2026年3月8日日曜日

「サタン、引き下がれ」

2026年3月8日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 8:27‐33

あなたはメシアです
 今日はマルコによる福音書の8章をお読みしました。この章の始めには、四千人の人々にイエス様がパンを与えるという奇跡物語が出ています。6章にも似たような出来事が書かれていますが、そこでは男だけ数えても五千人であったと伝えられています。このような記録は、イエス様と弟子たちを取り巻く人の群れがいかに巨大化していたかを物語っています。すなわちイエス様の宣教活動は急速に拡大していたということです。それが今日読まれた聖書箇所の背景です。

 そのように宣教の働きが拡大していく時に、群衆の意識を正確に把握することは極めて重要な課題となります。事実、弟子たちは群衆の意識を正確に捉えていました。イエス様が「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問われた時、彼らはすぐに答えることができたのです。リサーチは行き届いていました。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」(8:28)。これが現時点での群衆の意識ですよ、と。

 するとイエス様は弟子たちに問われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが代表して答えました。「あなたはメシアです」。このペトロの答えには、はっきりとした自負が感じられます。私たちはあの群衆とは違います、という自負です。「『預言者の一人だ』などと言っている人々とは違います!」自分たちにはもう分かっています。この方こそメシアだ!我々が待ち望んできた救い主だ!つまり弟子たちにとっては、群衆はいまだ知るべきことを知らない連中なのであって、これからまだ真理を教えられなくてはならない人々なのです。

 人々はまだまだ教えられなくてはならない。そのようにして神の国の運動は拡大していかなくてはならない。――弟子たちは、そのための労苦ならば、いくらでも引き受けるつもりでいたに違いありません。実際、イエス様と共に旅をする宣教活動は、多くの労苦を伴うものであったはずです。押し寄せてくる群衆に対応するだけでも大変な労働です。3章には「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」(3:20)と書かれています。そのようなことは決して珍しくはなかったのでしょう。

 もちろん、そこに弟子たちの野心があったことは否めません。いつでも「誰が一番偉いか」と言い争っていた彼らですから。しかし、基本的には、その労苦というものは、神の国の実現のためだったのです。自分のためと言うよりは、人々の救いのための労苦だったのです。そのための労苦ならば、いくらでも引き受けるつもりでいたのです。そのような思いを込めて、「あなたはメシアです」と口にしたペトロだったのです。

叱られたペトロ
 しかし、弟子たちを代表するペトロの信仰告白に対するイエス様の反応は、極めて意外なものでした。せっかくペトロも弟子たちも「あなたは、メシアだ」と言っているのに、当のイエス様は「そのことを人々に宣べ伝えなさい」とは言いません。御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められたのです。いやそれだけではありません。さらにこう書かれているのです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(31節)。

 ユダヤの当局から目を付けられていることは弟子たちだって分かっています。だから行く手には困難が待ち受けていることも分かっている。しかし、それでもなおメシアの王国は実現すると信じているから、従おうとしているのです。それなのに、そのメシアであるはずのイエス様が、「自分は殺される」と言い出したのです。それはつまり、弟子たちの労苦もまたすべて無に帰するということを意味します。どんなに運動が拡大し、どれほど多くの人々がイエス様について行ったとしても、そのすべてが無に帰してしまう。イエス様が死んでしまうとはそういうことでしょう。

 「冗談じゃない!」ペトロは心底そう思ったに違いありません。私利私欲のために労苦が、すべて無に帰したとしても、それはそれである程度諦めもつきます。しかし、これが他者のための労苦であったらどうでしょう。人々の救いのための労苦であったらどうでしょう。愛の労苦であったらどうでしょう。それが無に帰するなんて、冗談じゃない! 

 こんなことを聞いたなら、もう黙ってはいられない。ペトロはイエス様をわきへ引き寄せていさめ始めました。しかし、そんなペトロをイエス様は叱りつけて言ったのです。「サタン。引き下がれ」と。これを単にペトロの背後にいるサタンに言った言葉と思ってはなりません。聖書ははっきりと「ペトロを叱って言われた」と言っているのです。

何が問題だったのか
 いったい何が問題だったのでしょう。イエス様はペトロを叱った後に、こう続けられました。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と。ペトロは神のことを思っていなかったというのです。

 確かに人々のために働くことも、愛のために労苦することも、それは神のことを思わずともできることです。四千人の人々、五千人の人々の間を駆けめぐりながら、パンを渡していくのは重労働でしょう。しかし、そのこともまた、人間のことだけを考えていてもできるのです。

 しかし、イエス様の後についていくことは、神のことを思わなければできないのです。それはなぜか。もう一度、イエス様が何を言われたか思い起こしてみましょう。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(31節)。

  実はここで決定的に重要なのは、「三日の後に復活することになっている」という言葉です。「復活する」と能動的に書かれていますが、復活は父なる神によるのです。(ですから、マタイによる福音書、ルカによる福音書では「復活させられる」と文法的にも受け身で表現されているのです。)

 イエス様が死んでしまってすべてが無に帰した時、父なる神によって復活させられるのです。その時、無に帰したかのように見えたイエス様の御業のすべてが、父なる神によって生きるのです。十字架の死でさえも生きるのです。単に「苦労が実を結ぶ」のではないのです。死んだものを、無に帰したものを、《神が》生かしてくださるのです。御子は、そのような父なる神に信頼して、また信頼するからこそ、十字架への道を歩まれたのです。

 弟子たちは、そのようなイエス様の後に従っていくのです。その歩みをイエス様は「自分の十字架を背負って従う」と表現しました。今日の聖書箇所の直後に書かれています。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

 百キロのパンを背負って人々に配るなら、その労苦は人々の感謝と笑顔によって報われることでしょう。しかし、十字架刑に処せられる者が百キロの十字架を一生懸命背負ったとしても、それで誰から感謝されるわけでもありません。十字架を背負うという労苦は、報いとは縁のない労苦です。充実感や達成感などとは縁のない労苦です。そのような十字架を背負って、わたしに従いなさいと主は言われるのです。

 当然のことながら、それは神のことを思わず、人間のことだけを思っていてはできないことなのです。人間から来る報い、人間の内から生じる喜びや充実感や達成感だけを思っていてはできないことなのです。神を思い、イエス様の復活、そして私たち自身の復活を思わなくてはできないことなのです。他ならぬ神が報いてくださること、神が生かしてくださることを信じなくてはできないのです。

わたしの後ろに回れ
 そのようにイエス様は、人間のことではなく、神のことを思って、自分の十字架を背負って、わたしに従え、と招いておられるのです。厳しい言葉ですか。いいえ、そうではありません。これは弟子たちに対する、そして私たちに対する、驚くべき信頼なのです。

 今日の説教題は「サタン、引き下がれ」となっています。しかし、原文には「わたしの後ろに」という言葉があるのです。これは「どこかへ行ってしまえ」と言っているのではなく、「わたしの後ろに退け」と言っているのです。さらには「サタン、わたしの後ろに回れ」とも訳し得る言葉なのです。

 しかし、そう考えますと、これは実に奇妙な表現だとも言えるのです。「サタン」という言葉は、もともとヘブライ語では「敵」という意味の言葉です。本当に「敵」ならば後ろに回らせてはならないのです。そんなことをすれば命とりになるからです。しかし、「サタン、敵」と呼んだペトロを、イエス様はあくまでも後ろに回らせます。そして、ペトロに、弟子たちに、さらにはそこにいる群衆に対しても、こう言われるのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 神のことを思わず、人間のことしか思わなければ、手のひらを返したように「十字架につけろ」と叫び出す群衆なのでしょう。イエス様を見捨てて逃げ出して見殺しにする弟子たちなんでしょう。「そんな人は知らない」と三度もイエス様を否むことになるペトロなのでしょう。いや、聖書が人間を罪人として語る時、それは本質的に神に、キリストに、敵対する者であることを意味しているのです。確かに「サタン」と呼ばれても否定できない私たちではありませんか。にもかかわらず、イエス様は呼び掛けてくださるのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

 変な言い方ですが、私たちを後ろに回すことって、私たちを従うように招くことって、イエス様にとって、とてもリスキーなことなんじゃないかと改めて思うのです。私たちを教会としてこの地上に存在させることって、とてもリスキーなことではないだろうか。どんな形でキリストに敵対するか、わからない。実際、そうしてきた教会の歴史もあるわけです。

 しかし、それでもなお主は招いてくださるのです。私たちが、人間のことではなく神のことを思って従ってくると信じて招いてくださるのです。人からの報いとは縁のない労苦であっても、それを背負って最後まで従い続けてくると、主は信頼して、こうして繰り返し招いていてくださるのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。ここからまた、共に主の呼び声に従ってまいりましょう。

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