2026年2月15日日曜日

「向こう岸へ渡ろう」

2026年2月15日 主日礼拝説教 

マルコによる福音書 4:35‐41

向こう岸へ渡ろう
 「向こう岸に渡ろう」(35節)。そうイエス様は言われました。「向こう岸」ってどこでしょう。5章の始めにこう書かれています。「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」(5:1)。そうです、「向こう岸へ渡ろう」と言ってイエス様が指さしていたのは、なんと異邦人が住む土地だったのです。

 5章を見ますと、その地域の人々は豚を飼っていることが分かります。ユダヤ人は豚を食べません。豚は汚れたものとされているからです。要するに、イエス様が指さしている「向こう岸」は、一般的なユダヤ人の感覚からすれば、汚れた人々が汚れたことをして生活している汚れた土地だったのです。

 なぜそんなところにわざわざ渡らなくてはならないのでしょう。しかも、こんな日に!そもそもその夕べは雲行きが怪しかったのでしょう。すぐ後に「激しい突風が起こり」と書かれているとおりです。弟子たちのうち、ある者たちは漁師です。ガリラヤ湖のプロです。舟を出すにふさわしい夕べであるかどうかぐらい分かったはずです。こんな日は、向こう側へ向かって舟など出さず、安全なところに留まっている方が良いに決まっているのです。

 しかも、ガリラヤ湖のこちら側では、既にイエス様の名が知れ渡っているのです。湖の畔で教え始めると、おびただしい群衆が自ずとそばに集まってくるのです。宣教の働きは、ある意味では順調に進んでいるのです。このまま同じことを続けていたらよいように思えるではありませんか。そんな時に、なぜ会いたくもない人々が住んでいるゲラサ人の地方になど行かなくてはならないのでしょう。

 どう考えても、弟子たちは気が進まなかったに違いありません。しかし、イエス様は「向こう岸へ渡ろう」と言われるのです。弟子たちが留まっていたくても、イエス様は「向こう岸へ渡ろう」と言って、向こう岸を指し示すのです。ここを読みますと、改めて、「ああ、こういうことって確かにあるな」と思います。自分としては留まっていたい。このままでいたい。今のままで結構。しかし、イエス様は言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。

 この福音書が書かれた頃には、既に教会には多くの異邦人キリスト者がいました。しかし、初めからそうだったのではありません。イエス様はユダヤ人でした。十二弟子もユダヤ人でした。あのパウロもユダヤ人。当初、教会にはユダヤ人しかいなかったのです。そこに異邦人が加わって来るようになったのは、言うまでもなく、ある時から異邦人伝道が始まったからです。それがなかったら日本人キリスト者などもいないはずなのです。そのように、ある時から異邦人への伝道が始まった。それはまさにイエス様の「向こう岸へ渡ろう」だったのです。

 考えてみてください。もともとユダヤ人は異邦人とは一緒に食事はしなかったのです。異邦人が加われば、「異邦人との食事」という全く未知の要素が入ってくるのです。また当然、全然馴染みのない習慣やものの考え方も入ってくる。感じ方も違う。そういう人たちと共にいることになる。当然、教会の雰囲気そのものも変わってくるでしょう。ユダヤ人が自分たちにとって居心地のよい教会を望むなら、絶対に異邦人に伝道などしない方がよいのです。しかし、イエス様は言われたのです。「向こう岸へ渡ろう」と。そして、教会はイエス様に従った。それゆえに異邦人である私たちも福音に出会うことができたのです。

 主は私たちにも言われます。「向こう岸へ渡ろう」と。私たちはいつだって安全なところに留まりたいと思います。自分たちの慣れ親しんだところ、今までの慣れ親しんだあり方に留まりたいと思うものです。前に踏み出したくない。舟は出したくない。ゲラサ人とは関わりたくない。異質なものは受け入れたくない。しかし、イエス様は先へと、向こう岸へと行こうとされるのです。お一人ではなく、私たちと共に、です。それゆえに私たちに言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。

まだ信じないのか
 さて、そのように自分の安全地帯から踏み出すならば、当然、困難に直面することも起こり得ます。舟を出すからこそ嵐に遭うわけでしょう。岸に留まっていれば嵐には遭わないのです。「向こう岸へ渡ろう」と言われた弟子たちは、言われるとおり舟を出しました。イエス様と一緒に岸を離れます。するとどうなったか。激しい突風が起こりました。「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」と書かれています。ちなみに「水浸し」というのは「(水が)今や舟いっぱい」という表現ですから、事態はかなり深刻です。舟は沈みそうになっていたのです。彼らは命の危険にさらされることになりました。

 この物語を読んでいますと、旧約聖書に出てくる一人の人物を思い起こします。それはモーセです。彼は八十歳の時、神の呼びかけを聞きました。神は彼にとてつもないことを要請されたのです。それはイスラエルの民をファラオの支配から解放し、エジプトから導き出すことでした。それがモーセに示された「向こう岸」だったのです。

 イエス様の弟子たちがそうであったように、モーセにも神の要請を断る十分すぎるほどの理由がありました。それゆえモーセは言います。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」。しかし、モーセと神との長い押し問答の末、彼は神に従いました。彼はファラオのもとに行ってこう告げます。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」(出エジプト記5:1)。

 モーセは神に従いました。向こう岸に向かって漕ぎ出したのです。さて、結果はどうなったでしょうか。エジプト王は怒って、イスラエルの人々の労役をかえって重くしたのです。イスラエルの労役の責任を負っていた下役たちは、「自分たちが苦境に立たされたことを悟った」(出5:19)と書かれています。下役たちはモーセとアロンに言います。「あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです」(同21節)。結局、モーセは救い出そうとしたイスラエルの人々から、かえって非難される結果となりました。

 漕ぎ出した先には嵐が待っていました。その時モーセは神にこのように訴えます。「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」(出エジプト記5:22‐23)。

 さて、このモーセの言葉。嵐の中で弟子たちの発した言葉に似ているように思いませんか。弟子たちも、眠っているイエス様にこう叫んだのです。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。

 あのモーセの言葉にしても、あの弟子たちがイエス様に向かって発した叫びも、私たちにとって馴染みの深い言葉でしょう。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。私たちも、そう叫びたくなるときがあるのではありませんか。私たちの目から見ると、イエス様が私たちの現状に対して、全く関心を持っておられないように見える時があるのです。まさに、この物語のキリストのように、一人で眠っておられるように見える時があるのです。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」

 しかし、神様が「御自分の民を全く救い出そうとされない」ように見えたとき、実はそうではなかったのです。モーセが嘆いていたまさにそのとき、神が何もしていないかのように見えたその時、神は着々と救いの準備を進めておられたのです。また、イエス様が眠っておられた時、「おぼれてもかまわない」かのように見えた時、たいへん逆説的ですが、そのキリストの姿は天の父がまさに生きて働いておられることを示していたのです。天の父が支配しておられ、動いておられるからこそ、御子なるイエス様は安心して眠っていることができたのでしょう。その姿こそが、まさに神の支配を指し示すしるしだったのです。神は圧倒的な力をもって生きて働いておられる、と。

 結果的に見るならば、イエス様が奇跡を起こして弟子たちを救ったという話となっています。「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」(39節)。しかし、イエス様の奇跡によって助かったという結果が一番大事なことであるならば、その後にイエス様はこう言われたことでしょう。「あなたたちは嵐から救われた。もう大丈夫だよ。心配することはない。」しかし、主はそう言われないのです。主は弟子たちにこう言われたのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

 「なぜ怖がるのか」と言われるということは、本当は怖がる必要などなかったのだ、ということです。風がやんで凪になったから怖がる必要ないのではなくて、まだ突風が吹いているときでも、波をかぶって舟が沈みそうになっているそのときでも、本当は怖がる必要などなかったということです。なぜなら、「向こう岸へ渡ろう」と言われた主が同じ舟の中に共にいるのですから。「向こう岸へ渡ろう」という主の言葉に従って舟を出したのなら、嵐に遭おうが、波をいくらかぶろうが、主と共に向こう岸に着くのです。

 ですから主は言われたのです。「まだ信じないのか」と。主は弟子たちに信仰を求めておられたのです。凪になったから信じるのではなくて、まだ嵐のただ中にあっても、なお信じることを求めておられたのです。共におられるイエス様を、そして主が指し示しておられる天の父を信じることを求めておられたのです。弟子たちにとって本当に必要だったのは、単に嵐から救い出してもらうことではありませんでした。そうではなくて、嵐の中にあってもなお主を信じる者となることだったのです。

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