2024年7月28日日曜日

「天から降って来た命のパン」

ヨハネによる福音書 6:41-59

つぶやいていた人々
 今日の福音書朗読は、ユダヤ人たちがぶつぶつ言っている場面から始まりました。「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、「わたしは天から降って来た」などと言うのか』」(41‐42節)。彼らが問題にしているイエス様が「わたしは天から降って来たパンである」と言われたというくだりは、その前に書かれています。

 今日お読みした箇所は、話としては6章の始めから続いています。場所は59節に書かれているようにカファルナウムです。ちなみに、カファルナウムに渡って来たのはイエスと弟子たちだけではありません。イエスを捜し求めて大勢の群衆が追いかけてきたのです。追いかけてきたのは、彼らがある奇跡的な出来事を目撃したからです。奇跡の話は6章のはじめに書かれています。イエス様が五つのパンと二匹の魚を手に取り、感謝の祈りを捧げて人々に分けられると、大群衆が食べて満腹したという話です。

 もちろん、彼らは単にもう一度満腹したいと思って追いかけてきたわけではありません。彼らはイエスの計り知れない力を目の当たりにして、イエスを自分たちの王にしようとしたのです。それは彼らを支配しているローマからの独立を果たすためでした。彼らはローマ人の支配から彼らを解放してくれる政治的なメシアを求めたのです。そのようにイエスを追い求めてカファルナウムまでやってきた人々に対して、今日お読みした言葉は語られているのです。

 彼らは「わたしは天から降って来た」というイエス様の言葉につまずきました。ぶつぶつ言い始めた。その一つの理由は、彼らがイエスの父母を知っていたことにありました。もちろん群衆の全員がイエスの両親を知っていたわけではないでしょう。しかし、知っていた人からすれば、人間から生まれてごく普通の家庭で育てられていた人が、「わたしは天から降って来た」と主張している事自体、受け入れがたいことだったに違いありません。

 しかし、彼らがつぶやいたことは、もう一つのことをも示しています。すなわち、彼らはもともと彼らの救いのために、誰かが「天から降ってくること」など求めてはいなかった、ということです。べつに天から降って来なくても良いのです。あのモーセやエリヤのように、神の力を発揮して、人々を救うことのできる人間で十分なのです。天のことはこの際どうでもよいのです。地上のことで十分なのです。ローマ人から解放されて、ユダヤ人としての誇りが回復し、生活も楽になり、安心して宗教的な生活が送れればそれでよいのです。

 そのような彼らにイエス様はこう言われたのです。今日の朗読箇所の直前にはこう書かれています。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(38‐40節)。

 「永遠の命を得る」にしても「終わり日に復活させる」にしても、それは神による最終的な完全な救いを意味します。神との交わりに入れられ、神と共に生き、最終的に神によって完全に救われること。永遠の命。終わりの日の復活。確かに、ユダヤ人の世界ではお馴染みの言葉でした。しかし、実際には人々はそのような救いを求めていたわけではないのです。今必要な助けが与えられること。今、解放されること。彼らの必要を満たすことができるなら、その救い主は、別に天から降って来なくてもよいのです。偉大な指導者で十分なのです。

 そのように、イエス様が与えようとしているものと、人々が求めているものには、明らかに食い違いがありました。その食い違いは、今日の教会においても起こっているかもしれません。ある人は心の安らぎを求めて教会に来るかもしれません。ある人は日常生活や仕事に少しでも役立つことを聞こうと、教会に来るかもしれません。ある人は人々との出会いや仲間との交わりの時間を求めて教会に来るかもしれません。ある人は、教会がこの世において少しでも役に立つ存在であることを期待するかもしれません。しかし、そこで出会うのは、例えばイエス様のこんな言葉であるわけです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(54節)。

天から降って来たパンを食べる
 そのように、私たちが今抱いている自分の求めや願いを中心に持ってきて、そこからイエス様の言葉を聞こうとするならば、時としてイエス様の語られる言葉は期待はずれに聞こえるかもしれません。彼らにとっても、イエス様からそのような言葉を聞くことは、恐らく期待していなかったに違いないのです。だから、彼らはつぶやき始めたのです。

 しかし、そこで私たちは考えたいと思うのです。私たちが自分の求めや願い、自分の考えがまずあって、それを基準としてイエス様の言葉を判断するということは正しいことなのか。そうではないでしょう。むしろ本来は逆であるはずなのです。すなわち、イエス様の御言葉を基準として、私たちの求めや願望、私たちの考えていることが、逆に問い直されねばならない。今日の聖書箇所においては、むしろ私たちの側が問われているのです。私たちはいったい信仰生活において何を大事なこととして考え、何を求めているのか。そして、それでよいのか。そのことが、主の御言葉を前にして問われているのです。

 人間にとって最も重要なのは神との関係なのです。永遠の命も、終わりの日の復活も、最終的な救いも、すべてはそこにかかっているのです。問題がこの世のことではなく神との関係であるならば、それは人間にはどうすることもできないのです。私たち自身の罪が、神との関係を妨げるからです。旧約聖書におけるアダムとエバの物語が語っているように、人間は神の顔を避けて園の木の間に隠れざるを得ない者だからです。 ならば、救いは神から来なくてはならないのです。天から来なくてはならない。私たちには天から降って来る救い主が必要なのです。

 そして、その救い主は確かに天から来られたのです。その救い主は天から来られて、全ての人の罪を代わりに負って十字架にかかられて死なれたのです。そのようにして、私たちと神とを隔てる私たちの罪を取り除いてくださったのです。天から降って来られた方が、私たち人間の為しえないことを成し遂げてくださったのです。キリストは、私たちが神によって罪を赦されて、神と共に生きることができるように、御自身を献げてくださったのです。

 そのことを表現しているのが「わたしは天から降って来たパンである」という言葉なのです。それが今日の聖書箇所においては、さらに「肉と血」という言葉で表現されています。この言葉のほうが、より一層リアルにキリストの十字架を指し示していると言えます。まさにキリストは私たちの救いのために、十字架においてその肉を与え、血を私たちのために流してくださったのです。

 そのようにイエス様は私たちの救いのために命を献げてくださいました。だからこそ主はこう言われるのです。「イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(53‐57節)。

 そのようにキリストは私たちのためのキリストとなってくださいました。私たちが赦され、神との交わりに入れられ、永遠の命を得、最終的に完全な救いに与ることができるために、御自分を私たちに与えてくださいました。

 しかし、パンは食べられてこそ初めてパンとしての意味を持つのです。肉と血についても、食べられてこそ意味があるのです。「食べる」という言葉によって表現されているのは、「信仰」です。信じて受け入れることです。ならばなぜ「信じる」ことについて語らず、あえて「食べる」という話にしたのでしょう。少なくともひとつ言えることは、「信じること」と「食べること」は良く似ているということです。食べたり飲んだりすることは、信仰の本質を良く表していると言えるのです。

 私たちは誰かの代わりに食べるということはできません。自らそれを受け取り、口に運び、かみ砕いて飲み込まなくてはなりません。食べ物は自分のための食べ物として自分で食べるのです。そのように、信仰においても、他ならぬ私が信じるのです。誰かが代わりに信じることはできません。さらに言うならば、53節の「食べる」にしても「飲む」にしても、一回のことではなくて、継続を表す表現で書かれています。「食べ続ける」「飲み続ける」ということです。

 誰かの代わりに食べつつけることはできません。生きるためには、本人が食べ続けなくてはならないのです。それは、信仰における神との関係というものが、最終的にはその人自身が問われる極めて厳粛なことであるということでもあります。他の人を問題にすることはできない。最終的には本人が食べたか、食べ続けたか、すなわち、本人が信じたか、信じ続けたか、それだけが問われるのです。

 キリストは天から降って来た命のパンとなってくださいました。また、主は「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」と言ってくださいました。そして、私たちは今日も洗礼の泉のもとに、聖餐の食卓のもとにこうして集められております。私たちが神の恵みを軽んじない限り、私たちが永遠の命を与えるまことの食べ物、まことの飲み物を失うことはありません。永遠の救いは備えられています。しかし、食べるのは、食べ続けるのは、私たち自身がすることです。

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