2026年4月5日 イースター礼拝説教
聖書:マルコによる福音書 16:1‐8
絶望した人々
今年のイースターにおいては、マルコによる福音書16章が読まれました。キリストの復活を伝える聖書箇所です。しかし、私たちはまずその直前、15章の最後に書かれていることに目を向けておきたいと思います。「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」(15:46‐47)。
そこには今日の聖書箇所と関係する人々が出てきます。まずはヨセフです。彼はイエス様の葬られたあの墓の持ち主です。彼は最高法院の議員でした。イエス様に有罪判決を下し死刑を言い渡したあの最高法院の一員です。しかし、イエス様を手厚く葬ったこの男は、明らかにイエス様に対して好意的です。彼には、このイエスという人物が、死罪に当たるとはどうしても思えなかったに違いありません。真夜中に行われた異常な裁判による判決は、どう見ても正当ではないと思っていたことでしょう。
しかし、彼はイエスを守れなかったのです。彼の属する最高法院の決定により、宗教的な正義の名のもとに、イエスは処刑されて死んでしまいました。ヨセフは、せめてイエスをきちんと墓に葬りたいと思った。ですから自分の墓を提供したのです。しかし、遺体を墓に納めたところで、何が変わるわけでもありません。事態を変え得なかった自分の無力さ、正義の名のもとに犯してしまった大きな大きな罪。それは動かしがたい事実なのであって、もはや何も変わらないのです。すべては終わったのです。
そして、またそこには婦人たちが出てきます。マグダラのマリアとヨセの母マリア。イエス様を愛し、慕っていた婦人たちです。しかし、彼らもイエス様を守ることはできませんでした。十字架につけられ苦しんでいるイエス様に対しても、ただ見つめていることしかできませんでした。彼らの目の前で、イエス様は息を引き取りました。「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」と書かれています。彼らはいつまでもいつまでも見つめていたことでしょう。しかし、それで何が変わるわけではありません。すべては終わったのです。
私たちは、その場面に登場しない人々のことにも思いを馳せるべきでしょう。イエスの弟子たちです。彼らはこの前後にまったく現れません。イエス様を見捨てて逃げてしまったからです。「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロ。しかし、実際には、鶏が二度鳴く前に三度イエス様を知らないと否んでしまったペトロ。彼はイエス様が葬られた後の安息日を、どんな思いで過ごしていたのでしょう。見捨てられることによる絶望というものがあります。しかし、誰かを見捨ててしまったという自責の念における絶望は、より深いとも言えます。自分を責めたところで、もはや何も変わりません。すべては終わったのです。
イエス様は死んでしまって、墓に葬られました。その入り口は石でふさがれました。その石は大きかったと記されています。あの婦人たちが見つめていた墓の入り口にある大きな石、動かし難い大きな石。それはヨセフや婦人たちやあの弟子たちの絶望の大きさを象徴しているように思えてなりません。彼らの心の中には、あの墓の石よりも、もっともっと大きな動かし難い絶望という石があったのです。
しかし、そこに本日お読みしたあの聖書の言葉が続きます。そこにはこう書かれているのです。「ところが、目を上げて見ると、石はすでにわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである」(4節)。三日目の朝、あの日曜日の朝、あの婦人たちはイエス様の遺体に油を塗りに墓に行きました。彼らは「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。しかし、「目を上げて見ると、石はすでにわきへ転がしてあった」と書かれています。だれが転がしてくれたのでしょう。神様です。
いや、転がされたのは石だけではありません。その石が象徴していた死の現実、絶望そのものが転がされたのです。彼女たちは、墓の中にいた若者から、こんな言葉を聞くのす。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(6節)。
神がおられないならば、絶望は絶望でしかありません。死人は永遠に死人でしかありません。人間にはどうすることもできないのですから。しかし、あの時、あの女性たちは、絶望をひっくり返して、転がして、押し流してしまうほどの、圧倒的な神のリアリティに触れたのです。それがあの日に起こった出来事であり、教会が「キリストの復活」として二千年もの長きに渡って宣べ伝えてきた出来事なのです。そして、私たちがよく知るように、絶望が転がされたあの墓から始まったことが、まるで絶望を押し流す洪水のように流れくだって、後の歴史を大きく動かしてきたのです。だから、遠く離れた日本にもこうして教会があり、二千年の後にも、こうして復活祭を祝っているのです。
恐れから喜びへ
しかし、今、「祝っている」と申しましたが、あの日、あの時、あの出来事は、あの婦人たちに、単純に喜びをもたらしはしませんでした。今日の聖書箇所にはこう書かれているのです。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)。実はもともとマルコによる福音書は、この言葉で終わっていたのです。そして、彼女たちが「恐れた」ということ自体、大きな意味を持っているのです。
人は観念としての神を恐れることはありません。哲学者の神を恐れることはありません。神は存在するか否かという議論の対象となるような、そんな神を恐れることはないのです。単なるご利益祈願の対象である神を恐れることはありません。
しかし、人が生けるまことの神を意識し始めるならば、それが本当に神であるならば、そこで人は恐れを抱かざるを得なくなるのです。なぜなら、聖書が語るように、「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」(ヘブライ4:13)からです。人はごまかせても、神をごまかすことはできない。人の前では繕えようとも、神の前では取り繕うことはできない。それが本当に神ならば、人間は、その御前でどう生きてきたのか、どう生きているのかが問われることになる。ならば、恐れざるを得ないでしょう。
神がおられなければ絶望は絶望でしかない。死人は永遠に死人でしかないのです。しかし、その現実を覆すまことの神がおられるなら、人間は恐れざるを得ないのです。その事実を聖書は正直に言い表しているのです。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。
これが本来のマルコによる福音書の最後の言葉だと先ほど申しました。でも、変だと思いませんか。本当に「だれにも何も言わなかった」ということが結論なら、この出来事を私たちが今読んでいるのは変でしょう。――結局、彼女たちは語りだしたんです。あの日の出来事を宣べ伝えたのです。どうしてか。恐れは、恐れのままに終わらなかったからです。
確かに、彼女たちは、まことの神のリアリティに触れたのです。その神の御前においては、一切のごまかしもきかない――そのようなまことの神に触れたのです。だから彼女たちは震え上がった。しかし、その神はイエス・キリストを世に遣わされた神でもあるのです。この世の罪をあがなうために、人間の罪を赦すためにキリストを十字架につけられた神でもあるのです。
私たちはキリストの復活後、人類に対して最初に与えられたメッセージにもう一度耳を傾けたいと思うのです。キリストの復活を告げたあの若者はいったい何と言っているでしょうか。彼は、こう語ったのです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(6節)。
ここで大切なことは、ただ単に「死んでしまったイエスが復活させられた」と告げられているのではない、ということです。「十字架につけられたナザレのイエスが復活させられた」と告げられているのです。ナザレのイエスが十字架につけられたのは誰のためですか。私たちのためです。私たちの罪が赦されるために、罪の贖いの犠牲となってくださったのです。そのキリストを神は復活させられたのです。
先ほど、あの時、あの女性たちは、絶望をひっくり返して、転がして、押し流してしまうほどの、圧倒的な神のリアリティに触れたのです」と申しました。しかし、正確にいうならば、彼女たちが目にし、触れていたのは、「圧倒的な恵みの神のリアリティ」だったのです。だから、恐れは恐れで終わらなかった。彼女たちは語りだしたのです。
そして、さらにあの若者が告げた恵みに満ちた言葉は、恐れのゆえに沈黙したあの女性たちを、後に弟子たちのもとへと向かわせることになったのです。彼はこう続けたのでした。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(7節)。――まさに、これこそ神の恵みではないですか。
確かに弟子たちはイエス様を見捨てて逃げました。ここでことさらに「弟子たちとペトロに告げなさい」と言われています。確かにペトロはイエス様を三度も否みました。その事実そのものは変わりません。しかし、恵みの神のリアリティは、溢れ流れて、絶望の石をひっくり返して、彼らのところにも及ぶのです。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」。
ガリラヤとは、彼らが初めてイエス様に出会ったあの場所です。「わたしに従え」と言われた、あの場所です。あの場所に戻って、彼らはもう一度、招きの言葉を聞くのです。絶望をもたらした過去の事実は変わらない。しかし、その絶望を転がされた者として、彼らはキリストに従って、キリストと共に生きて行くのです。キリストの復活が伝えられているのだから。
そして、それはあの弟子たちだけの話ではありません。過去の事実は変わりません。しかし、人は絶望を転がされた者として、キリストと共に生きていくことはできるのです。私たちにも、時を経て、キリストの復活が伝えられているからです。あの墓から始まった大きな流れは、ここにまで及んでいるからです。