ローマの信徒への手紙 8:12-17
肉に従って生きるのではなく
今日の第二朗読では、次のような御言葉が読まれました。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」(ローマ8:12)。
「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務」という言葉は、恐らく私たちの日常生活では決して耳にすることがない、聖書独特の表現であると言えるでしょう。そもそも「肉」とは何でしょう。パウロが「肉」と言う時、それはいわゆる「肉欲」を指すのではありません。「肉欲」に従って生きることを言っているのではありません。
ここで言う「肉」とは、生まれながらの私たち自身です。いわば信仰を持つ以前の私たち自身、自分の努力と頑張りだけで生きてきた私たちです。それを「肉」というのです。
実際には、信仰者となって後も、この「肉に従って生きる」ということは起こり得ます。神の御心に従って生きたいと願います。信仰者ですから。しかし、相変わらず自分の努力と頑張りによって、自分の力に寄り頼んで、神の御心に従って生きようとするのです。だからパウロは言うのです。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」。
キリスト者はキリスト者らしく生きるべきだ。――それは誰でも考えることだろうと思います。「わたしたちには一つの義務があります」とパウロも言います。何の義務もない。何の責任もない。別にどのように生きても良いのです、とパウロは言いません。しかし、私たちが考えなくてはならないのは、肉に従ってキリスト者らしく生きることではないのです。自分の努力と頑張りで、自分の力を振り絞って、神の御心に従って生きることではないのです。そんなことをしたら「死にます」とパウロは言うのです。
これは肉の内に働く罪の力の大きさを知るパウロだからこそ言える言葉なのです。人間の内にある罪の問題がいかに深刻であるかは、7章においてパウロが言葉を尽くして語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(7:18-20)。
そのような私たちが、それでもなお自分の肉に従って、自分の努力と頑張りによって神の御心に従おうとするならば、どうなるかはパウロにとって明白だったのです。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」と。ならば、大事なことは「肉に従って生きる」ことではないのです。そうではなく、「霊に従って生きる」ことなのです。
では「肉に従って生きる」のではなく「霊に従って生きる」とは、どのように生きることを意味するのでしょうか。パウロはこう言っています。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(14節)。――ここに「霊に従って生きる」ということがどういうことか、はっきりと書かれています。霊に従って生きるということは、神の霊に導かれて生きることです。神の霊に導かれて生きるということは、神の子として生きることなのだと聖書は言っているのです。
霊に従って生きる
では、「霊に導かれる神の子」として生きるとは、どういうことでしょうか。具体的に私たちはどのように「霊に従って」生きたら良いのでしょうか。続きをお読みします。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(15節)。
ここには二つの大事な認識があります。第一は神についてです。私たちが受けたのは、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではない」と書かれているのです。つまり、私たちが信仰者となるということは、神の奴隷のようになることではないということです。言い換えるならば、神は奴隷の主人のような御方ではないということです。
この手紙が書かれた頃、ローマ帝国内には奴隷と呼ばれる人たちがたくさんいました。初期の教会の構成メンバーの多くは奴隷の身分の人たちでした。ですから、パウロが「奴隷」と「恐れ」を結び付けて語っていることについては、感覚的に理解できただろうと思います。
奴隷は主人の言うことを聞きます。奴隷は主人に従います。どうしてですか?言うことを聞かないと打ち叩かれるからです。痛い思いをするのはいやです。だから主人に従うのです。いつ打ち叩かれるか、ビクビクしながら言うことを聞いて一生懸命に働きます。これが奴隷と主人の関係です。
信仰生活がそのような奴隷と主人との関係のようになってしまうことは確かにあり得ることです。神様の言うことを聞かないと打ち叩かれる。間違ったことをしてしまったら罰を与えられる。御心に沿わないことをすれば災いに遭う。最終的には救われることもなく、神の国からも締め出される。それはとても恐ろしいことだから神様の言いつけを守る。従順に生きようともする。いつ神様に怒られるか、ビクビクしながら神様に従う。――皆さん、もしそうならば、それは奴隷と主人の関係以外の何ものでもありません。
そこから生まれるのは何ですか。「肉に従って生きる」という生活でしょう。頑張って、努力して、神様に認めてもらうしかないのですから。しかし、パウロは言うのです。あなたがたが受けたのは「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」ではありません、と。
そこで大事なもう一つの認識があります。それは私たちについてです。「あなたがたは、…神の子とする霊を受けたのです」。ここに「神の子とする」とありますが、実際には「養子にする」という言葉が用いられているのです。私たちは「養子にされたのだ」というのです。
私たちは自分が神の子どもとしてふさわしいかどうか、いつも自分の方を見て考えるのでしょう。そして、自分はふさわしくないなどと口にするかもしれません。しかし、養子にするかどうかは神が決めるのです。神が受け入れるならば、私たちがふさわしかろうがなかろうが関係ないのです。神が受け入れてくださるならば、私たちは神の養子となるのです。
そもそも、ふさわしいかふさわしくないかを言うならば、もとより私たちは皆、ふさわしくはないのです。どう考えてもふさわしくないのです。だから、特別な手続きが必要だったのです。
養子とする霊、聖霊が降って教会が誕生する前に、この地上において何が起こったのかを皆さんはご存じでしょう。イエス・キリストの十字架と復活です。イエス様が十字架において私たちの罪を全て代わりに負ってくださった。私たちの罪を贖ってくださった。だからこそ、私たちは罪を赦された者として、安心して養子となることができるのです。
そして、パウロが念頭に置いているローマの養子縁組においてはもう一つ大事なことがありました。一度養子とされるならば、子どもとしての権利に完全にあずかることになるのです。つまり、養子となった場合、その家に実の子どもがいたとしても、なんら区別はなされないのです。親との関係において、立場的には全く同じところに立つことになるのです。
これを神との関係において考える時に、私たちは驚くべきことがここに語られていることに気づきます。父なる神との関係において「実の子」と言えば、それはイエス様ではありませんか。しかし、私たちが「養子とされる」ということは、立場的にはイエス様と全く同じところに立つことになるのです。ですからその後には「キリストと共同の相続人」(17節)などと書かれているのです。これこそが、私たちの持つべき自己認識です。
それは何を意味するのでしょう。イエス様がこの地上で神を「アッバ、父よ」と呼んでいたように、私たちも同じように「アッバ、父よ」と呼ぶことができるということです。ですから15節にはこう書かれているのです。「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と。
「アッバ」というのは、小さい子が親しみと信頼を込めて「パパ」と呼ぶのと同じです。私たちは福音書を読む時に、そのように父の名を呼び続けながら地上の歩みを進められたイエス様の姿を見ることになります。しかし、なんとそこに私たちもいるというのです。私たちも同じように父の名を呼んで、祈って生きることができるのです。そして、父なる神が御子なるイエス様に応えられたように、私たちの祈りにも父として応えてくださるということなのです。
このように、私たちが神の子どもとして生きるということは、具体的には「アッバ、父よ」と呼びかけながら、祈りながら生きていくということに他なりません。神の霊に導かれた神の子どもとして生きるということは、絶えず祈りながら生きるということなのです。
私たちが祈ることをやめてしまうなら、私たちは必然的に、肉に従って生きることになるのでしょう。そして、肉に宿っている罪との戦いに負け続け、敗北感に苛まれるだけの信仰生活となってしまうかもしれません。その敗北感を回避したければ、結局は表向きだけを繕いながら生きるか、あるいはキリスト者としての生活を放棄するか、そのいずれかになってしまうことでしょう。
その意味でも、「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」という言葉は真実です。そうならないためにも、私たちは共に神の子どもたちとして父を呼びながら生きていくのです。私たちが今そうしているように、共に集まって礼拝を捧げ、共に父に依り頼みながら、悔い改めながら、赦していただきながら、助けていただきながら、父に寄り頼んで生きたらよいのです。天の父を呼び続ける祈りの生活を失ってはなりません。せっかく養子にしていただいたのですから。
2026年5月31日日曜日
「神との養子縁組」
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