2026年2月1日 主日礼拝説教
聖書:マルコによる福音書 4:1-9
よく聞きなさい
「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」(1節)。
そこには「再び」と書かれています。前にも似たような場面があったことがわかります。実際、3章7節以下にこう書かれています。「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た」(3:7‐8)。
群衆が集まってきたのはイエスの「しておられる」ことを聞いたからでした。彼らはその力ある業、奇跡、病気の癒しなどを聞いて押し寄せてきたのです。「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった」(3:10)と書かれているとおりです。
そして、恐らくそこに押し寄せてきたのは病気の人だけではないでしょう。そこには病気の人を連れてきた人たちもいたはずですし、単純に神の癒しを見たいと思っていた人たちもいたに違いない。他の福音書を見ると、イエスの力を見て、この方を王にしようと思っていた人たちもいたようです。偉大なる王、政治的な解放者を求めていた人たちもいたことでしょう。
そのような人たちが、再びガリラヤ湖畔に集まってきた。それが今日お読みした場面です。様々な求めを持った人たちが押し寄せてきた。その時、イエス様は二つのことをされました。一つは、集まってきた群衆との間にある距離を置かれた、ということです。
主は前の時と同じように小舟を用意させました。3章に書かれているように、群衆に押しつぶされないようにというのがその理由の一つです。しかし、ここで強調されているのは、イエス様と群衆との間の距離です。「イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」。そのように、イエス様は押し寄せる人々の「求め」からある距離を置かれた上で、こう言われました。「よく聞きなさい」(3節)。そして、今日の箇所はこのようなイエス様の言葉で締めくくられています。「聞く耳のある者は聞きなさい」(9節)。
人々はイエス様にして欲しいことがたくさんあったに違いありません。言い換えるならばイエス様に聞いて欲しいことがたくさんあったということでしょう。他の人たちにしたように、私をも癒してください。ローマ人たちの支配から私たちを解放してください。私たちのためにその力を現してください。その願いを聞いて欲しかったことでしょう。しかし、イエス様はその多くの声から距離を置いて言われたのです。「よく聞きなさい」と。
そして、イエス様がなさったもう一つのこと、それはたとえで語る、ということです。今日お読みしたのは、この福音書に出て来る最初のたとえ話です。私たちが通常、たとえ話を用いるとしたら、それは伝えるべきことを分かりやすくするためです。しかし、イエス様の場合はそうではありません。今日は細かい話は割愛しますが、イエス様は、ある意味では、話を分かりにくくするために、たとえ話を用いているのです。
外に身を置いて、外から眺めるようにして聞いている限り分からない。それがイエス様のたとえ話です。誰か他の人にではなく、「このわたしに語られている言葉」として聞いて初めて分かる。自分に関わる話としてその中に身を置いてこそ初めて分かる。それがたとえ話です。イエス様はあえてそのような語り方を選ばれたのです。イエス様は人々の求めから距離を置いて「聞きなさい」と言われました。それは内に身を置いて、自分に語りかけられている言葉として、自分に関わることとして聞きなさい、ということなのです。
豊かな実り
そこで今日、特に耳を傾けたいのは、この「種を蒔く人」のたとえです。イエス様は「よく聞きなさい」と言って、「種を蒔く人」のたとえを語られます。明らかに、イエス様は御自分のなさっていることを「種蒔き」として語っておられるのです。
種は小さなものです。30節以下には「からし種」が出てきますが、それは砂粒ほどに小さいものです。地に落としたら砂粒と見分けがつかないかもしれない。しかし、砂粒と種とは違います。種には命がある。そして、蒔かれた時には何も起こっていないように見えますが、時が来れば芽生え育って、やがては実を結ぶようになる。それが種です。
イエス様のたとえ話においても、その命の現れが次のように表現されています。「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(8節)。そのような、実りをもたらす種をイエス様は蒔いておられたのです。それゆえに言われるのです。「よく聞きなさい」。
さて、このたとえ話が聖書の中に書かれているとはどういうことでしょう。イエス様のたとえ話を伝えた人たちがいたということです。福音書が書かれる前に、初期の教会が伝えたということです。人々はどこにおいてこれを物語り、伝えたのでしょう。その第一の場は皆が共に集まる「礼拝」なのです。讃美が捧げられ、聖書が読まれ、キリストの物語が伝えられ、パンが裂かれ、杯が分かち合われる礼拝です。まさにその礼拝の場において人々は繰り返し復活のキリストの「聞きなさい」という呼びかけを聞いてきたのです。そこにおいて御言葉の種が、救いの種が蒔かれてきたのです。
それは今も変わりません。私たちは様々な求めをもって集まっているのでしょう。しかし、そのような私たちに復活の主は言われるのです。「聞きなさい」と。そのように御言葉の種を蒔いておられるのです。そして、種は種のままで終わりません。種には命がありますから。種は芽生え育って実を結ぶのです。あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなるのです。そのようにして、神様にしかできないことを私たちの人生においてしてくださる。さらには永遠の御国において、神様にしかできないことをしてくださる。神様しか結ぶことのできない救いの実りを与えてくださるのです。
しかし、もう一方において、蒔かれた種が常に実るとは限らない。それも事実でしょう。ですから、イエス様は実った話の前に、実らなかった種の話をするのです。正確に言えば、それは種の問題ではなく、土地の問題です。すなわち、神様の側の問題ではなく、私たち人間の側の問題だということです。
イエス様は言われました。「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった」(4‐7節)。
さて、イエス様の話をどのように聞きますか。このような箇所が読まれると、「わたしは道端だ」とか「わたしは茨だらけの土地だ」とか言い出す人が必ず出てくるのです。しかし、「わたしは道端だ」とか「わたしは石地だ」とか「茨の地だ」と言って卑下したり、言い訳してみたり、あるいは開き直ってみたりすることに、何か意味があるのでしょうか。
イエス様がこのたとえ話をされたのは、明らかに「あなたは道端です」「あなたは石地です」と言って断罪するためではないのです。イエス様が一番語りたいのは、御自分の蒔いている種が「あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」という、そのような種なのだということなのです。
いや、それは本当は、百倍どころか、とてつもない価値ある救いをもたらす、そのような種なのです。イエス様は言葉で種を蒔くだけでなく、その存在をもって、その命をもって、自らが十字架で死なれることをもって、永遠の命の種を蒔いてくださったのです。そして、復活された主が今も御自分のかけられた十字架を指し示し、私たちに救いをもたらす種を蒔き続けていてくださいます。「聞きなさい」と言って。
ならば、道端であることは、とてつもなくもったいないことなのです。石地であることは、とてつもなくもったいないことなのです。茨がぼうぼうと茂ってしまっていることは、とてつもなくもったいないことなのです。初めから受け入れない固い心でいることは、もったいないことなのです。根を深く降ろすことを求めないことは、もったいないことなのです。世のことに思い煩い、富の誘惑やこの世の欲望を野放しにし、生やし放題生やして、種が育たないようにしているのは、実にもったいないことなのです。そうやってせっかく蒔かれた御言葉の種をないがしろにしていることは、実にもったいないことなのです。
「道端」とは人が通って踏み固められた、畑の中に出来た道のことです。ならば耕せばそこだって畑になるのです。石だらけの場所であっても、石を取り除けば良い畑になるのです。茨が生えてくるならば、何度でも刈り取って捨てたらよいのです。そのように、私たちが「良い土地」としての生活を形作るために、そのような礼拝の生活を形作るために、御言葉に聴く生活を形作るために、私たちができることはあるはずなのです。
私たちは実を実らせることはできません。それは神にしかできないことであり、神がしてくださることです。しかし、人には人のできることがあるのです。人は人の為し得ることをする。そして、神は神にしかできないことをしてくださるのです。「よく聞きなさい」と主は語り始められました。そして、こう締めくくられました。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。