マルコによる福音書 6:1-13
ナザレでの宣教
かつてイエス様がカファルナウムにおられたとき、イエスの母マリアと兄弟たちがイエスを取り押さえて連れ戻しに来たということがありました。事の次第はこの福音書の3章に書かれています。30キロも離れたナザレからわざわざ連れ戻しにきたのです。「あの男は気が変になっている」と言われていたからです。だから、面倒なことになる前に、故郷に連れ戻そうと思ったのです。しかし、母マリアと兄弟たちが連れに来た時、イエス様は全く取り合いませんでした。彼らと一緒にナザレに帰る気など、さらさらなかったのです。
ところが、そんなイエス様が、なんと自ら進んで故郷のナザレに帰ってきた。それが今日お読みした場面です。もちろんマリアや兄弟たちが望んでいたように、ナザレで元の生活に戻るためではありません。帰って来られたのは、あくまでも宣教のためでした。ナザレだけではありません。故郷の付近の村々を巡り歩いて、福音を伝えるつもりでいたのです。いや、イエス様御自身だけでなく、7節以下に書かれているように、周辺の村々に弟子たちを遣わして宣教するつもりでいたのです。
さて、安息日になりますと、主はナザレの会堂で教え始められました。人々の反応は、カファルナウムの時と同じでした。人々は驚いたのです。彼らは驚いてこう言いました。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」(2節)。
この言葉だけを聞くならば、彼らの驚きは概ね肯定的なものであったと想像できるでしょう。しかし、事実は異なりました。彼らの反応は極めて否定的なものだったのです。「このように、人々はイエスにつまずいた」(3節)と書かれているとおりです。知恵に驚こうが、その力に驚こうが、結局彼らはイエスにつまずいたのです。
なぜイエス様の語られる「知恵」に驚きながらも、それを受け入れることができなかったのでしょうか。それは彼らがこれまで既に慣れ親しんできた宗教的な「知恵」があったからです。過去から受け継いできた、宗教的コミュニティが受け継いできた「知恵」があったからです。その彼らの受け継いできた「知恵」からすれば、イエスの「知恵」はあまりにも異質だったのです。
また、彼らは確かに「その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」と言って驚きました。しかし、それを受け入れることはありませんでした。なぜでしょう。そこには「奇跡」とは馴染みのない、彼らの慣れ親しんできた宗教的な生活があったからです。神が神であられるならば、神にしか為し得ないことを神はなさいます。人はそれを奇跡と呼ぶのです。しかし、そのような神の御業を求めることもない、期待することもない。それが彼らの宗教的な生活だったのです。
もちろん、彼らは宗教的ではあったのです。それはナザレという小さな村の共同体での話です。そこでは誰もが生まれて八日目に宗教的な儀式として割礼を受けるのです。幼い時から律法を学び、先祖からの言い伝えを大切にし、それぞれが宗教的な戒律を守って信心深い共同体を形づくっていたのです。しかし、そこにイエス様が帰って来られた時、イエスという存在はあまりにも異質だったのです。
いや、彼らの慣れ親しんだ宗教的な生活が妨げになっただけではありません。決定的な妨げになったのは、彼らが既に持っていたイエス理解でした。彼らは言うのです。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(3節)。
「大工ではないか」という言葉そのものには軽蔑的なニュアンスはありません。ここで「大工」と言われているのは家を建てる仕事ではなく、農具や家具を作る仕事です。卑しめられるような仕事ではありません。また、「ヨセフの息子」ではなく「マリアの息子」と呼ばれているのは、ヨセフが既に他界していたからなのでしょう。恐らくイエス様はヨセフが亡くなった後、母と弟や妹たちのために、大工として一生懸命働いて生計を支えてきたのです。
「この人は、大工ではないか」。そうです、目の前にいるイエス様が、彼らの良く知っている大工イエスの延長線上にいたならば、彼らはつまずかなかったのです。「マリアの息子ではないか」。そうです。もし、そこにいるのが、彼らの良く知っているマリアの孝行息子だったならば、彼らはつまずかなかったのです。そこにいるのが、ただ評判の良い人、尊敬すべき人、人格的にすぐれた人、偉大な人、立派な人、模範的な人、善良な一ユダヤ人という枠内に収まっていれば、彼らはつまずかなかったのです。しかし、そうではありませんでした。その言葉にせよ、なさることにせよ、イエス様は異質な存在だったのです。それゆえに、「人々はイエスにつまずいた」と書かれているのです。
宣教を続けるイエス
しかし、それはある意味では起こるべくして起こったことだとも言えます。なぜなら、「宣教」とは、異質なものを持って来ることに他ならないからです。イエス様の宣教はこの福音書の1章において次のように要約されていました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)。「時は満ちた」と主は言われるのです。つまり全く新しいことが始まるということです。キリストが来られたとはそういうことです。そのキリストが「神の国は近づいた」と宣言されたのです。
「神の国は近づいた」。その「国」が意味するのは領土ではありません。王としての支配です。神が王として来られるのです。救いをもたらす王として来られるのです。「神の国は近づいた」。ならば、そこでは決定的に新しいことが始まるのです。人間が人間に対して行う水平の次元のことではなく、神が人間に対して行う垂直の次元のことが起こるのです。いや、それはメシア・キリストが到来したことによって、既に始まっているのです。その宣言こそが、キリストの宣教でした。「神の国は近づいた」と主は言われるのです。
ならば、必然的にキリストの宣教は、この世にとっては異質なものとならざるを得ないのです。宗教的なコミュニティでさえ、人間が人間に対して行う水平の次元のことにしか目が向かないことが起こり得ます。世俗的な社会ならなおさらでしょう。水平の次元のことで人生が決まり、水平の次元のことで歴史は動いているとしか見えない。この世の力と金勘定ですべては決まっていくようにしか見えない。最終的なこの世界の運命も、人間が握っているかのように考えられている。それがこの世です。そのような世界に、キリストは来られたのです。そこで、神のなさること、垂直の次元のことを語られたのです。
いや、それだけではありません。キリストの存在そのものがまさに垂直の次元における出来事だったのです。すなわち、神の宣教であり、神の言葉だったのです。キリストの十字架と復活。キリストの昇天。聖霊の降臨。キリストの再臨。神が王として到来し、神が人を救われるのです。神がこの世界を救われるのです。それは既に始まっており、完成するのです。それは神がなさることであり、垂直の次元のことです。だから「福音」なのです。キリストは「福音」を告げ知らせていたのです。
だからこそ、神のなさること、神の救いの良き知らせ、「福音」が語られるところにおいては、常に聞く側が問われることになるのです。「神の国は近づいた」。――そこで、あなたは同じ生き方を続けるのですか。慣れ親しんできたそれまでの生き方をずっと続けていくのですか。人間のことだけ考えて、人間がしてきたこと、人間から受けたこと、人間がしなくてはならないこと、人間にできること――、それだけを考えて、水平の次元のことだけを考えて、これまでどおりに生きていくのですか。そのように水平の次元のことだけを考えていても、形としては宗教的には生きられます。しかし、本当にそれでよいのですか。――神の言葉が宣べ伝えられる時、そこでは常に人間の側が問われることになるのです。
ですから、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われるだけでなく、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです。「悔い改めなさい」。それは単に悪い行いを正せという意味ではありません。そこで求められているのは方向を変えることです。生きる方向を変えることなのです。そこで求められているのは信仰です。福音を信じる信仰です。神を信じる信仰です。不信仰に留まるならば、これまで慣れ親しんだ生活が続いていくだけなのです。
残念ながら、それがあのナザレの人々に起こったことでした。宣教は豊かに実ることもあるし、すべてが徒労に終わることもあり得ます。それは聞く側によって決まるのです。「このように、人々はイエスにつまずいた」。そこでは「神の国は近づいた」という宣言も意味を持ちませんでした。全く新しいことが神によって始まっているという現実も見ることはないでしょう。いみじくも今日の箇所にこう書かれているとおりです。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(5‐6節)。
しかし、それでも主は宣教することを止めませんでした。豊かな実りがあろうが、すべてが徒労に終わろうが、主は宣教することを止めませんでした。主は自ら付近の村を巡り歩いて語られます。さらには十二人の弟子たちを遣わして宣教を続けられます。それは、今日まで続いている教会の宣教を予表しているとも言える姿でした。
実際、主はこの国にまで弟子たちを派遣し、福音を告げ知らせてくださいました。その実りとして、ここに私たちがおります。そして、私たちを派遣して、福音の宣教を託してくださっています。ならば、私たちはこの世にとって異質な言葉を自ら生き、そして語り続けなくてはなりません。豊かな実りがあろうと、すべてが徒労に終わろうと。
(祈り)