2026年5月24日日曜日

「弁護者・助け主としての聖霊」

2026年5月24日 聖霊降臨祭 礼拝説教 

聖書:ヨハネ14:15-27

あなたがたと共に、あなたがたの内に
 今日は5月の第4主日ですが、今年から毎月第4主日は、年度主題を覚えて礼拝をおささげしましょう、ということになりました。今年の年度主題は週報の真ん中に書かれています。「聖霊の神殿である私たち」です。主題聖句としては「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(1コリント3:16)が掲げられています。

 今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)でありますが、ちょうど第4主日に当たったことには意味があるのでしょう。今年はこの年度主題をも念頭に置きながら、今日与えられている聖書箇所を通して、主の御言葉に耳を傾けたいと思います。

 主は今日の箇所でこう言っておられました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(14:16-17)。

 この霊、すなわち「聖霊」が、「あなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる」と主は言われました。これをパウロは、今年の主題聖句において、「自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」と表現していました。

 ところで、「あなたがたは知らないのですが」とパウロは言っていました。いや、本当は知っているはずなのです。しかし、知らないかのように振る舞い行動してしまうこと、知らないかのように生活してしまうことは、あるのでしょう。知ってはいるけど、忘れているからです。

 「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」イエス様も「あなたがたはこの霊を知っている」と言ってくださっているのですから、知っていることを忘れないようにしましょう。「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」――ここから改めて、このことを意識して教会生活を送りましょう。そうあってこそ、毎年こうして聖霊降臨祭が巡ってくることにも意味があると言えますから。

 「この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる」。教会における営みは、ただ人間が計画し、人間が行うことによって成り立っているのではないのです。「この霊があなたがたと共に、あなたがたの内に」。もし、人間が行うことが全てなら、馬鹿げたことをしているとしか言いようのないことが教会にはたくさんあるのです。例えば、このあと行う聖餐式。おままごとじゃあるまいし、みんなが神妙に列を作って、こんな栄養も取れない小さなパンを食べることに何の意味があるでしょう。馬鹿げているとしか言いようがない。

 しかし、そうではないのです。それこそ、迫害に遭おうが、何があろうが、命をかけてでも教会はこのことを二千年間も続けてきたのです。それは人間が行うことがすべてではないからです。「この霊があなたがたと共に、あなたがたの内に」。その聖霊が行っていることがあるのです。そこには永遠の救いに関わること、この世からは絶対に得られない、天来の祝福に関わることが起こっているのです。

 そして、それは教会の中でのことだけではありません。私たちの毎日の生活、私たちの人生においても、私たち自身と、私たちに関わっている人間がしていることがすべてではないのです。私たちがこの世に遣わされ、この世に散らされている時にも、私たちそれぞれは教会の一部、キリストの体の一部なのです。こうして集まっている時だけでなく、私たちが一人でいる時でも、教会の一部、キリストの体の一部なのです。ならば、そこでも同じことが言えるのです。「この霊があなたがたと共に、あなたがたの内に」。

 私たちの生活には、聖霊が行っていることがあるのです。私たちの人生には、聖霊が行っていることがあるのです。それは聖霊なる神が行っていることですから、人間などには想像もつかないような、私たちには計り知れないようなことが起こっているのです。

 「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」イエス様も仰っているこのことを、忘れないようにしましょう。

別のパラクレートスを遣わしてくださる
 さて、私たちと共におり、私たちの内におられる聖霊について、イエス様は「弁護者」という表現を用いていました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(16節)。ここでイエス様は「別の弁護者」について語られます。

 度々申し上げていることですが、「弁護者」と訳されているのは「パラクレートス」という言葉です。「傍らに呼ばれた者」というのが元の意味です。それはとても豊かな内容をもった言葉です。ですから他にも様々な言葉で訳されます。「助け主」「慰め主」「解放者」、そのように傍らに来てくださる方です。共に立ってくださる方です。味方になってくださる方です。それゆえに「友だち」という訳まであります。

 それまでは目に見える姿で共にいてくださったイエス様こそ、まさに弟子たちにとってはパラクレートスでした。「弁護者」「助け主」「慰め主」「解放者」そして、「友だち」。しかし、イエス様がこれが語られたのは、最後の晩餐の場面であることを忘れてはなりません。パラクレートスであるイエス様は、今や世を去って父のもとに帰ろうとしているのです。

 だからイエス様は、父にお願いしてくださると言うのです。そして、父は別のパラクレートスを遣わしてくださる。永遠に一緒にいるようにしてくださる。そうイエス様は言われたのでした。その「別のパラクレートス」こそ聖霊です。イエス様が天に帰られた後、弟子たちのところに聖霊が来てくださると主は言われたのです。

 そして、聖霊は来てくださいました。どのようにして来てくださったかは、第2朗読でお読みしました。今日はその出来事を記念する聖霊降臨祭です。イエス様が天に帰られた後、弟子たちの群れに聖霊が降ったことを毎年こうして祝っているのです。別のパラクレートス、聖霊が来てくださって、教会の歴史は始まりました。そして、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とイエス様が言われたとおり、その時だけでなく、パラクレートスなる聖霊がずっと一緒にいてくださって今日に至るのです。

この方は、真理の霊
 そして、イエス様はそのパラクレートスなる聖霊を「真理の霊」と呼ばれました。「この方は、真理の霊である」と。そのように、聖霊は「真理の霊」として、真理を私たちに示してくださり、伝えてくださり、悟らせてくださる。そのような御方です。

 しかし、そこで重要なのは「真理」とは何かということです。私たちが本当に知らなくてはならない「真理」が、ある「思想」であり「概念」であるならば、それは言葉をもって伝えることができるでしょう。しかし、そうではないのです。イエス様は言われたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)と。私たちが知るべき「真理」とは抽象的な概念ではありません。それは一人の御方です。イエス・キリストという御方なのです。

 イエス・キリストを知識として知るだけならば、それは言葉による伝達で十分なのでしょう。それは人と人との間でも同じでしょう。誰かについて、知識として知るだけなら、その人の情報を言葉によって知るだけで十分です。しかし、誰かについて、本当の意味で「その人を知っている」と言えるようになるには、人格的な交わりという意味で「その人を知っている」ということならば、その人と出会い、その人と共にいて、実際的な交わりがあるということは不可欠じゃないですか。

 「真理を知る」ということが、イエス・キリスト**を**知るということならば、キリスト御自身に来ていただくしかありません。キリスト御自身が共にいて、キリスト御自身が働きかけ、キリスト御自身が救いの御業を表してくださるしかありません。聖霊が「真理の霊」として、キリストを伝えてくださるというのなら、ただ「イエス様という御方はね・・」と言って教えてくださるだけでなく、キリストを実際にお連れくださるしかありません。そして、それが起こっているのです。聖霊のお働きによって。

 なんか、リモートワークみたいだな、と思う時があります。天に上げられたキリストが、地上において救いの御業をなされるというのは、ある意味では究極のリモートワークともいえます。聖霊を通してのリモートワーク。しかし、私たちが知るリモートワークと決定的に違うのは、声や言葉、映像や働きだけでなく、実際においでくださるということです。

 だから「この霊があなたがたと共におり、これからも、あながたの内にいるからである」と言われた時、さらにこう言われたのです。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(18-20節)。

 「あなたがたのところに戻って来る」。――それはキリストの復活や再臨をも念頭に置いた言葉でしょうけれど、一番大事なのは、パラクレートスなる聖霊を通して共にいてくださるということです。そのような神とキリストとの豊かな交わりをもたらしてくださる聖霊が、パラクレートスなる聖霊が、私たちと共に、そして私たちの内にいてくださる。私たちはその聖霊の豊かな御業の中にあるのです。今、こうして私たちが共にあつまり礼拝していること自体が、既にその現れなのです。

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