2025年5月11日 主日礼拝説教
聖書:ヨハネによる福音書 11:17‐27
わたしは復活であり、命である
エルサレムからおよそ三キロメートルほど離れたベタニアという村に、イエス様がしばしば立ち寄られた家がありました。マリアとマルタという姉妹、そしてその兄弟ラザロが住んでいた家でした。マリアとマルタはルカによる福音書にも出て来ます。イエス様と特別親しかった家族のようです。ユダヤ人たちの敵意に囲まれ、命さえ危ぶまれるような緊迫した状況の中で、イエス様が心からくつろぎ憩うことのできる家だったのでしょう。しかし、そのような幸いな家庭を、突然大きな悲しみが襲います。ラザロが病気になったのです。しかも、たいへん重い病でした。ラザロは死に瀕しておりました。
マリアとマルタは急いでイエス様に使いを送って言いました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。しかし、イエス様が到着したのは、既にラザロが墓に葬られて四日も過ぎた後でした。そこからが今日の聖書箇所です。
ユダヤ人には民間の俗信がありまして、死んだ人の魂は三日ほど屍のまわりを漂っていると考えられていたようです。ですから、「墓に葬られて四日目」は完全に死んだことを意味します。遅すぎました。もう終わっているのです。そのように、イエス様は人間的見地からすれば完全な絶望の中に来られたのです。しかし、人間にとって《終わり》であっても、主にとっては《終わり》ではありません。私たちには《終わり》としか見えないところに主が来られると、《終わり》が《終わり》ではなくなります。絶望ではなくなります。今日の聖書箇所は、そのことを伝えているのです。
イエス様が来られたと聞いて、マルタは村の外まで迎えに出ました。マルタは主に言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。そのようなマルタに対して、イエス様は言いました。「あなたの兄弟は復活する」。するとマルタは答えます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)。
「存じております。知っています。」そうマルタは言いました。「終わりの日の復活の時に復活すること。」それは当時のユダヤ教ファリサイ派における正統的な教理でした。確かに教理は知っているのです。しかし、彼女が知っている正統的な教理は、死の現実に直面した彼女にとって何の助けにもなっていません。そのようなマルタにイエス様は言われたのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(25‐26節)。
イエス様は悲しみに暮れるマルタに、改めて復活の教理を説明しようとはされませんでした。そうではなくて「わたしは(I am)」と言われたのです。自分を指し示したのです。本当に必要なことは教えや説明ではないからです。本当に必要なのは救い主なのです。「わたしは復活であり、命である」と宣言するイエス・キリストという救い主なのです。
私たちが単に教えを求めて教会に集まっているならば、私たちはこのマルタと同じところに留まっていることになります。しかし、私たちが、イエス・キリストという御方を求めて教会に集まるならば、私たちは救い主に出会うことになるのです。そして、主は言われるのです。「わたしは復活であり、命である」と。
わたしは復活であり、命である」。――それはすなわち、「わたしこそが、あなたが言っているその《復活》そのものなのだ、永遠の《命》そのものなのだ」と主は言っておられるのです。復活は「終わりの日」という遠い彼方にあるのではなく、永遠の命も遠い彼方にあるのではない。そう主は言われるのです。そうでなくて、復活の命は、絶望に満ちたこの世界のただ中に来ているのだ、と。イエスを信じる者は、《いつかその時に》ではなく、《今ここにおいて》永遠の命に与ることができるのです。そして、永遠の命をいただいているならば、「死んでも生きる」のです。永遠の命をいただいているならば、「決して死ぬことはない」のです。
イエス・キリストという御方は、このようなことを大真面目に語られるお方です。そして、主はマルタに問われたのです。「このことを信じるか」と。これは直接的にはある一人の女性に問われた言葉です。しかし、この言葉が福音書に記され、今日に至るまで伝えられてきたのはなぜでしょう。それはすなわち、復活して今も生きておられるキリストの問いかけとして、代々の教会がこの言葉を聞いてきたということでしょう。
4月20日は復活祭でした。私たちはイエス・キリストの復活を祝いました。そのキリストが今、私たちに問いかけておられるのです。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。あなたはこのことを信じるか」と。さて、私たちは何と答えるのでしょう。
御自分の命と引き替えに
さて、今日の福音書朗読はそこまでです。しかし、この話には続きがあるのです。イエス様がラザロの葬られている墓に赴き、ラザロを生き返らせたという奇跡物語が続くのです。イエス様は、ラザロが葬られている墓に来られました。墓は洞穴で、石でふさがれていました。イエス様は「その石を取りのけなさい」と言われます。人々が石を取りのけると、主は父なる神に祈り、そして大声で叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。墓の中にキリストの声が響き渡ります。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」と書かれています。
この奇跡物語の詳細について、今日は触れることができません。ただ一つの点にだけ注目しておきたいと思います。それは、ここでの出来事がユダヤ人たちの殺意を引き起こす直接の原因になった、という事実です。45節以下にはこう書かれています。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(45‐46節)。
そして、このことが最高法院における議論にまで発展するのです。このようなしるしを行う者を放置しておけば、皆が彼を信じるようになる。それは現体制を危機にさらすことになる。ということで、「彼には死んでもらうことにしよう」というのが大祭司の提案でした。そのゆえに53節には「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」と書かれているのです。ユダヤの最高権力が、イエスを抹殺するために動き出すのです。もちろん、イエス様にはそうなるであろうことは重々分かっているのです。
そのような緊迫した状況の中で、イエス様は、「わたしは復活であり、命である」と言われたのです。それは十字架へと向かっている御方の言葉に他ならないのです。また、主は十字架へと向かっているお方として、このしるしを行われたのです。
イエス様は墓の中のラザロに向かって、「大声で叫ばれた」と書かれています。このような表現がイエス様について用いられているのはここだけです。鬼気迫るものを感ませんか。このしるしを行うことが、御自分の身に何をもたらすかを知った上で、主は大声で叫ばれたのです。いわばこれはイエス様の命がけの叫びなのです。イエス様は御自分の命と引き替えに、ラザロを墓から呼び出されたのです。「ラザロ、出て来なさい」と。
それゆえに、この出来事は一つのしるしとなりました。永遠の命はキリストの死を通して与えられるのだ、ということを指し示すしるしとなったのです。そして、実際そうなのです。キリストは私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださいました。私たちに罪の赦しをもたらし、神との交わりを与えるためでした。この永遠なる神との交わりこそが永遠の命なのです。それゆえに、永遠の命を与えてくださるキリストの十字架と共にあるならば、「死んでも生きる」のです。復活であり命であるお方によって、永遠なる神との交わりの中にあるならば、「決して死ぬことはない」のです。
わたしはこの箇所を読みますと、かつて出会った一人のご老人のことを思い出します。もう20年以上も前の話です。一応「Iさん」とお呼びしておきますが、その人はとても頑固な方でした。あらゆる人間関係を自ら絶ち切って、孤独の中に閉じこもっていた人でした。ご病気のために、ベッドの上だけが生活の場所でした。体もずいぶん弱っていました。自分の部屋で、ベッドの上で、ただ弱って死んでいくその時を待っている人でした。初めてお会いした時、私はその人が生きている感じが全くしなかったことを思い起こします。彼はすでに死んでいる人のようでした。
しかし、何度かお会いしてIさんと聖書の話などをしているうちに、彼はイエス様のことを次第に思い出し始めたのです。実は30代の時に洗礼を受けたクリスチャンだったのです。もう長い間、教会からもイエス様からも離れていました。しかし、思い起こしたのです。キリストが私たちの罪のために十字架にかかってくださったこと。そして、神との交わりを与え、永遠の命を与えてくださったこと。ある日、わたしがお訪ねすると、その人は顔を輝かせて言いました。「永遠の命は、キリストの十字架と共にあるのですね」。
その人は変わりました。性格のことではありません。性格は相変わらず頑固でヘルパーさんたちを困らせていました。しかし、それは大したことではありません。もっと大きなことが起こっていたのです。彼はベッドの上で希望をもって生きるようになりました。それからお訪ねする度に聖餐式をするようになりました。実際、呼吸するのも大変で、少し話すと息が苦しくなるので、本当に短い聖餐式でした。しかし、いつも会う度にIさんは苦しい息の下でも喜びに溢れてこう言ったものでした。「わたしはね、復活の命をいただいているんですよ。もう永遠の命をいただいているんですよ」。
彼の体は会う度に弱っていきました。しかし、Iさんは既に永遠の命をいただいている者として、死に向かって歩んでいる人ではなくなっていました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。そのイエス様の言葉は、彼の上に確かに実現しているのをわたしは見せていただきました。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。イエス様は私たちにもこう語っていてくださいます。そして言われるのです。「あなたは信じるか」と。私たちには《終わり》としか見えないところに主が来られると、それはもはや《終わり》ではなくなります。「死」でさえそうなのです。主は問われます。「あなたは信じるか」と。