。それゆえに、どのような人であっても、信じて父なる神に立ち帰るならば、神と和解し、神との交わりに生きることができるのです。最終的に裁きを行う方が「裁かれることはない」と言われるならば、もはや誰も罪に定めることはできません。自分の罪を知る自分自身でさえ、自分を罪に定めることはできないのです。最後の審判を待つまでもなく、既に死から命に移っているとはそういうことです。私たちはその恵みの中にいるのです。