2026年1月25日日曜日

「真に自由になるために」

2026年1月25日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 1:21‐28

律法学者のようにではなく
 今日の福音書朗読は、ガリラヤ湖北岸に位置しますカファルナウムという町での出来事を伝えています。それはある安息日、皆が集まっている会堂で起こりました。

 その日、人々が集まった礼拝の場は、普段の安息日とは全く違った空気に包まれていました。皆があっけにとられた表情で、語られる言葉に聞き入っています。彼らの前に立っているラビは、明らかに、ただ者ではありませんでした。人々はこれまで全く聞いたことのないような言葉を耳にしていました。人々が驚いていたのは、そのナザレのイエスという御方が、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」(22節)でした。

 「律法学者のようにではなく」とは、どういうことでしょうか。律法学者の主要な職務は、律法を解釈することにありました。すなわち、聖書の言葉を解釈し、その時代の状況に適用することにありました。その解釈をもって、人々に教育を施し、あるいは法廷における判決に関わったのです。そこで重要なことは、律法学者と呼ばれる人たちは、あくまでも解釈者以上の者ではなかった、ということです。最終的な権威は、聖書の言葉、律法の言葉そのものが持っていたのです。

 ところが、イエス様は自らが「権威ある者として」語られたと言うのです。律法学者とは違っていたのです。単に《聖書の言葉を現実生活に適用すること》を教えていたのではないのです。イエス様の存在とそのみ言葉は、確かにそれ以上のことを意味していたのです。

 残念ながら今日もなお、キリスト教信仰を《聖書の言葉を現実生活に適用すること》ぐらいにしか考えていない人は少なくありません。「聖書を生きる」という言葉を耳にしたことはあるでしょうか。教会においてよく使われる表現ですし、私も時々口にする言葉です。しかし、この「聖書を生きる」ということが、単に「聖書の教えを実践して生きている」という意味でしかないならば、イエス様が来られる以前に、「聖書を生きている」人はいくらでもいたのです。既に律法学者がその専門家でありました。まさに律法学者たちが目指していたのは、そのような意味で、人々が「聖書を生きる」ように教えることだったのです。

 しかし、イエス様はあのカファルナウムの会堂で、律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたのです。主がもたらされたのは、単なる聖書の言葉の適用ではなかったのです。イエス様はもう一人の律法学者として来られたのではないのです。

権威ある者として
 では、イエス様が権威ある者として教えられたということは、いったい私たちに何を意味するのでしょうか。そのことを続く出来事から見ていきましょう。23節以下をご覧下さい。「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ』」(23‐24節)。

 場面を想像してみてください。皆が会堂に集まっています。礼拝をしています。イエス様が語り始めました。人々は権威ある者のように語られるイエス様の言葉に驚嘆しながら、全く初めて聴くような新しい言葉に、それこそ全身を耳にして聞き入っています。「そのとき」――まさにその時に、会堂の中に異様な叫び声が響き渡りました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」その場面を想像できますか。

 皆の視線がその人に集まったに違いありません。驚いた顔をしている人。迷惑そうな顔をしている人。どうしたら良いのか当惑している人。一瞬、その場が凍り付いたことでしょう。ここに書かれているのは、そんな場面であると想像します。

 しかし、その凍り付いた空気を、イエス様の声が切り裂きます。主は厳しく叱りつけられたのです。「黙れ!」そして、続いて何と言ったでしょうか。「出て行け!」と叫んだのです。しかし、それはその人に対してではありませんでした。「《この人から》出て行け」(もとの語順なら「出て行け、この人から」)と主は叫ばれたのです。

 人々は、礼拝を混乱させる「この人」に出て行って欲しかったに違いありません。しかし、イエス様にとっては、「この人」が大事だったのです。彼はそこにいなくてはならないのです。その人はイエス様にとって、汚れた霊に支配されている悲しい一人の人間なのです。正しく神に向かうことができず、神を礼拝することができず、自分を超えた力に振り回され、自分自身をコントロール出来ない、悲しい一人の人間に他ならないのです。

 「この人から出て行け!」――それは汚れた霊に対する怒りの言葉でした。しかし、それは同時に、この一人の人間に対する、イエス様の深い憐れみからほとばしり出た叫びでもありました。何としてでもこの人を汚れた霊から解放し、神に向かう本来の人間の姿を回復したいと願う、キリストの熱情の現れでありました。

 そのようにイエス様が汚れた霊を叱りつけると、「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」と書かれています。そのように、権威ある者として語られたイエス様の御言葉は、この人を解放し、この人の本来の姿を回復したのです。イエス様の存在とその言葉は、ただ単に、聖書の言葉を実践する道徳的な人間を造り出したのではないのです。汚れた霊の支配に代わって、神の支配がその人の上に訪れたのです。

キリストによる解放
 さて、このような癒しと解放の物語は、初代教会の礼拝の場で語り継がれていきました。だから、こうして聖書の中に記されているのです。何のために、これが礼拝の場で語られてきたと思いますか。単に「かつてイエス様はこのようなことをなさったのですよ」ということを伝えるためではありません。そうではなくて、キリスト者が礼拝しているイエス様とは、どのような御方であるかを伝えるために語り継がれてきたのです。そして、私たちのために十字架にかかられ、そして復活して、今も生きておられるキリストを伝える物語として、ここにいる私たちにも伝えられているのです。

 そのように、今日の私たちとの関わりにおいてこの物語を読みます時に、この場面はある特殊な状況における特別な出来事ではないということが見えてきます。あの汚れた霊に支配された人は、決して私たちとは無関係な特別な人間ではないのです。なぜなら、それを汚れた霊と呼ぶか、悪しき霊と呼ぶか、あるいは他の言葉で呼ぶかは別としまして、そのような見えざる力に振り回され、自分自身をコントロールすることが出来なくなってしまう悲しみは、ある意味で私たち人間が等しく抱える普遍的な経験であるからです。

 国と国、民族と民族の間における戦闘と殺戮の歴史の中に、私たち人間は汚れた霊の支配を実際に見てきたのではないでしょうか。あるいは身近なコミュニティーの中に、小さな家庭の中に、そして個人の心の中に、人間がどうすることもできない力が働くのを、私たちもまた経験してきたのではないでしょうか。人間の意志や知性によってはどうすることもできない支配力の猛威を、私たちは実際にいやというほど経験してきているのではないでしょうか。その意味で、今日の聖書箇所に描かれている一人の人物の姿は、私たちと決して無関係ではありません。

 しかし、そのような汚れた霊の支配の中に、キリストが入って来られた、というのがこの場面なのです。そして、福音書はその物語を伝えることによって、イエス・キリストが、今もその権威をもって、私たちの人生に入って来てくださることを語っているのです。

 イエス様が入って来られる時、そこには葛藤が起こります。今日の聖書箇所に書かれている通りです。キリストが権威ある御方として立った時、あの汚れた霊は叫んだのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と。

 イエス様が単なる律法学者の一人であったなら、そのようなことは起こらなかったのです。「ここに宗教的な良い教えがありますよ。生活に関する戒めの言葉がありますよ。それを守って生きましょう」というだけならば、大きな抵抗は起こらないのです。「聖書の言葉を実践しましょう」というだけのキリスト教ならば、そこに大きな葛藤は起こらないのです。しかし、キリストが権威をもって近づいて来る時、人間の内に激しい葛藤と抵抗が起こります。「ナザレのイエス、かまわないでくれ」という叫びが起こってくるのです。放っておいて欲しいのです。そのままでいたいのです。

 しかし、イエス様はそのような私たちに、あくまでも関わってこられるのです。そのような私たちであるからこそ、関わってこられるのです。なぜなら、それは人間の本来の姿ではないからです。汚れた霊に支配され、神に背いている人間の姿は、人間の本来の姿ではないからです。

 人間を汚れた霊から解放し、神の支配のもとに回復するのは、律法の権威ではありません。宗教的な戒めや道徳的な言葉が、人を解放するのではないのです。また、私たち人間の決意や意志の力が、私たち自身を解放するのではないのです。私たちを解放するのは今も生きておられるキリストです。私たちを憐れんでくださるキリストです。「この人は私のものだ。この人は私が血をもって贖った人だ。この人から出て行け」と私たちの側に立って汚れた霊に命じてくださるキリストなのです。

 キリストを信じて生きるとは、私たちの人生に入って来られ、私たちに徹底的に関わってくださるキリストの権威のもとに身を置き続けることなのです。そのようにして、キリストと共に生きていくことなのです。私たちがキリストによって招かれた者として、こうして毎週礼拝の場所に集まり続けるのは、その具体的な表現であり、同時に、今この時も、主が私たち一人ひとりに深く関わり、その命を注ぎ込んでくださっているという霊的な事実の顕れなのです。

 私たちは、単に道徳的な教えを学ぶためにここにいるのではありません。キリストの権威のもとに身を置き、キリストとの交わりの中に身を置くためにここにいるのです。この御方のもとに身を置き続けてこそ、汚れた霊から解放され、真の自由を得、神との正しい関係にある本来の人間の姿をもって生きていく道が開かれていくのです。

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