2026年3月15日日曜日

「十字架の向こうに輝く栄光」

2026年3月15日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 9:2-10

人の子が死者の中から復活するまでは
 今日の聖書箇所が伝えているのは、イエス様の姿が変わったという話です。それを見たのは弟子たちの内、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人でした。それが起こったのは高い山の上でした。どこの山かは書かれていません。いずれにせよ高い山の上というのは非日常的な空間です。ここに書かれているのは、いわば非日常的な空間において三人の弟子たちだけが体験した、いわゆる神秘体験の話です。

 ここで興味深いのは、そのような特別な体験をした弟子たちに対して、イエス様があえて口止めをなさったということです。こう書かれていました。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた」(9節)。

 いや、絶対にしゃべりたくなるでしょう。特に、山の下にいた九人には。いつも「誰が一番偉いか」を争っている弟子たちです。この体験は三人の優位を決定的にする出来事であるに違いありません。しかし、だからこそなおさらイエス様は戒められたのだと思います。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と。

 特別な体験にせよ何にせよ、神が与えてくださったのならば、それは人間が誇るためでも優位に立つためでもありません。それをもって他者に仕えるためです。全体の益となるためです。そこには神の意図があり目的があるのです。しかし、その意図と目的は、往々にして、その時には分からないものなのです。ペトロとヤコブとヨハネは「その時」を待たねばなりませんでした。だからこそ、「人の子が死者の中から復活するまでは」と主は言われたのです。

 人の子、すなわちイエス様が復活するまでは神の意図はわからないのです。言い換えるならば、彼らが山の上で見たこと聞いたことは、キリストの十字架と復活を経て、初めて意味が分かるのだ、ということです。そして、実際彼らは十字架と復活を通して、その意味を知るに至ったのです。それゆえに語り出した。口止めされていた出来事が、こうして公然と語られているとはそういうことでしょう。

 そして、先にも触れましたように、彼らに与えられた特別な体験は、他の弟子たちのためでもあり、さらに言えば、後々の教会のためでもあったのです。二千年後の私たちのためでもあったのです。ですからこうして聖書に記されて、私たちにまで伝えられているのです。では、この出来事は何のために私たちに伝えられているのでしょうか。それをこれから一緒に見ていきたいと思います。

十字架へと向かっておられたキリスト
 「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」(2‐4節)。それがこの三人の目にしたことでした。

 彼らがその時には分からなくて、後になって分かったことがあります。彼らと一緒に高い山に登られたイエス様は、この時既に一歩一歩十字架へと向かって進んでいたのだということです。「人の子が死者の中から復活するまでは」と主は言われました。復活の前には十字架があるのです。彼らは確かに、やがてイエス様が捕らえられ、鞭打たれ、ボロボロにされて十字架にかけられるのを目にすることになるのです。

 だからこそ神は、エリヤとモーセがイエスと共にいる姿を見せてくださったのです。エリヤとモーセは旧約聖書における代表的な人物です。モーセは律法を代表しており、エリヤは預言者を代表しています。つまりこの二人がイエス様と共にいるということは、いわば旧約聖書そのものがイエス様と共にいるということです。それは何を意味しているでしょう。イエス・キリストに起こる出来事は、特にキリストの受ける苦難、十字架におけるキリストの死は、旧約聖書が既に語っていたことの成就だということです。旧約の成就だということは、言い換えるならば、それは神のご計画と御心によって起こったことだ、ということです。

 神の御心による苦難なら、そこには神の目的がある。ならば、それは苦難で終わらない。死では終わらない。その先があるのです。主はそれを「復活」と呼ばれました。苦難の向こうに神の栄光の完全な現れがあるのです。それを神は前もって三人に垣間見せてくださったのです。ちょうど雨雲の隙間から太陽の光が差し込むように、復活の光がイエス様の御生涯の一こまに差し込むのを彼らは見せていただいたのです。

これに聞け
 そして、それは彼らにとってどうしても必要なことでした。なぜなら、彼らは《十字架へと向かうキリスト》に従っていくことになるからです。イエス様は栄光に輝く姿で、非日常的な高い山の上にいつまでも留まられる御方ではありません。モーセもエリヤも天に属する存在なのであって、山の上にそのまま留まる存在ではありません。モーセもエリヤも、そしてイエス様も、留まるための仮小屋など必要ありません。

 にもかかわらず、「仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」とペトロは言い出したのです。もっともそこには、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」とも書かれています。ペトロは、混乱した頭の中でも、ペトロなりに最善のことをしたいと思ったのでしょう。しかし、神の望んでおられたのは、全く別なことでした。「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け』」。

 求められているのは「聞くこと」でした。非日常の山の上に仮小屋を作るようなことではなくて、山の下の「日常」を生きるために、神の子の声を「聞くこと」でした。そして、それは当然、「聞き従う」ことをも意味します。イエス様に聞き従うとはどういうことでしょうか。実はペトロたちは既に聞いていたのです。主は言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8:34)。それがイエスに聞き従うということです。

 その意味で、ペトロたちが見たこと聞いたことは、ただ彼らだけのためではなかったのです。他の弟子たちのためでもあり、イエス様の後に従いたいと思うすべての人のためだったのです。神は言われるのです。「これに聞け」と。

 父なる神はイエス様を指して「これはわたしの愛する子」と呼ばれます。しかし、その「愛する子」は神の子でありながら、天にも神秘の山にも留まってはおられないのです。その「愛する子」は山の下にある、罪深い人間世界へと向かわれるのです。罪に満ちたこの世界において、父なる神を愛し、人を愛するゆえに、自らの十字架を背負うことになるのです。そして、自ら背負われた十字架にかかられることになるのです。その御方が言われるのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

自分の十字架を背負って
 十字架刑に処せられる者が重い十字架を一生懸命背負ったとしても、それで誰から感謝されるわけでもありません。称賛されるわけでもありません。「十字架を背負う」とはそういうことです。報いとは全く縁のない労苦です。充実感や達成感などとは縁のない労苦です。そのような十字架を背負ってわたしに従えとイエス様は言われるのです。そして、天の父も「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われるのです。

 その意味において、信仰の道は険しい。主の言葉は厳しい。そう思います。しかし、先週も触れましたように、このイエス様の言葉は私たちに対する深い信頼の表現でもあるのです。主は、いつ背くか分からないような私たちを、それでもなお信じて招いてくださるのです。人からの報いとは縁のない労苦であっても、それを背負って最後まで従い続けてくると、主は信頼して、こうして繰り返し招いていてくださるのです。

 そしてまた、イエス様が「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言ってくださること自体、本当はとてもありがたいことなのです。それは少しでも現実的になれば分かります。私たちの労苦は常に報われますか。私たちの苦しみや重荷にいつでも意味を見いだせますか。そうではないでしょう。愛の労苦は常に報われますか。他者のための労苦は、その労苦自体がいつも実を結びますか。そうではないでしょう。この世においては報われない重荷、意味の分からない重荷、賞賛とは結び着かない重荷の方が圧倒的に多いに違いないのです。

 しかし、そのような私たちにイエス様は言われるのです。――先に十字架を負われ、そして、先に復活された御方はこう言われるのです。「あなたはあなたの十字架を背負ってわたしについて来なさい。報われない労苦をいっぱい背負ってついて来なさい。わけの分からない重荷を背負っていたとしても、安心してわたしの後について来きなさい」と。そうです。私たちはいかなる意味においても、報われない労苦を嘆く必要はないのです。誰かを呪う必要も、不平を言いながら生きる必要もないのです。ただイエス様の後に従っていったら良いのです。天の父も言われるのですから。「これはわたしの愛する子、これに聞け」と。

 そして、天の父はそう言われるだけでなく、その十字架の先に輝く栄光の姿を見せてくださったのです。それはあの弟子たちにとって必要なことでした。山から下っていくために必要なことでした。主に従って山の下の世界に生きるために必要なことでした。この世においてキリストに従っていく時に苦しみがあり試練があったとしても、押しつぶされてしまわないために必要なことでした。だから彼らは人の子が復活した後に力強く語り出したのです。私たちは既にあの山の上でその栄光を見せていただいていたのだ、と。

 そのように語り伝えて、語り伝えられた人がまた語り伝えて、ここにいる私たちにも伝えられています。十字架の先に輝く栄光のキリストを指し示して、天の父は私たちにも言われます。「これはわたしの愛する子。これに聞け」と。私たちもまた週毎にキリストの復活を思い、そしてその御言葉に耳を傾け、御言葉に従って歩んでまいりましょう。

以前の記事