2026年4月26日日曜日

「聖霊の神殿である私たち」

2026年4月26日 主日礼拝説教 

聖書:コリントの信徒への手紙一 3:10‐17

 今年の年度主題は「聖霊の神殿である私たち」です。この一年間、特に聖書が語っている神の霊、聖霊のお働きに私たちの思いを向けたいと考えています。

 私たちの目に聖霊は見えません。家庭においても教会においても社会においても動いて見えているのは人間です。この世界は人間が動かしているように見えますし、いつの間にか人間がすることがすべてであるかのように思い込んでいます。だからこそ、私たちはあえて意識的に、目に見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ必要があるのでしょう。目に見えない神がなさっていることに目を向ける。神の霊のお働きに目を向けることが必要なのです。

 そのために設定されたのが「聖霊の神殿である私たち」という今年の年度主題です。ところで、この「私たち」というのは、第一義的には私たち一人ひとりの個人ではありません。そうではなく、「私たち」として集まって形作っている「教会」のことです。そこでまず、この「私たち」である教会について、聖書の語るところに耳を傾けたいと思います。

イエス・キリストという土台の上に
 今日の聖書箇所において、まずパウロは、「私たち」すなわち「教会」を家にたとえています。家でありますならば、大切なのはまず土台です。教会の土台とは何でしょうか。彼はコリントの信徒たちに次のように書き送っています。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(1コリント3:10‐11)。

 ここに書かれていますように、教会の土台はイエス・キリストです。ここで土台が「イエス」だけでもなく、「キリスト」だけでもなく、「イエス・キリスト」と表現されていることは、それ自体大きな意味を持っています。

 「イエス」というのは人の名前です。歴史上のある時代に現れた特定の個人の名前です。福音書記者のルカは、この方が公に現れた頃を「皇帝ティベリウスの治世の第15年」(ルカ3:1‐3)と記録しています。この方はポンティオ・ピラトという歴史上の人物のもとで裁きを受け、その権力のもとで処刑されました。ナザレの人イエスのかけられた十字架はおとぎ話の中に立てられたのではなく、現実に私たちが生きているこの世界に、この地上に立てられたのです。

 一方、「キリスト」とは、神によって油注がれた者、メシアを意味します。神が世の救いのために遣わされた救い主です。ですから、この「イエス」と「キリスト」が並べられること自体に、強烈な主張が込められていることが分かります。十字架にかけられたあのナザレの人イエスこそ、神の遣わされたキリストであるという主張です。神は、この世界において、この歴史の中において、ただ一度限りの決定的なこととして、メシアを十字架にかけられた。そのことによって、事実として、罪の贖いを成し遂げられたのです。人間の罪がこの世における事実であるように、罪の贖いもまたこの世における事実でなくてはならないからです。

 このキリストであるナザレの人イエスにおいて起こった出来事、そしてその出来事を言い表す信仰の告白こそが、私たちの土台、教会の土台です。そして、誰もこの土台以外の他の土台を据えることはできない、とパウロは言うのです。パウロがコリントの教会の創設者でありましても、パウロ自身は教会の土台にはなり得ない。優れた人間も、高邁な思想も、神秘的な体験も教会の土台とはなりえないのです。土台となり得ないものを土台にしようとすると、その時は立っていてもいずれ倒れて崩れます。教会を考えるときに、私たち自身の教会生活を考えるときに、神が据えられた土台は何であるかを絶えず思い起こさねばなりません。

燃え尽きぬ材料をもって
 続いて、建物を考える上で重要なのはその建築に用いる材料です。パウロはこの材料について次のように語っています。「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」(12‐15節)。

 材料は明らかに二通りに分けられています。「金、銀、宝石」と「木、草、わら」です。その違いは14節と15節に書かれているように、残るものか燃え尽きてしまうものかの違いです。イエス・キリストという土台の上に教会が建て上げられていきます。しかし、それが残る場合もあるし、燃えて無くなってしまう場合もあるということです。どのように建てられたかは、「かの日にそれは明らかにされるのです」と書かれています。「かの日」というのは、「かの日が火と共に現れ」と書かれていますように、これは終末における審判を意味します。

 それは神がまことの神として、キリストがまことの主として御自身を現される時に他なりません。その時に、神との関係がどうであったか、キリストとの関係がどうであったかが問われます。そこにこそ裁きがあるのです。その時に、神の御前で、キリスト・イエスの御前で、残るものと燃え尽きてしまうものとに分かれるのです。その時に教会は吟味されることになります。どのように教会が建てられてきたかが吟味され、明らかにされるのです。

 しかし、私たちは神の裁き、ただ遙か彼方に見ているだけであってはなりません。神との関係がどうなっているかが問われるのは、ただ終わりの日においてだけではありません。この人間の歴史におけるプロセスそのものが、既に神の裁きのもとにあるのです。事実、社会の情勢が変化する中で、教会の置かれている状況が変化する中で、私たちの生活環境が変化する中で、私たちと神との関係がどうであるか、私たちとキリストとの関係がどうであるかが問われることは起こります。私たちが本当に主に従ってきたのかそうでないのかが問われるということは起こるのです。歴史のプロセスの中にも、確かに神の裁きはあるのです。

 そのような裁きの過程において、やはり残るものと燃え尽きてしまうものに分かれるのです。この世的には大きく豊かに見えていたとしても、どれほど多くの人が賞賛するものであっても、それが神の御心に適わないならば、木や草やわらの類で出来たものとして、燃え尽きてしまうのです。その一方で、多くの人の目に留まらなくとも、人の目からは価値無きこと、愚かなことのように見えても、神の御心に適うならば神の御前における金、銀、宝石として残るのです。

 私たちは何を大事にしようとしているのでしょうか。何をもって教会を形作ろうとしているのでしょうか。それは残るものでしょうか。それとも燃え尽きてしまうものでしょうか。私たちはそのことを、絶えず問い直す必要があるのです。

私たちは神の神殿であるから
 さて、私たちは最終的に、そのようにして建てられる教会とは何であるかを知らなくてはなりません。パウロは次のように語っています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」(16‐17節)。

 私たちが求道を始めた時、信仰を求め始めた時、多かれ少なかれ、私たちが考えていたことは、「わたしにとって神は必要であるか否か。わたしにとって信仰は必要であるか否か」ということであったろうと思います。そして、その延長上に、「わたしにとって教会は必要であるか。教会に行くことは私にとって益であるかどうか」という問いもまた存在したことでしょう。

 しかし、それが求道の初めだけでなく、洗礼を受けて何年経っても考えていることが同じであるならば、それはやはり問題であると言えるでしょう。教会が自分のために存在しているかのように考えている。教会が人間のためのものであり、人間の手でどのようにでもできると考えている。もしそうでありますならば、私たちはパウロにこう言われるかも知れません。「あなたがたは知らないのですか」と。

 知らなくてはなりません。私たちは神の神殿なのです。教会は神の神殿なのです。神殿は人によって作られたとしても人間のものではありません。神のものなのです。神のために存在しているのです。「神の神殿は聖なるものだからです」とパウロは言います。「聖なるもの」とは神のものであるということです。

 だから、あたかも私たちのためのものであるかのように扱ってはならないのです。「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう」とまで言われているこの言葉を、私たちは畏れをもって受けとめなくてはなりません。それほどまでに教会は神にとって大切なものなのです。実際にはコリントの教会は問題だらけの教会でした。しかし、それでもなお単なる人間の集まりであるかのように粗末に扱ってはならないのです。私たちは、自分たちが神の神殿とされていることに対する畏れを失ってはならないのです。

 そして、神の神殿とされているという事実にこそ、私たちの喜びもまたあるのです。このような私たちがキリストによって贖われ、罪を赦された者として形作る教会に、神の霊がお住みくださる。そのように私たちを神のものとし、神が共にいてくださる。そこにこそ喜びがあるのです。さらには、6章に書かれていますように、教会を形づくる私たち一人一人のこの体が、神の神殿とされ、神の霊が宿ってくださる。そこにこそ私たちの喜びがあるのです。「知らないのですか」とパウロは言います。私たちは知らなくてはなりません。私たちは神の神殿であり、神の霊が私たちの内に住んでおられるのです。

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