2024年5月26日日曜日

「キリストの働きを受け継ぐ」

ヨハネによる福音書 14:8‐14

キリストの行う業を行う

 「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」(12節)。そうイエス様は言われました。

「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行うのだ」と主は言われます。イエス様と同じことをする。言い換えるならば、イエス様のなさっていることを引き続き行うということ、継承するということです。「わたしが父のもとへ行くからである」と主が言っておられるように、イエス様が父のもとに行った後の話です。イエス様が目に見える姿でこの世界におられなくなった後の弟子たちの話です。すなわち、教会の話です。ならば、それはここにいる私たちの話でもあるのです。イエス様が目に見える姿でこの地上におられなくなった後は、私たちが主の御業を継承するのだということです。

 では、継承すべき主の御業とは何でしょうか。イエス様の言われる「わたしが行う業」とは何を意味するのでしょうか。

 イエス様のなさったこととしてすぐに思い出されるのは福音書に書かれている数々の奇跡でしょう。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」。同じように奇跡を行う。――確かに、聖書を読みますと、弟子たちもまた数々の奇跡を行っています。ペトロもそうでした。パウロもそうでした。

 しかし、イエス様が単に「奇跡」の話をしているかと言うと、どうもそうではないらしいのです。その前にこう言っておられるからです。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」(10節)。イエス様を通して父なる神が語られる。イエス様を通して父なる神が働いておられる。それこそがイエス様の言われる「わたしが行う業」だったのです。

 私たちはここで同じ福音書に書かれている言葉を思い起こさねばなりません。そもそもなぜイエス様がこの世におられたのか。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。そう書かれています。神は世を愛されたのです。御自分に背を向けているこの世界を愛されたのです。御自分に敵対しているこの世界を愛されたのです。神様はこの世界を愛して救うために、独り子を遣わされたのです。御子はこの世界に対する愛の現れでした。その神が独り子を通して語られ、御子を通して働かれたのです。愛するためです。イエス様の言われる「わたしが行う業」とは、父なる神の愛の現れに他ならないのです。

 だからイエス様はフィリポにこう言っておられますでしょう。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」(9節)。イエス様を見たなら、既に父を見ているのです。この世を愛しておられる父、独り子をお与えになるほどにこの世を愛しておられる父を既に見ているのです。

 そのイエス様がこう言われるのです。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」と。この世を愛しておられる神が、イエス様を通して語られたように、今は、信じる者を通して語られるのです。この世を愛しておられる神が、イエス様を通して愛を現されたように、今は、信じる者を通して愛を現そうとしておられるのです。

 「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」。そのように、神はキリストを信じる者に明確な目的を持っておられます。キリストを信じる者は、ただ自分の幸いのためにキリストを信じるのではありません。ただ自分が救われるために、キリスト者になったのではありません。キリストの業を行うようにと、神は私たちを召されたのです。神様は私たちを通して、御自分の愛を伝えようとしておられるのです。言葉と行いをもって御自分の愛を現そうとしておられるのです。

 教会は自分たちの平安と喜びのために存在しているのではありません。この世においてキリストの行う業を行うために存在しているのです。教会を用いて、神様は御自分の愛を伝えようとしておられるのです。

 そして、イエス様はこうも言われました。「また、もっと大きな業を行うようになる」(12節)。これは驚くべき言葉です。イエス様よりももっと大きな業を行うようになる。しかし、これはまた歴史的な事実でもあります。イエス様の働きは、狭い地域に限られていました。イエス様はその公の働きにおいてパレスチナから外へは出なかったのです。そこから外に出て、ユダヤからサマリアへ、さらにはギリシャ、ローマへと働きを拡大したのは、後の弟子たちによってでした。

 そして、神の御業は広がって、この日本にまで至ったのです。「もっと大きな業を行うようになる。」確かにそのようになりました。しかし、もちろん、ここが終着点ではありません。今はここにいる私たちにも言われているのです。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と。

わたしの名によって願いなさい
 イエス様は、直接目の前の弟子たちに対して「あなたたちは、わたしが行う業を行い、またもっと大きな業を行うようになる」と言われたのではありません。「わたしを信じる者は」と言われたのです。その意味では、あの場にいた弟子たちと、私たちの区別はありません。使徒であるかないかも関係ありません。「わたしを信じる者は」と主は言われたのです。それだけです。ですから、さらに言うならば、信仰暦が長いか短いか、経験があるかないか、大人か子どもか、元気であるか病気であるかも関係ありません。これは信じる者すべてに与えられている約束です。大事なことは「信じている」ということだけなのです。

 そこで気がつきますことは、「信じる者」に共通して与えられているものがあるということです。この世における一切の違いにかかわず、信じる者に共通して与えられているもの――それは「祈り」です。イエスを信じる者に与えられているのは、イエスの御名による祈りです。ですから、イエス様はこのように話を続けられるのです。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(13‐14節)。

 イエス様は「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」と言われたのです。キリストの業を行うと言われたのです。キリストの業に似たような「人間の業」を行うのではないのです。「キリストの業を行う」のです。ならば、どうしても重要になりますのは「祈り」です。人間が人間の業を行うだけならば「祈り」は必要ありません。しかし、キリストの業を行うならば、「祈り」なくしてはあり得ない。だから私たちはイエス様の名によって願うのです。私たちが「願い」、キリストが「かなえる」という仕方において、キリストの業がなされていくのです。

 実は、これと似たような表現が16章に出てきます。「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(16:23‐24)。そこでは、「父はお与えになる」となっています。「キリストがかなえてくださる」というのは、「父がお与えになる」ということでもあるのです。私たちが「祈り」、キリストが「かなえてくださる」という仕方において、父が御自身の愛を現し、父が与えようとしている救いの御業が実現していくのです。

 どうですか。聞いていて、とてもまどろっこしいと思いませんか。不思議なことです。神様はどうしてそんな回りくどいことをなさるのでしょう。どう考えても効率が悪い。そんな回りくどいことをなさらないで、私たちが願うとか祈るとかとは無関係に、直接的に御自分の愛を現し、御自分の愛を伝え、御自分の救いの御業を進めた方が、はるかに効率がよいのでしょう。

 しかし、これが神様のやり方なのです。神様はどうも効率重視の御方ではないのです。神様は効率よりも、私たちの存在というものを重んじてくださるのです。私たちの意志を、すなわち願うこともでき、願わないこともできる、そのような私たちの意志をも重んじてくださるのです。私たちとは無関係に事を進めようとはなさらない。あくまでも、祈りにおける交わりの中で、「一緒にやろう」と言ってくださるのです。

 それは何のためですか。16章でイエス様ははっきりと言っています。「あなたがたは喜びで満たされる」と。神様は私たちの喜びのことを考えていてくださるのです。実際、そうではありませんか。人が救われることに関心のない人は、人が救われる喜びをも知ることはないでしょう。私たちが誰かの救いを心から願い、切に切に祈り続け、そして自分が神の御業のために用いられたなら、そのようにして神の愛が伝わって神が救いを現してくださったなら、そこに大きな喜びが満ち溢れることでしょう。

 教会が本当の喜びに満ち溢れるとするならば、それは単に和気藹々と楽しく過ごすことによってではないのです。そうではなくて、私たちが人々の救いを真剣に祈り求め、そして、その救いが実現していくところにおいてなのです。そのように誰かが救われるために私たちが用いられるところにおいてなのです。キリストの業がそのようにして現れ、さらに大きな業が現れることによってなのです。

 「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」それは私たちの祈りを通して実現していきます。ならば、私たちの周りの人々の上に、この地の上に、キリストの御業が現れるように、神の愛がはっきりと形を取って実現するように、大いに祈り求めようではありませんか。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」と主は言ってくださるのですから。

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