2026年2月22日日曜日

「野獣もいれば天使もいるのです」

2026年2月22日 主日礼拝説教 

聖書 マルコによる福音書 1:12‐15

荒れ野に追いやられて
 18日の水曜日からレント(受難節)に入りました。今日は最初の日曜日に当たります。レントの最初の日曜日には、世界中の多くの教会において「荒野の誘惑」の聖書箇所が読まれることになっています。私たちの教会では、今年はマルコによる福音書の当該箇所をお読みしました。マタイとルカによる各福音書には、イエス様が悪魔から三つの誘惑を受けた話が書かれているのですが、今日お読みしたマルコによる福音書の記述は極めてシンプルです。たった2節しかありません。

 マルコによる福音書における「荒野の誘惑」の箇所においてまず特徴的なのは「イエスを荒れ野に送り出した」という表現です。「送り出した」と訳されているこの言葉、この福音書に何度も出てきます。しかし、ほとんどの場合は「追い出す」と訳されているのです。悪霊を「追い出す」という言葉です。そのような激しい言葉がイエス様について用いられているのです。イエス様は追い出されたのです。荒れ野へと。あるいは「追いやられた」と言ってもよいでしょう。

 「追い出す」にせよ「追いやる」にせよ、そこに表現されているのは強制です。本人の意志とは関係なくということです。そのように本人の意志や願望とは無関係にある場所に置かれることはあります。追いやられることはあります。人間の経験としては、むしろその方が多いと言えるかもしれません。しかし、その言葉がイエス様について用いられることには、やはり違和感を覚えます。きっと違和感を軽減するために「送り出した」と柔らかく訳したのでしょう。

 しかし、この違和感ある言葉がイエス様について用いられていることは嬉しいことでもあります。イエス様を遠い存在としてではなく、身近な存在として思うことができるからです。私たちは追いやられることがある。確かにあります。そして、イエス様もまた「追いやられた」のです。その意味において、今日お読みしたのは確かにイエス様の話なのですが、同時にそれはまた、追いやられることのある私たちの話でもあるのです。

聖霊によって
 荒れ野に追いやられたイエス様に目を向ける時、注目すべき事が一つ一つ見えてきます。今日は三つのことに注目したいと思います。その第一は、イエス様を荒れ野に「追いやった」のは聖霊である、ということです。次のように書かれています。「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」(12節)。

 「それから」と書かれていますが、これは「それからすぐに」という意味です。この福音書によく出て来る言葉です。その言葉によって、直前にあるイエス様の洗礼の場面と結びつけられているのです。

 イエス様を荒れ野に追いやった“霊”については、洗礼の場面において次のように書かれています。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」(10節)。その“霊”は次のような天からの宣言の言葉と共に降ってきたのでした。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11節)。父なる神の愛の宣言と共に降って来た神の霊です。まさに我が子を愛する父の心そのものであるとも言える神の霊です。しかし、その“霊”が、イエス様を荒れ野へと追いやったのです。

 ここから何が分かりますか。荒れ野に追いやられたとしても、それは愛されていないからではない、ということです。荒れ野に追いやられたとしても、それは見捨てられたからではない、ということです。

 「荒れ野」から連想されるのは恐らくいくつものネガティブな言葉だろうと思います。欠乏、飢え、渇き、危険、苦痛、などなど。それらは「愛」という言葉とはどうしても結び着きにくい。ですから、欠乏や苦痛の中に追いやられる時、人は神から愛されていない、見捨てられていると感じるのでしょう。

 しかし、その時にこそ私たちは思い起こさなくてはならないのです。「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」と書かれていることを。イエス様が荒れ野に追いやられたのは、父から愛されていなかったからではありませんでした。それは私たちにおいても同じです。

荒れ野で誘惑を受けられた
 そして、荒れ野に追いやられたイエス様に目を向ける時、注目すべき第二のことは、そこでイエス様がサタンの誘惑を受けられたということです。「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」(13節前半)。私たちが生きている限り、誘惑は避け得ません。しかし、今日の箇所では特にイエス様が「荒れ野において」サタンから誘惑を受けられたことが書かれているのです。荒れ野には荒れ野ならではの誘惑が待っているということです。

 荒れ野に追いやられたという話で思い起こすのは、エジプトから脱出したイスラエルの人たちが荒れ野へと導かれた話です。彼らは自分たちの意志や願望とは無関係に、とにかく荒れ野を旅せざるを得なかったのです。イエス様が四十日間とどまったということも、イスラエルの人たちが四十年荒れ野を旅したことを思い起こさせます。

 彼らが荒れ野へと導かれたのは、明らかに神から見捨てられたからではありませんでした。彼らは神によって救われた人たちです。彼らは、昼は雲の柱によって、夜は火の柱によって常に導かれていたのです。神がそのように彼らと共におられるゆえに、彼らは荒れ野を旅していたのです。

 確かに荒れ野には欠乏があります。危険があります。苦痛があります。しかし、そこはまた神への信仰が培われ、神の恵みを知る場でもありました。彼らは岩から水が流れ出すのを見ました。彼らは天からのマナによって養われました。荒れ野でなければ経験できないような仕方で、恵みの神が確かに共におられることを経験させてもらいました。

 それゆえに、荒れ野はまた、共にいてくださる神に信頼して従うことを学ぶ場でもありました。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)ということを学ぶ場でもありました。そうです。本当の意味で「生きる」こと、神と共に生きることを学ぶ場であったのです。

 しかし、そこにはまた誘惑もありました。彼らが荒れ野における欠乏の中で、不満を抱き、そして、不平を言い続けたことを私たちは知っています。人は欠乏の中にあるからこそ神に思いを向け、神を求めることもできる。しかし、もう一方において、人は欠乏の中にあるからこそ欠乏に思いを向け、神に背を向けることもできるのです。悪魔はもちろん私たちが神に背を向けることを望んでいるのでしょう。悪魔は私たちを神から引き離すために、私たちに対する誘惑として、欠乏や苦痛や危険をいくらでも用いることができるのです。このように、荒れ野には荒れ野ならではの誘惑があるのです。

野獣と共に、天使と共に
 そのように誘惑を受けられたイエス様に目を向ける時、注目すべき第三のことが見えてきます。それは天使たちがイエス様に仕えていたということです。「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(13節後半)。

 荒れ野には野獣がいます。危害を加える存在がいます。イエス様は野獣と共にいました。野獣と共にいるのは荒れ野に追いやられたからです。それが目に見える現実です。しかし、目に見えている現実だけが全てではありません。そこには「天使たちが仕えていた」と書かれています。それは目に見えない現実です。イエス様は野獣と一緒にいました。それは避けられないことでした。しかし、野獣はイエス様を害することができません。なぜなら目に見えない天使が仕えているからです。

 天使と言っても、羽の生えた幼子が飛び回っている姿を思い浮かべてはなりません。クリスマスの物語には天の大軍が登場しますでしょう。そのように、聖書に出て来る天使のイメージの一つは「軍隊」なのです。それはこの世界における神の力強い働きを表現しているのです。ですから、「天使」という言葉に抵抗を覚えるようでしたら、「神のお働き」と言い換えても良いでしょう。どのように表現されるにせよ、大事なことは神がこの世界にも私たちの人生にも関わっておられ、生きて働いておられるということです。

 ここまでイエス様が荒れ野に追いやられたという話を読んできましたが、考えてみれば、これはイエス様の全生涯を象徴している出来事であるとも言えます。天に属する御方がこの世に来られるとは、まさに荒れ野に身を置くことに他ならないでしょう。そこには野獣がいます。確かにいました。イエス様を断罪して十字架にかけてしまう野獣が。祭司長たち。律法学者たち。いや、すべての人間がイエス様にとっては野獣であるとも言えます。

 その野獣によってイエス様は十字架にかけられて殺されてしまいました。野獣しかいなければ、それで話は終わりです。しかし、そこには天使たちが仕えていた。言い換えるならば、神様の御業が進んでいたのです。悪魔の業を打ち砕き、野獣と化している人間を救うための御業が進んでいたのです。そして、確かに神の御業が確実に進んでいたことは、三日目に主が復活されたことにおいて明らかにされました。

 そのような神の御業の中に私たちもいるのです。天使たちが共にいる世界に、私たちもまたいるのです。たとえ荒れ野に追いやられたとしてもです。たとえ荒れ野に長く身を置いていたとしてもです。そこには目に見えない神の力強い働きが進んでいるのです。そこで野獣にしか目を向けられないならば、それは大変不幸なことです。本当は野獣だけが共にいるのではないからです。荒れ野に置かれている時こそ、目に見えないものに目を注がなくてはならないのです。神の大いなる御業の中にあることに目を向けなくてはならないのです。「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」それが信仰の目をもって見るべき、目に見えない現実です。

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