2026年6月28日日曜日

「新しく生まれさせる聖霊」

2026年6月28日 主日礼拝説教 

聖書:ヨハネによる福音書 3:1‐8

 今日は6月の第4主日です。先月も申し上げましたが、今年から毎月第4主日は、年度主題を覚えて礼拝をおささげしましょう、ということになりました。今年の年度主題は――もう週報を見ないでも言えますか。――「聖霊の神殿である私たち」です。主題聖句としては「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(1コリント3:16)が掲げられています。

 神の霊が、私たち、すなわち教会に住んでいてくださる。そして、さらに神の霊が、私たち一人ひとりの体を神殿として、住んでいてくださる。パウロは同じ手紙の中で、こうも言っていますから。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(1コリント6:19)。

 神の霊、聖霊が住んでいてくださる。これを「聖霊の内住」と言います。聖霊は内住される御方です。ですから、目に見える人間のことだけを見ていてはならないのです。人間の姿や行うことだけに思いを向けていてはならないのです。そこには、神の霊、聖霊がなさっていることがあるからです。

 今日は、この礼拝の後に総会があります。そこにおいても、ただ人間の行うことだけを考えていてはならないのです。単なる事業報告と会計報告ではないのです。教会は一年間、聖霊のお働きによって保たれてきたのです。第2朗読では、パウロがイスラエルの歴史について語っていましたでしょう。しかし、パウロが一貫して語っていたのは、「神が何をしてくださったか」ということだったのです。私たちも同じです。そこに思いを向け、感謝をささげ、献身を新たにする時としたいと思います。聖霊のお働きに、私たちの思いを向けましょう。

 そこで、聖霊のお働きとして、今日は特に、人を新しく生まれさせる聖霊のお働きに思いを向けましょう。今日の福音書朗読の箇所をどうぞお開きください。

教えを請いに来たニコデモ
 そこにはニコデモという人が登場しました。ファリサイ派に属するユダヤ人です。「ユダヤ人たちの議員であった」とも書かれています。そのような人物が、ある夜、イエスを訪ねて言いました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(2節)。

 「ラビ!」彼はそのように呼びかけました。「ラビ」と言えば、律法の教師のことです。彼は律法の教師に教えを請いにやってきたのです。実は、このニコデモ自身もまた「教師」なのです。今日の聖書箇所には含まれませんが、10節でイエス様自身がニコデモを「イスラエルの教師」と呼んでいます。イエス様自身もご存じであられた、いわば名だたる教師だったのです。

 そのような律法の教師でもあるニコデモが人目を避けてまでして夜にわざわざやってきたのは、イエス様をただ者ではない特別な教師と見なしていたからです。彼はイエス様を「神のもとから来られた教師」と呼んでいますでしょう。ニコデモは、イエス様の数々の御業の中に、「神が共におられる」という明らかなしるしを見たのです。そのような、神が共におられる特別な律法の教師に、どうしても教えて欲しいことがあったのです。

 「ラビ」と言って教えを請いに来たのですから、その内容は明らかです。「何をすればよいのか」ということです。マタイによる福音書に、ある富める青年がイエス様のもとにやってきて、こう言ったという話が出ています。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。このニコデモも同じです。彼は教師ですから、これまで教えてきたことがあったのでしょう。もちろん、教えるだけでなく、自ら実行してきたことがあったのでしょう。神の律法に従い、善いことを行ってきたに違いない。しかし、このナザレのイエスという教師を見る時に、自分とは明らかに違う。そのことに気付いたのです。「神が共におられる!」

 神が共におられる教師に教えを請いに来たということは、同じ律法の教師である自分については「神が共におられる」と思えなかった、ということでしょう。律法を教え、律法を実行していながら、それでもまだ神は共におられない。神に受け入れられているとは思えない。神に愛されていると思えない。まだ足りない。まだ神に認められるには十分ではない。このままでは救われない。神の国にも入れない。私が聞かなくてはならない教えがあるはずだ。そう思ったからこそ、人目をはばかるようにしてでも、イエスという教師の教えを請いに来たのです。

新たに生まれる
 そのようなニコデモに対して、主はこう答えられました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。イエス様は、今まで行ってきたことに、さらに何か善いことを付け加えたらよいとは言われませんでした。「あなたがより善い人間になったら、神に受け入れられ、神が共にいてくださるようになり、神の国にも入れてもらえる」とは言われなかったのです。そうではなくて、「あなたに必要なのは新たに生まれることだ」と主は言われたのです。

 「新たに生まれなければならない」。これはニコデモにとっては衝撃的な言葉だったと思います。この「新たに」と訳されている言葉は、「初めから」とも訳せる言葉だからです。ですから、それは、「初めから、赤ん坊からやり直さなくてはならない」という意味に聞こえるのです。明らかに、ニコデモにはそう聞こえたようです。それは、ある意味では非常に厳しい言葉であるとも言えます。「何かこれから善い行いを付け加えるぐらいで、神の国を見ることができると思うな」というようにも聞こえますから。初めから、赤ん坊からやり直しだ、と。

 確かに、やり直しだと言われるなら、やり直したいことはいくらでも思い浮かぶに違いありません。あんなことしなければよかった。こんなことしなければよかった、と。特に、最終的に私たちの人生そのものが神の御前において問われることを考えるなら、私たちが一生をどのように生きて来たかを問われることを考えるなら、なおさらだと思います。人は知らなくても、神様はご存じのことが、いくらでもあるわけですから。それはニコデモも同じだったろうと思うのです。

 しかし、現実には人生をやり直すことなんてできないわけです。拭われないまま残された汚点、放り出してしまったままの問題、神様から問われたら申し開きができないようなことは、いくらでもある。私たちはよく知っているのです。人生やり直しが利かない。年を取れば取るほど、まさに人生のやり直しは利かないということを、いやというほど痛感させられるのです。

 ですからニコデモは言ったのです。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。議論のための議論をしているのではありません。これはいわば人間の悲痛な叫びです。後戻りができないという現実と向き合わざるを得ない人間の悲痛な叫びです。

水と霊とによって生まれる
 しかし、イエス様はニコデモに言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない」(5-7節)。

 主はあくまでも「新たに生まれなければならない」と言われる。ただ、ニコデモが考えていることとは意味合いが違うようです。実はこの「新たに」と訳されている言葉には、「初めから」という意味だけでなく、もう一つ「上から」という意味があるのです。「上から」とは「神から」あるいは「神によって」ということです。要するに、イエス様は「あなたは神によって新たに生まれなければならない」と言っているのです。

 人は神によって新しく生まれることができるのです。イエス様はそれを「水と霊とによって生まれる」と表現しました。この「水」とは「バプテスマ」を指していると考えて良いでしょう。しかし、バプテスマの水そのものが、人を新たに生まれさせるのではないことは言うまでもありません。水はあくまでも水です。人を新たに生まれさせるのは、そこに働く神の霊、聖霊です。

 実は、原文のギリシア語では「霊」という言葉は「風」という言葉と同じなのです。そこで、イエス様は風を引き合いに出して言われました。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)。風はとらえどころないし、目にも見えません。しかし、私たちはその音を聞きます。風が吹けばその風は事を起こします。聖霊も同じです。とらえどころないし目にも見えません。しかし、聖霊は確かに事を起こされるのです。私たちは目に見える人間の姿、人間が行うことだけに思いを向けていてはならないのです。

 聖霊によって人は新しく生まれることができます。神の霊によって生まれたのですから、神の子どもたちになるのです。イエス様が「アッバ、父よ」と呼んでいた神を、私たちもまた「アッバ、父よ」と呼んで生きるようになるのです。人が神の子として天の父に祈り、信頼して生きるようになること。それは、人によって起こったことではありません。聖霊による奇跡です。

 この恵みを経験したパウロは、後にローマの信徒に宛てた手紙の中でこう言っています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8:15)。 ニコデモに必要だったのは、まさにそのことでした。

 神の恵みによって新しく生まれること、神の霊によって神様の子どもにしていただくことです。そして、神を「アッバ、父よ」と呼んで生き始めることなのです。まだ神に愛してはもらえない。まだ神に受け入れてもらえない。まだ足りない。まだ十分ではない。――そのように打ち叩かれることを恐れる奴隷のように生きる必要はないのです。人は神の子とする霊を受けて、神の子として親に信頼し、親を呼び求めながら生きることができる。そのような私たちが神の子どもたちとして神の国を見るのです。それは人間にはできないこと。目に見えない聖霊のお働きです。

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