2026年3月29日日曜日

「十字架の上の救い主」

2026年3月29日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 15:21‐41

無力なメシア
 次聖日はイースターです。イースター前の一週間は「受難週」と呼ばれます。今週は特に十字架にかけられたキリストの御苦しみに思いを向ける一週間です。そのようなわけで、今日の礼拝においては、キリストが十字架にかけられた場面をお読みしたのです。

 しかし、改めてこの箇所をお読みしますと、十字架にかけられたイエス様御自身の苦しみがほとんど描かれていないことに気づかされます。かつてある伝道者が説教において十字架の場面を実に見事に生々しく再現するのを聞いたことがあります。ところが、マルコは、そのようなことには全く関心がないかのようです。ただ淡々と、「それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから」(24節)と書いて、むしろ私たちの視線を兵士たちの方に向けさせるのです。

 先ほど、「キリストの御苦しみに思いを向ける一週間」とは言いましたが、明らかにマルコは、イエス様の苦痛を細かく描き出して同情を呼び起こすことには全く関心がないようです。むしろまわりの人々が嘲ったり罵ったりする様を細かく描写するのです。罵っている人々の中には通りかかった人々がいます。祭司長たちも律法学者や長老たちもいます。また、一緒に十字架につけられた強盗たちも、その中にいます。

 まわりの人々の描写が詳しいのはなぜでしょう。それはこれを読んでいる私たちが、私たち自身をそこに見出すことができるように、ということなのです。

 それでは彼らの姿に目を向けてみましょう。まず通りかかりの人々がイエスを罵って言います。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」(29‐30節)。ここでわざわざ「そこを通りかかった人々は……」と書かれていることから、これがもともと主に敵対していた人々ではないということが分かります。

 ではなぜ罵ったのか。そこに「ユダヤ人の王」と罪状書きが掲げられていたからです。彼らにとって「ユダヤ人の王」と「神の子」「メシア」はほぼ同じ意味です。そして、「神の子」「ユダヤ人の王」「メシア」ならば、強くあって欲しいのです。異邦人を打ち倒し、解放して欲しいのです。多くのユダヤ人がそう願っていた。そして期待していた。しかし、現実にそこにいる「ユダヤ人の王」とやらは、十字架にかけられている王なのです。無力なメシアなのです。期待に応えられないメシアなのです。彼らは無力なメシアなどいらないのです。だから罵っているのです。

 一方、祭司長たちの侮辱の言葉は少々意味合いが違います。彼らが目にしているのは、彼らにとっては思い通りの結末だったのです。民衆を惑わして宗教的な権威に逆らうようなことをしたけれど、結局化けの皮がはがされたではないか。そのような心境だったに違いありません。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(31‐32節)。そうです。彼らは初めからイエスを信じてはいません。そして、イエスが十字架から降りられないことをもって、信じなかった自分の正しさがやっと実証されたという思いだったのです。要するに、彼らの罵りの言葉は自分の正しさの主張に他ならなかったのです。

 また、強盗たちもイエス様を罵っていました。彼らの言葉は記されていませんが、察しは付きます。彼らは現実に苦しみの極みにいるのです。そのすぐ隣りにはつい一週間ほど前まで人々からメシアであるとして騒がれていた男がいるのです。しかし、今は十字架にかけられているのです。本当に助けて欲しい時に何もすることのできないメシアが隣りにいるのです。そんなメシアがいったい何の役に立つか!それが彼らの思いであったに違いありません。

 そして3時になって、無力なメシアは大声で叫びます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(34節)。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると説明が加えられています。ここは様々に解釈されてきた部分ではありますが、まずは単純に文字通りに受け止めるべきなのでしょう。十字架から降りることができなかっただけではありません。神から見捨てられた者として叫び声を上げているのです。こんな言葉を耳にしたら人々は間違いなく確信することでしょう。「この男は絶対にメシアなどではない」と。

 しかし、不思議なことに、このイエス様の言葉を教会はそのまま伝えてきたのです。イエス様をメシアと信じることの妨げにしかならないような言葉をあえて伝えてきたのです。それはなぜなのでしょうか。

 イエス様が口にしたこの言葉は詩編22編に由来します。そこで詩人が「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩編22:2)と祈っています。そのように苦しみの極みにあるとき、神に向かって「なぜわたしをお見捨てになるのか」と叫ぶことは、ある意味では自然なことに思えるかもしれません。しかし、よくよく考えると、これは簡単には口にできない言葉であるとも言えます。もし私たちが苦しみの極みにおいて本気で神に向かって「なぜわたしをお見捨てになるのか」と問うならば、きっと自分の過去の罪が次々と思い起こされるのではないでしょうか。見捨てられても仕方のない理由が次々と思い起こされるのではないでしょうか。

 そのように本来は「なぜわたしをお見捨てになるのか」と神に訴えることができるのは、あのヨブのように、あるいは詩編22編のような人、見捨てられる理由に全く思い当たらない人、純粋に神に従って生きてきた人、真に正しい人だけなのでしょう。その意味では究極的にはこの祈りを口にすることのできるのは、父の御心に完全に従われた罪なきイエス様以外にはないだろうとも言えるのです。

 そのような理解をもって十字架の場面を見直しますと、見え方が違ってくるのです。そこで苦しんでいるのは、本来ならば見捨てられるはずのない方なのです。その御方が神に見捨てられた人として苦しんでいるのです。そして、そのまわりでは、真に神に従うことも知らない者たちが、本来ならば神に見捨てられても仕方ない者たちが、そのような自分であることさえ気付いていない者たちが、軽々しく神の名を口にしてイエスを嘲っているのです。

 ただひとり罪なき方が見捨てられた者となり、罪ある者たちが自分の正義を振りかざして叫んでいる。――それがこの場面です。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう!」お前の力を見せてみろ。そして私の願いを叶えてみろ。私を納得させてみろ、そうしたら信じてやろう! そう言って嘲っているのです。まさにそこに見るのは、この世の姿ではありませんか。そして、私たちは確かにその中の一人であるに違いないのです。

メシアが成し遂げてくださったこと
 しかし、本来見捨てられるはずのない方が見捨てられるということが神の御心として起こっているならば、そこには神の特別な目的があるはずなのです。聖書は何と言っているでしょうか。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(37‐38節)。

 1月の第2主日に、私たちはイエス・キリストがバプテスマを受けられたことを伝える箇所をお読みしました。そこには「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(10‐11節)と書かれていました。そして、その「天が裂けて」という言葉は、正確には「天が裂かれて」と書かれており、この福音書には裂かれたものがもう一つ出てくるのだ、ということをお話ししました。

 そのもう一つが今日の場面に出て来る「垂れ幕」なのです。その時にも申しましたように、この垂れ幕とは、聖所と至聖所を隔てる幕のことです。通常、人はその幕の奥に入ることはできませんでした。ただ年に一度大祭司だけが、入ることを許されておりました。しかも、罪を贖う犠牲の血を携えることなくして、幕の奥の至聖所に入ることはできなかったのです。

 そのように、罪の贖いの血が流されなければ、垂れ幕の奥には入れない。それは、神と人間との関係を象徴的に表しているとも言えます。贖いの血が流されない限り、人間は神に近づくことができないのです。神は聖なる御方です。そして、人間には罪があります。罪ある人間は、そのままで神に近づくことはできないのです。

 しかし、その垂れ幕が真っ二つに裂けたのです。「裂けた」と書かれていますが、正確には「裂かれた」と書かれております。誰が裂いたのか。神が引き裂いたのです。そのように、あの瞬間、キリストが息絶えた瞬間、神御自身が垂れ幕を引き裂いた。なぜでしょう。もはや神に近づくために、罪の贖いが繰り返される必要はなくなったからです。この地上において最後の犠牲が屠られたからです。罪を完全に贖うまことの犠牲が屠られたからです。

 ただひとり罪なき方が見捨てられた者となり、罪ある者たちが自分の正義を振りかざして叫んでいる。――それがこの場面だと先ほど申しました。そこに見るのは、まさにこの世の姿だと。そうです。実際、そこに描き出されている人間の姿は、二千年後の今でも全く変わりません。しかし、神は人間がそのようなものであることを承知の上で、罪に満ちたこの世界のただ中にキリストを送られたのです。そして、キリストを罪の贖いの犠牲とし、神と人とを隔てる垂れ幕を神自らが引き裂いた。神御自身が、神のもとへと近づく道を開かれたのです。人が神と共に生きる道を開かれたのです。

 皆さん、この世界のただ中に礼拝の場が開かれていて、週毎に私たちが礼拝へと招かれているとは、そういうことなのです。私たちが当たり前のように賛美を歌い、イエス・キリストの御名によって祈ることができるとは、そういうことなのです。これが、十字架にかけられた救い主のゆえにあずかっている、特別な恵みであることを、この一週間深く思い巡らしたいと思うのです。

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