2026年7月19日日曜日

「ひたすら神を仰ぐ者に」

2026年7月19日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 9:14‐29

なんと信仰のない時代なのか
 今日の聖書箇所は、イエス様がペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて山から降りてこられたところから始まります。そこで主が目にしたのは、弟子たちが大勢の群衆に取り囲まれて律法学者たちと議論している姿でした。事の発端はどうもこういうことのようです。

 ある人がイエスの弟子たちのもとに病気の息子を連れてきました。その子に現れていたのは「てんかん」のような症状でした。父親は「霊に取りつかれている」と表現しています。当然のことながら、悪い霊から息子を解放して、癒してほしくて連れてきたわけです。

 その症状が現れたのはその子が幼い頃からだと言います。長い間、親も子も苦しんできたのでしょう。病気になれば、それは誰かが罪を犯したからに違いないと噂される社会です。なぜこの子はこんな苦しみを負わなくてはならないのか。いったい誰の罪なのか。――きっと長い間、そのような辛い思いを抱えて生きてきたのでしょう。

 その父親が、神の救いを宣べ伝えるイエスの一行のことを耳にしたのです。「神の国は近づいた」と宣言し、癒しの業をもって、神の憐れみを体現しておられる方のことを耳にしたのです。そして、この父親は神の憐れみを求めて、息子を連れて、弟子たちのところにやってきたのです。

 しかし、結果から言いますと、この子供は癒されませんでした。この父親は失望と落胆に顔をゆがめ、いくばくかの疑いを抱えたまま、そこに立っていたのでしょう。彼はイエス様に言いました。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」(18節)。

 一方、その父親のかたわらで弟子たちは何をしていたのでしょう。律法学者たちと議論していたのです。恐らく癒せなかったことについて律法学者たちに何か言われたのでしょう。もはやこの親子のことは眼中にありません。議論に夢中です。さらに言うならば、そこに集まってきた群衆も同じです。この親子ではなく、議論している弟子たちの方を取り囲んでいるのです。これが山から降りてきたイエス様が目にした光景でした。

 その弟子たちの姿を見て、取り囲む人々を見て、そして父親の言葉を聞いて、イエス様は嘆きながらこう言われました。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」(19節)。

 実に激しい嘆きの言葉です。イエス様がここまで言われるのは珍しいことです。しかし、間違ってはなりません。苦しんでいる親子をそっちのけにして議論している愛のなさを嘆いているのではないのです。そうではなくて、弟子たちや律法学者だけでなく、この父親についても、さらには群衆についても、「信仰がないこと」を嘆いておられるのです。「なんと信仰のない時代なのか」と。

信仰のないわたしをお助けください
 そして、「その子をわたしのところに連れてきなさい」とイエス様は言われました。人々は病気の息子をイエス様のもとに連れてきます。するとその子は引きつけを起こし、地面に倒れ、転び回って泡を吹きました。主はその子について尋ねました。「このようになったのは、いつごろからか」と。

 その後のやり取りは次のように書かれています。「父親は言った。『幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。』イエスは言われた。『「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる。』その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」(23節)。

 「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。この激しい言葉をもって、この父親を信仰へと招いているのです。この父親には今こそ「信じる」ということが必要だからです。失意と落胆の中にある時こそ、そして、過酷な現実が目の前にあるからこそ、不信仰の暗闇に落ちてはならないのです。実際、彼の目の前で息子が泡を吹いて転げまわっているのですから。そして、その現実に対して自分は無力なのですから。何もできないんですから。ならば、信じるしかない。神の憐れみを信じて寄り頼むしかないのです。

 イエス様に言われて、この父親にも分かったのだろうと思います。「おできになるなら」なんて悠長なことを言っている場合じゃないのです。可能だろうか、不可能だろうかなんて言っている場合じゃない。信じるしかないのだ、と。たとえ信じることがどんなに難しくても信じるしかない。だから父親はこう叫んだのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。

 ある意味では支離滅裂な言葉です。しかし、そう言うしかないでしょう。信じることが難しければ助けていただくしかないのです。そうです、助けていただかなくてはならないのは、息子である以前に自分自身なのです。信じることが困難な自分自身なのです。息子のことを神に願う前に、自分自身が助けを必要としているのです。

 それはこの父親だけでありません。本当はあの弟子たちも同じであったはずなのです。苦しんでいる息子が連れて来られた。その息子を解放することができない。自分たちの無力さが明らかにされた。ならは、律法学者たちと議論している場合ではないでしょう。

 弟子たちもまた、無力な自分たちを神の憐れみにゆだねて、ひたすら神の御業を求めるしかないのです。それこそあの父親のように「信じます。信仰のないわたしたちをお助けください」と言って、神に縋り付くしかない。祈るしかない。本来、彼らはそうあるべきだったのです。ですからこの箇所の結論部分において、イエス様はこう言っておられるのです。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(29節)と。

祈りによらなければ
 さて、ここで私たちは、一旦この場面から離れ、かつてこの弟子たちが宣教のために村々に遣わされた時のことを思い起こしたいと思います。イエス様は弟子たちを二人組にして村々へと遣わされました。その時のことが次のように書かれています。「その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(6:7-9)。つまり、イエス様は弟子たちの持ち物をほとんど没収してしまわれたのです。もう神に寄り頼むしかありません。そして、遣わされた弟子たちの様子は次のように書かれているのです。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(6:12‐13)。

 そして、帰ってきて報告するわけです。彼らの報告の様子を聖書はこのように記しています。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。――そのように聖書には「自分たちが行ったこと…を報告した」と書かれているのです。もちろん、本当は弟子たちが行ったのではありません。神様がなさったのです。それは弟子たちも分かっていたはずです。

 しかし、彼らの心が変化していったであろうことは容易に想像できます。きっと彼らは感謝されたことでしょう。癒された人たちから。解放された人たちから。また、その家族から。そのようなことが繰り返されたらどうなりますか。どうしたって「わたしがしてあげた」という思いになるではありませんか。

 そうしているうちに、次第に関心は自分の方に移ってまいります。神を信じなさいと宣べ伝えていながら、自分は神様の方に向かないで自分の方ばかり見ているということが起こり始めます。結局、いつも考えているのは自分や周りの人々のこと、人間のこと、こちら側のこと。信仰とは言いながら、水平の次元のことしか考えていないということが起こります。

 弟子たちは確かにそのようになっていたのでしょう。それは今日お読みした場面にもよく現れているように思います。だから苦しんでいる親子をそっちのけで、議論に熱中するようなことにもなるのです。

 実際そうでしょう。こちら側にしか目が向いていなければ、自分たちが癒せなかったことは大問題です。その事実を人々がどう見るかも大問題です。もちろん自分で自分をどう見なしえるかということも大問題です。弟子としての自信が崩れてしまいますから。だから必死で弁明せざるを得ない。そのための議論です。しかし、彼らが夢中になっていたことは、すべて水平の次元のことなのです。

 本当に重要なことは、悪霊に縛られている息子に対し、またそのゆえに苦しんでいる父親に対して、「神様が何をしてくださるのか」ということなのでしょう。だからこそ、大事なのは信仰だったのです。彼らは信じて求めるべきだったのです。こちら側のことはゆだねて、無力な自分たちをも神にゆだねて、ひたすら神の御業を求めるべきだったのです。だからイエス様は「祈りによらなければ」と弟子たちに言われたのです。

 「なんと信仰のない時代なのか」とイエス様は言われました。しかし、イエス様が求めておられるのは、私たちが自信をもって胸を張って「私は信じています」と言えるようになることではありません。そうではなくて、こちら側ばかり見ている目を転じて、イエス様が指し示しておられる神の国に、神の御支配に目を向けるようになることなのです。

 私たちが自分の無力さを認め、弱さを認め、ボロボロであることを認め、そこからひたすら神を仰ぐ者となることなのです。救っていただかなくてはならないことを認めて、いや、時として、救ってくださる神を信じることさえできない自分であることを正直に認めて、ひたすら主の憐れみを求める者となることなのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだ、あの父親のように。

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