2026年5月17日日曜日

「心の目を開いてください」

2026年5月17日 主日礼拝説教 

聖書:エフェソの信徒への手紙 1:15‐23

心の目を開いてください
 「心の目を開いてくださるように」。今日お読みした聖書箇所にそう書かれていました。パウロの祈りです。「心の目を開いてくださるように」。それは、この肉の目では見えないからです。どんなに頑張って目を凝らしても肉の目では見えない。だから心で見るしかないのです。それは何か。――「希望」です。聖書の表現によれば、「神の招きによってどのような希望が与えられているか」(18節)ということ。これは肉の目には見えないのです。開かれた心の目でなければ見えないのです。

 「神の招きによってどのような希望が与えられているか」。――聖書は「神の招き」について語ります。そう、私たちは神に招かれて、神に呼ばれてここにいるのです。教会に身を置いていること、神を礼拝していること、聖書の言葉に耳を傾けていること、神を信じていること、洗礼を受けたこと、これらすべてのことは、単に私たちがそうしたいと思ったから実現したのではありません。そうではありませんか。

 ここに至るまでに、私たちの意志とは無関係に与えられた様々な出来事や様々な出会いがあったはずなのです。それらはすべて向こうからやってきたものです。向こうからやってきた全てを通して、神が招いてくださいました。そのようにして、私たちは集められたのです。ですから、そのような集まりは昔から「エクレーシア」と呼ばれていました。それは当時の一般的な市民集会を指す言葉です。日本語ですと「教会」と訳されます。しかし、「エクレーシア」とはもともと「呼び集められたもの」という意味の言葉なのです。

 神が集められたのならば、そこには神の意図があるはずです。人が薪を集めるなら、それは火にくべるためです。神が人を集めるならば、それは地獄の火にくべるためであってもおかしくはありません。人間の罪深さを思い、自分自身の罪深さを思うならば、それもまた一つの可能性であり、本来ならばそちらの可能性の方が高いとも言えます。

 しかし、集められた私たちは全く異なる言葉を聞いたのです。イエス・キリストは私たちの罪の贖いとして十字架にかかってくださった。その十字架のゆえに「あなたの罪は赦された」という宣言を聞いたのです。私たちは集められて――福音を聞いたのです。私たちは、イエス・キリストの神、イエス・キリストをこの世に送ってくださった神が、私たちを集めてくださったのだということを知らされています。言い換えるならば、神が私たちが集めてくださったのは、私たちを救うためであることを、私たちはキリストを通して知らされたのです。

 私たちを愛し、赦し、救ってくださる神が、私たちを招いてくださった。それが私たちの希望の根拠です。救いの神によって招かれた――だから既に希望は与えられているのです。招かれたことにおいて、原理的には既に希望は与えられているのです。

 しかし、与えられたものが見えているかどうかはまた別の話です。持っていることと、それを見て喜んでいることとは別の話です。持っていても見えていないがために、全く喜んでいないことはいくらでもあり得る。だからこそ「見える」ということが必要なのです。

 パウロにははっきりと見えている。しかし、エフェソの教会の人たちにはどうも見えないらしい。だからパウロはエフェソの教会のために神様に祈っているのです。「心の目を開いてくださるように」と。それは私たちのための祈りでもあります。皆さんは、聖書の中でパウロの書いていることと自分自身の生活との間に、ギャップを感じることはありませんか。私はよく感じるのです。パウロには見えていることが私たちにはまだ見えていない。そう思わざるを得ないことがたくさんあるのです。だからもっと見えるようになりたい。それゆえにパウロの祈りは私のための祈りでもあるのです。「心の目を開いてくださるように」。これは私たちのための祈りの言葉です。

受け継ぐべき栄光の富が見えるように
 さて、そのように「心の目を開いてくださるように」と祈って、見えるようになりたい希望の内容について、もう少し細かく見ていきましょう。希望の内容は大きく二つあります。希望の内容の第一は未来に関すること、第二は現在に関することです。第一は神の国に関すること、第二はこの世の生活に関することです。

 まずは未来に関すること。「神の招きによってどのような希望が与えられているか」。心の目によって見るべき希望とは何か。パウロはこう言い換えています。「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(18節)。「聖なる者たち」とは、いわゆる特別な「聖人」のことではありません。パウロが「聖なる者たち」と言う時、彼は信仰者について語っているのです。ここで語られているのは、信仰者が「受け継ぐもの」です。

 それを言い換えると「神の国」となります。これは私たちの最終的な救いに関わる希望です。そして、受け継ぐべき「神の国」について語る時、彼が用いているのは「どれほど豊かな栄光に輝いているか」という表現でした。これは直訳すると「栄光の富」という言葉です。そうです、「栄光の富」を受け継ぐのです。

 「栄光」というのは、もちろん神の栄光のことです。17節に「栄光の源である御父(直訳では「栄光の父」)」と書かれている通りです。つまり、その「富」、その豊かさは、この世から受ける富ではない。栄光の神から受ける豊かさだということです。パウロが未来について、神の国について考える時、真っ先に頭に浮かんでくるのは、神から受けることになる、とてつもない豊かさが待っているというイメージだったのです。

 さて、エフェソの信徒への手紙はパウロの「獄中書簡」の一つです。実際には、この手紙を書いた時、パウロはその信仰のゆえに獄中にいるのです。かつて彼が持っていたもの一つ一つを失って獄中にいるのです。そして、最終的には自分の命さえそこで失うことを覚悟しているのです。それはある意味でパウロに固有のことではありません。獄中にいなくとも、ある程度長く生きていれば、私たちもまた、一つ一つを失いながら、手放しながら、生きることになるのでしょう。そして、最後には自分の命をも失います。

 この世のことしか考えられなければ、すべてを失って終わりということになるのでしょう。この世の人生しか考えられなければ、それが人生の結論です。しかし、この手紙を読んでも、他の手紙を読んでも、パウロは失った一つ一つを数えて嘆いてはいないのです。なぜか。――来るべき世において受け継ぐべきものが見えているからです。受け継ぐべき神の国が見えているからです。神から受けるべき栄光の富が見えているからです。開かれた心の目によって、神の招きによって与えられた希望が見えているからです。

 「心の目を開いてくださるように」。――これは私たちのための祈りの言葉です。

絶大な働きをなさる神の力が見えるように
 そして、第二は現在に関することです。この世の生活に関することです。パウロは祈りをこのように続けます。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(19節)。「この絶大な働きをなさる神の力」ということで語られているのは、私たちの現在に関する話、この世の生活に関する話です。

 私たちはこうして共に神を礼拝し、神と共に歩む生活において、来るべき神の国を、神の救いの豊かさを、ある意味では、既に味わい始めています。しかし、もう一方において、この世に生きる限り、私たちには戦いがあります。信仰生活には喜びがあるだけでなく、苦闘もまたあるのです。私たちにとって、信仰生活における戦いの戦場はどこにあるのでしょう。家庭でしょうか。学校でしょうか。職場でしょうか。この社会でしょうか。

 しかし、私たちは、家庭の中や社会の中に戦場があると思っていてはならないのです。そうではなくて、戦場は私たち自身の内にあるのです。本当に勝たなくてはならない戦いは、私たち自身の内にあるのです。ですからパウロは「**わたしたち信仰者に対して**絶大な働きをなさる神の力」と言っているのです。「わたしたち信仰者に対して」と書かれていますが、厳密には「わたしたち信仰者の**内に**」という意味の言葉なのです。

 神の力が働くのは、第一には「私たちの内に」なのです。私たちの周りにではありません。私たちは周りの状況が変わることを求めているかもしれません。周りの人たちが変わることを求めているかもしれません。しかし、神が変えようと思っているのは、まずは私たち自身なのです。「信仰者の内に」神の力が働くのです。

 そして、わざわざ「**信仰者の**内に」と書かれていることを見落としてはなりません。「信仰者」とは「信じている人」という意味です。過去に「信じた人」ではありません。今「信じている人」です。まわりの困難な状況の中で信じることをやめてしまう人ではありません。神はまわりの状況を変えてくださらない、と言ってブツブツ言う人ではありません。信じ続ける人です。本当の戦いは自分の内にあることを悟って、自分が変えられなくてはならないことを悟って、神に信頼し続ける人です。そこにこそ神の力が働くのです。

 その力について、パウロは次のように表現しています。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(20-21節)。――この力が、私たちの内に働くのです。キリストにおいて、復活という大逆転勝利をもたらした、この復活の力が、私たちの内にも働くのです。

 神の国には期待するけれど、この世の人生には何も期待しない。そんな歪んだ信仰者にならないようにしましょう。「どうせ何も変わらないさ」と言いながら、何も新しいことを期待しない、希望をもって自らの人生をも見ることができない。そのような信仰者にならないようにしましょう。そのためには、私たちの心の目が開かれていくことが重要です。どれほど大きな力を信仰者の内に働かせようとしておられるのか、そのことがもっともっと見えるようになるように、そして、常に神に対する大きな期待をもって生きていくことができるように、「心の目を開いてくださるように」と祈り求めていきましょう。

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