2026年1月18日日曜日

「イエスとガリラヤの漁師たち」

2026/1/18 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 1:14-20

人々の期待、弟子たちの期待
 「ヨハネが捕らえられた!」そのニュースは多くの人々に大きなショックを与えたに違いありません。ユダヤの全地方から夥しい人々がヨハネのもとに訪れ、罪の赦しを求めて洗礼を受けていたのです。彼らの中には「この人こそメシアであるに違いない」と思っていた人もいたのです。あるいは旧約聖書に出て来るエリヤを思い起こしていた人がいたかもしれません。しかし、そのヨハネが正しいことを語ったがゆえに逮捕されてしまったのです。

 捕らえたのはヘロデ王でした。ヨハネがヘロデによって捕らえられ、やがて獄中で首をはねられて殺されるに至った次第は、この福音書の6章に記されています。ヨハネの逮捕は不当であることは、誰の目にも明らかでした。しかし、ヘロデの強大な権力の前にどうすることもできません。人々はただ嘆くことしかできませんでした。

 そのような時代のただ中にあって、ヨハネと入れ替わるかのように、あのナザレのイエスが声を上げたのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)。ヨハネを捕らえたヘロデの強大な権力を前にして、さらに言うならば、その背後にあるローマ皇帝の支配の真っただ中において、「神の国は近づいた」と宣言することが、当時の人々の耳にどれほど過激に聞こえたことか、想像してみてください。既存の王国のただ中で、もう一つの王国の到来が宣言されているのです。それは既存の王国の終わりを宣言するものと、人々の耳には響いたに違いないのです。

 人々はかつての洗礼者ヨハネの説教を思い起こしながら、あらためて期待に胸を膨らませたに違いありません。神の正義の支配が目に見える形で実現する!それはまさにあのダビデの王座の回復、イスラエルの王国の復興に他ならない。そして、あの男は「時は満ちた」と言っている。「良い知らせを信じろ」と言っているではないか!実際、この福音書を読んでいきますと、確かにそのような期待を抱いた集団が、なんと数千人の規模に膨れあがっていく様子が描かれているのです。

 しかも、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き…」(14節)と書かれていました。ヨハネの洗礼運動を引き継ぐのではなく、宣教活動の拠点をあえてガリラヤに移したのです。そのこともまた人々の熱狂に火をつけることとなったと思われます。というのも、ガリラヤは反ローマ武装勢力である熱心党の発祥の地であり拠点であったからです。後にイエスの弟子となる人々の中に「熱心党のシモン」と呼ばれた熱心党出身者がいたこともうなずけます。ガリラヤという、まさに反権力思想が息づいている地域において、あの方は声を上げたのです。「時は満ち、神の国は近づいた」と。

 そして、ナザレのイエスはガリラヤにおいて独自の活動集団を作り始めているのを人々は目にしたのでした。それは明らかに通常のラビの姿ではありませんでした。イエスは「わたしに従え」と言って声をかけ、自分に従う者の集団を形成し始めたのです。今日の朗読箇所に書かれていたようにです。

 イエスがまず目を留めたのは網を打っている漁師たちでした。シモンとその兄弟アンデレ。イエスは彼らに言います。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)。すると二人はすぐに網を捨てて従った。

 そして、同じことがゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも起こります。イエスは、網の手入れをしていた彼らにも呼び掛けました。言葉は書かれていませんが、同じことを言われたのでしょう。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。そして、「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(20節)。

 「神の国は近づいた」と語るこの男はメシアなのか。そうではないのか。その時点でまだ彼らには確かなことは言えなかったに違いありません。まだわからない。しかし、神の国の到来に向かって何かが起こっている。この人を中心に何かが起こっている。そのような期待に胸を膨らませながら彼らはついていったのです。

 そして、ついて行った人々が目にした数々の出来事は、彼らの期待を裏付けるように見えたはずなのです。というのも、彼らが見たのは奇跡の数々だったからです。このナザレのイエスはとてつもない力の持ち主であることが次第に明らかにされていきました。そこに現れていたのは神の権威だったのです。その人の権威ある言葉によって病は癒され、汚れた霊は大声をあげて出て行きます。今日は読みませんでしたが28節にはこう書かれています。「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」と。

主は十字架を経て再びガリラヤへ
 さて、そのように人々の期待が渦巻く中で、四人の漁師が一人の男についていったこの話は、二千年後にこれを読んでいる私たちにとって、何を意味するのでしょうか。マルコによる福音書の著者は、これを読んでいる私たちに何を伝えたいのでしょう。そのことを考えながら、もう一度今日の朗読箇所に耳を傾けてみましょう。

 最初に触れましたように、今日の朗読箇所は「ヨハネが捕らえられた後」という言葉から始まりました。実は、原文では「ヨハネが引き渡された後」と書かれているのです。この「引き渡される」という言葉はこの後に何度も出てきます。特に14章と15章に集中しています。そこにおいて「引き渡される」のは、イエス様です。14章と15章だけで10回もこの言葉が現れます。

 イエス様について人々やあの漁師たちが抱いていた期待については、既に述べました。しかし、マルコによる福音書が本当に伝えたいのは、「引き渡された」洗礼者ヨハネの後を追う形で、イエス様の公の宣教がスタートしたのだ、ということなのです。そして、やがてその御方が「引き渡される」ことになるのです。すなわち、人々の期待とは真逆の結末へと向かうキリストを、マルコは伝えようとしているのです。

 この福音書のちょうど真ん中あたり、8章において、ペトロがイエス様に「あなたはメシアです」とはっきり言い表している場面があります。それは弟子たちの共通した見解でした。しかし、そこでイエス様は自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められます。そして、聖書はこう伝えているのです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(8:31)。

 そして、事実イエス様はそのように歩まれ、やがて十字架にかけられることとなるのです。そこで弟子たちはどうしたでしょう。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14:50)と書かれています。ペトロについては、三回もイエスを否んだ話が別に伝えられています。あの日、期待をもってついていったペトロです。「あなたはメシアです」と語ったペトロです。

 しかし、だからこそ今日読まれた箇所において「イエスはガリラヤへ行き」と書かれていたことが大きな意味を持つのです。そして、他ならぬガリラヤにおいてペトロたちが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたことが意味を持つのです。というのも、あの時と同じようにイエス様は再びガリラヤに行かれることになるからです。ペトロたちはもう一度、このガリラヤに戻ってくることになるからです。

 十字架にかけられたキリストが復活した時、空になった墓において婦人たちはこのような言葉を聞いたのでした。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(16:7)。

 イエス様を見捨てたペトロたちです。もう弟子であるなどと言えない彼らでした。しかし、彼らのためにも十字架にかかられ復活されたキリストが、再び出会ってくださいました。そして、再び招いてくださいました。だからこそ、後の「使徒ペトロ」や「使徒ヨハネ」がいるのです。

 キリストに再びガリラヤでお会いした時、彼らは、あの初めの時のことをはっきりと思い出したに違いありません。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。その言葉は新たな力をもって彼らに迫ってきたことでしょう。そして、彼らはイエス様の招きの言葉を、後々まで語り伝えたに違いありません。だからこそ、その言葉がこうして記されているのです。

 ここまで来てようやく、福音書を読んでいる私たちもまた、弟子たちと同じところに立つことになります。ガリラヤにおいて彼らと出会い、彼らを赦し、彼らを再び招いた復活のキリストこそ、私たちを招いてくださったキリストだからです。復活された主が私たちにも「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言ってくださったのです。

 十字架と復活を経たキリストに招かれた者として聞くならば、「人間をとる漁師にしよう」という言葉の意味ははっきり見えてきます。それこそがキリストに招かれた者がなすべきことだからです。

 洗礼者ヨハネが捕らえられた時、人々はこの世の権力の悪なることを思ったことでしょう。だからこそ悪しき権力者の支配を覆してくれるメシアを待ち望んだのです。しかし、彼らが本当に戦わなくてはならなかった相手は、ヘロデでもローマ皇帝でもなかったのです。本当の敵はこの世の権力ではなくて、罪の力なのです。権力者のみならず全ての人を神から引き離し、がっちり捕らえている罪の支配なのです。人間にとって、本当の戦いは罪との戦いなのです。

 そこにおいて必要なことは、一人ひとりの人間が神に立ち帰り、罪の赦しを得て、神と共に生きる者となることなのです。そこにこそ罪の支配に代わるもう一つの支配が到来するのです。神の支配、神の国。そこでは、どうしても一人一人の「人間」に目が向けられなくてはなりません。一人一人の人間において生きる方向が変わらなくてはならないのです。それを悔い改めというのです。

 ならば、まことに愚かに見えるかもしれないけれど、一人一人の「人間」に対して、神の愛と赦し、神の招きを伝えていくしかないのです。だから「人間をとる漁師」と呼ばれているのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。その御言葉によって召され、集められ、この世に遣わされているのが教会なのです。

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