ヨハネによる福音書 10:22‐30
あなたはメシアであるか
12月、私たちがクリスマスを祝う頃、ユダヤ人たちは「ハヌカ」と呼ばれる祭りを祝います。ちょうど私たちがクリスマスにするように、彼らは飾り付けをし、キャンドルを灯し、祝福の歌をうたって祝います。現代では、子供にプレゼントをしたりするそうです。これは恐らくクリスマスの影響だと思いますが。
さて、今日お読みしました福音書朗読は、ちょうどそのハヌカの祭りの時の話です。ちなみに、「ハヌカ」というのは、ヘブライ語で「奉献」という意味でありまして、今日の聖書箇所では「神殿奉献記念祭」と呼ばれています。
実は、このハヌカの祭りは、過越祭や仮庵祭のように旧約聖書の中に定められている祭りではありません。歴史的には比較的新しい祭りです。新しいと言いましても、始まったのは今から二千年以上も前の話ですが。正確に言いますと、その祝いが始まったのは、紀元前164年のことでした。
簡単にその顛末をお話ししますと、こういうことです。紀元前2世紀、シリアのアンティオコス四世は、支配下にある全域の人々が一つの民族となるように、おのおの自分の慣習を捨てるよう、勅令を発しました。いわば民族のアイデンティティを捨てさせたのです。その支配下にあったユダヤ人たちもまた、例えば子供に割礼をほどこすことが禁じられ、聖所において犠牲を捧げて自由に礼拝することを禁じられるということが起こりました。さらに、アンティオコス4世は、エルサレムの神殿にゼウスの偶像を設置し、律法の書を焼き払い、ユダヤ人が汚れた動物であるとしていた豚を礼拝のいけにえとして捧げさせるという暴挙に出たのです。王の勅令に逆らう者は、次々と処刑され、殺されていきました。その迫害は女性や子供にまで及んだのです。歴史に残る大迫害の時代でした。
そのような中で、ついにハスモン家という祭司の一族の指導のもとに独立戦争が始まったのです。そして、最終的にユダ・マカバイという人物が率いる軍隊がシリア軍をやぶり、エルサレム神殿を奪回しました。紀元前164年のことでした。その年のキスレウの月(今日の12月ごろ)の25日に、ユダヤ人たちは、神殿から偶像を取り除いて清め、神殿を再び奉献したのです。そして、その日を記念して、ユダヤ人は年毎の祭日として祝うことにしたのです。これがハヌカの祭りの起源です。このように、ハヌカの祭りは、民族の解放と礼拝の自由の回復を記念する祭りだったのです。
ですから、毎年巡ってまいりますこの祭りの時には、民族の独立への希望が大きく膨らんだであろうことは容易に想像できると思います。新約聖書の時代、ユダヤ人たちはローマ皇帝の支配下にあったのです。そのような人々がメシアを待望していたのです。そのメシアとは、かつてのユダ・マカバイのように、政治的に彼らを解放し、独立と自由を与えてくれるメシアに他なりませんでした。、
そのようなわけで、今日の箇所においては、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」というのです。つまり、「あなたは本当に我々を解放してくれるメシアなのか、あのユダ・マカバイのように、ローマを倒してくれるメシアなのか。もしそうなら、はっきりそう言ってくれ。」――それは、「私たちが願っているとおり、事を起こしてくれ」ということでもあるのでしょう。
そう言って、彼らはイエスを問いただしているわけですが、それに対して、イエス様はこう答えるのです。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」。そうです、イエス様は既に天から来た、父のもとから来た、と語っておられるのです。ただ彼らが求めるようなメシアとしてではない。だからこう言われるのです。「あなたがたが信じないのはわたしの羊ではないからだ。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」。
これは何を意味しているのでしょうか。イエス様を取り囲んでいる彼らには彼らなりの要求があるのです。メシアならばこうあるべきだ、という彼らなりの理解と考えがあるのです。それを持ってきて、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか」と迫っているのです。しかし、イエス様は、ご自分が彼らの求めを満たすメシアであるかどうかという前に、彼らがメシア、キリストの羊かどうかを問題にされるのです。彼らが信じないとするならば、それはイエス様の側の問題ではなく、彼らの問題だと言っているのです。
あの時代のユダヤ人だけではありません。今日においても事情は同じです。人はいつでも勝手な要求をキリストにつきつけます。キリストが自分の願っているような存在なら受け入れもしよう、信じもしよう。あなたは私の期待に応えてくれるのか。私の願いをかなえてくれるのか。あなたは本当に私が考えているようなメシアなのか、私が求めているようなメシアなのか。人はそのように問うのです。
しかし、そのような私たちにイエス様は問い返されるのです。「あなたは何者なのか。あなたは本当にわたしの羊であるのか」と問い返されるのです。どのような者であるかが問われているのは、イエス様ではなくて、私たちの方なのです。
あなたはメシアの羊であるか
では、キリストの羊であるとはどのような者を意味するのでしょう。羊は羊飼いの声を聞き分けます。そして、その声を聞き逃すまいと耳を傾けます。その声の主である方についていきます。他の人の声にはついていきません。キリストの羊であるとはそういうことです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(27節)と語られているとおりです。
今から50年近く前、私が洗礼を受けて後、よく言われた言葉に「あなたはそれでもクリスチャンか」という厳しい言葉があります。ある時は家族から、ある時は友人から言われたものです。どうでしょう。皆さんにはそのような経験はありませんか。
しかし、極論を言うようですが、もしこれが私たちの人格的な欠点や人間的な弱さを指して言われた言葉であるならば、少しも気にする必要はないと思います。なぜなら、私たちは人格的な完全さによってキリストの羊とされたのではないからです。「あなたはそれでもクリスチャンか」―「はい、それでもクリスチャンです。わたしはキリストの恵みと憐れみによって、キリストのものとされたキリストの羊です。」そう答えれば良いのです。変えられなくてはならない点があるならば、成長の過程において、キリストの手の内にあって、変えられていけばよいことです。
しかしながら、もし同じ言葉が本質的な意味で言われたならば、それは心に留めなくてはならないと思います。つまり、「あなたは少しもキリストに耳を傾けようとしていないではないか。キリストについていこうとはしていないではないか。キリストから離れてしまっているではないか。キリストとは関係ない生活をしているではないか」―そのような意味で、「あなたはそれでもクリスチャンか」と言われたならば、その時には大いに悩み、悔い改めるべきだと思うのです。
皆さん、イエス様についていくことを妨げるのは人間の弱さではないのです。むしろ、強さなのです。羊飼いなどなしでやっていける、羊飼いなどいらないと思ってしまう傲慢さなのです。あるいは、自分勝手な要求だけを突きつけて、その御声を聞こうとしない傲慢さなのです。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けてついてくるのだ」とイエス様は言われます。そして、さらに主は言われます。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(28節)。もし私たちがキリストという羊飼いの羊であるならば、羊飼いは羊である私たちを全力で守ってくださいます。
イエス様は、御自分の後についてくる羊に、永遠の命を与えてくださると言われます。それは何によっても失われることのない命です。それは死によってさえも奪われることのない命です。それゆえ、「彼らは決して滅びない」とイエス様は言われるのです。それは何者によってもキリストの手から奪われないということを意味します。死でさえも、キリストの手からその羊を奪うことはできないのです。
この箇所を読みますときに、私は16世紀に書かれたハイデルベルク信仰問答という書物に書かれている、その第一問を思い起こします。そこにはこう書かれております。「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」あなたなら、どのように答えますか。「慰め」という日本語の語感はいくぶん弱々しいので、これを次のように言い換えてもよいでしょう。「生きている時も、死ぬ時も、あなたを最終的に支え得る助けとは何ですか。」もっと簡単に言うならば、「生きている時も、死ぬ時も、これさえあれば大丈夫と言えるものは何ですか」ということです。あなたにとってそれは一体何ですか、そのようなものを持っていますか、と問いかけているのです。
「生きている時」だけではありません。「死ぬ時」にもです。財産ですか、能力ですか、家族ですか、友達ですか、それらはどれも大切なものであるには違いありません。しかし、それがあれば大丈夫なのでしょうか。死ぬ時でさえあなたに希望を与え、力を与え、支え得る最終的な助けとなるのでしょうか。この書物は、この重大な問いに対してこう答えるのです。「わたしが身も魂も、生きている時も死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであるということであります。」
まさに、今日読みました箇所においてキリストが約束してくださっているのは、このことなのです。「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」そして「だれも父の手から奪うことはできない。」そのようにイエス様は言われるのです。
私たちはただこの方の声に耳を傾け、この方に信頼してついていけばよいのです。そうです、キリストの羊とは、キリストの声に耳を傾け、キリストを遣わされた神の子、救い主として信じ、この方に信頼してついていく者です。実際、私たちはわが身ひとつどうすることもできないような者ではありませんか。しかし、大丈夫なのです。主がこう言われるからです。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と。